# 21
金曜日、週の最後の出勤日。
けれども、今週は今日が最後ではない。誤計算問題が発覚して初めての週末を迎えるのだ。対象者への書面も届き出し、土日も営業しているコールセンターへは多数の問い合わせが入ることが予想される。それに対処するため、土曜日は自分が、日曜日は伊藤が交代で出勤することになったのだ。
どうせ自分には家族も恋人もいないので、突然の休日出勤を命じられても特段困ることはない。
古山は、そんなことを考えながら溜め息をついた。そして、コールセンターからの報告のメールに目を戻す。
今日の昼頃、有名企業に勤める50代後半の男性から、書面を見て苦情の電話が入った。男性は過少徴収の対象者で、保険料の差額を返金する必要があったが、会社の不手際にもかかわらず顧客に返金を求める姿勢に苦言を呈した。担当者はマニュアルに沿ってSVに相談し、SVの許可のもと特別に返金を免除する旨を案内した。
すると男性は、そういう問題ではないとかえって激怒してしまった。自分はたかだか数百円が惜しいのではない。会社の対応について意見を述べているのだ。怒られたから、じゃあお金はいいですとは何事だ。金で人を黙らせようとするのか。大人しく支払った人の損ではないか、と。
最終的に、返金には応じるが、こんな対応はおかしいと上層部に伝えておけと言い残し、男性は電話を切ったという。
この件に関しては、明らかにコールセンターの対応が至らなかった。対応者には想像が及ばなかったのかもしれない。大企業に勤める壮年男性の心情が。単なる金銭的な損得の話ではないのだ。ついでにいうと、会社としての対応がどうとか、大人しく支払った人がどうとかいうのも建前にすぎない。
本当は、自分が数百円をせびる小さい男だと思われたことに腹を立てたのだ。
――プライドの問題でしょ。
小窪の誕生会の日に、自分に向けられた言葉が頭をよぎった。男性社員たちから、なぜ結婚しないのかとか、稼いでるんだから相手の収入など気にせず誰とでも結婚すればいいのにとか好き放題に言われ、笑顔でかわしていたときのことだった。その場にいた商品開発部の和智がこう言い放ったのだった。
――プライドの問題でしょ。せっかく大企業で稼いで、自分の価値を高めてきたのに。そういうプライドが邪魔して、理想を下げることができないんでしょ。
鋭い指摘に、何も言い返せなかった。そして、その会話を聞いていた小窪が、さらに追い打ちをかけるように言った。
――でもかわいそうに。君は確かに調整役としては優秀だけど、管理職になれるタイプじゃないね。中にはお嫁さんになれない代わりに頑張って出世を目指すような人もいるけど、君はどっちも中途半端。ま、適材適所ってことで、うちでずっと面倒見てあげるよ。
今思い出しても、はらわたが煮えくり返る思いだ。女としての幸せをつかみ損ねたことをあれこれ言われるのはまだ慣れているが、自分の仕事ぶりまで否定されるなんて。これまで自分がプライドを持って担ってきた仕事は、その程度にしか思われていなかったということか。
そんなことを言われた日の帰りに、恵人と一緒にいる佑希の姿を目撃した。自分は何者にもなれないままプライドばかり強固になっているというのに、佑希はいとも簡単にそれを乗り越えた。そんな佑希がたまらなく妬ましかった。
◆
佑希は時計に目をやった。午後5時50分。
昨日コンプライアンス部に対して啖呵を切ったことは、後から前島に怒られた。けれども、結果的に緊急対策会議で承認が下り、顧客に送る文書が作成される運びとなった。もちろん、これから協議されるであろう具体的な再発防止策ではなく、よそ行きの大まかな文言になる予定だ。それだけでも充分驚くべきことだった。
とはいえ、さすがに昨日の今日でできるものでもないし、顧客への返事は来週に持ち越しだろう。そう思った矢先、メールが入った。
差出人はコンプライアンス部の藤原だった。メールを開いてみると、なんとそこには完成した顧客宛て文書のデータが添付されていた。
佑希は急いで添付ファイルを開き、内容を目で追う。
すると、背後から前島が近づいてきて言った。
「やれやれ。向こうも仕事が早いなあ」
「課長!」
佑希は振り返った。
「とは言っても、多分いつだかの文章の使い回しで、お客さんからすればこれでも決まりきった文句にすぎないんだろうけどね。これ以上は無茶言うんじゃないよ」
「もちろんです!」佑希は立ち上がって言った。「あの、今回のことは、本当に……」
前島は、鼻をかきながら言った。
「藤原くん、私が小窪常務の悪口をこぼしたのを水野さんが真に受けたんだろうと言ったら笑ってたよ」
佑希はびっくりして前島を見上げた。
「さ、早く藤原くんにお礼言って、柏木さんにも教えてあげて」
佑希は、「はいっ」と元気に返事をしてデスクに向き直った。
藤原に内線をして、早々の対応にお礼を言うと、藤原はフンと鼻を鳴らした。
「僕らもそんなことに時間を割いてられませんから、チャチャっとやっときましたよ。これでよければ、さっさと送ってもらってください」
「はい、そうさせてもらいます」
佑希はそう答えた。この人も嫌味なところはあるが、悪い人ではなかったのかもしれない。
藤原との電話を終えると、佑希はメールを柏木に転送し、コールセンターに電話を入れた。
「助かりました。迅速に対応していただいてありがとうございます」
柏木は安心したような声で言った。
「さすがに具体的な内容までは載せられませんが、この内容で大丈夫でしたか?」
藤原や前島と話していたときには、これ以上ないくらいの対応ができた気になっていたが、柏木や顧客の姿をイメージした途端、少しだけ不安がよぎった。文書は、時候の挨拶にお詫びの文言、そして、誤計算の原因がシステムの設計ミスであることや、システム開発時のチェック方法の改善とマネジメント強化を図る旨が記載されたシンプルなものにすぎない。
「充分です。後はトークでカバーするので。早速架けてみますね」
柏木はそう言ってくれた。その答えが、頼もしかった。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」そう言ってから佑希はまた時計に目をやる。「あ、でも今日はもう……」
「大丈夫です。お客様が待ってますから、今日中に電話します」
柏木は明るい声で、力強く答えてくれた。
◆
それから1時間ほど経って、柏木から電話が入った。
「無事ご納得いただきましたよ」
その言葉を聞いて、佑希はホッと胸をなでおろした。
「書面が届いたらご確認いただけるとのことです。こちらから明日付で間違いなく送付しますので」
「本当にありがとうございます」佑希は電話口で頭を下げた。「お客さんはもう落ち着いていらっしゃいましたか?」
「はい。それどころか」柏木は面白そうに言った。「今日はいろいろなお話を聞かせてくれたみたいですよ。3人いらっしゃるお子さんのこととか」
「え、その方子ども3人もいて社長やってるんですか!?」
佑希は思わず訊き返した。
「そうなんですよ。もともと、お子さんたちを養うのに家計の足しになれば、くらいの気持ちで在宅で働き始めたのがきっかけだとか。それが、自分が働けなくなったら家計が回せないってくらいにまで事業が拡大して、それで、この商品ができたときに真っ先に加入してくださったんですって。それなのに今回のことが起きてしまって、本当に子どもたちの生活をかけるに足る会社かどうか試したかったそうなんです」
佑希は、胸にストンと落ちるものを感じた。
「本当に水野さんのおかげです。私ったら、つい水野さんにいろいろ頼んでしまったけれど、本当に水野さんに頼んでよかったです」
佑希は慌てて返した。
「いえ、そちらの対応がよかったからですよ。今後ともよろしくお願いします」
それに、自分は話を繋げただけで、実際に尽力してくれたのは別の部署だ。それでも、柏木の感謝の言葉に、晴れやかな気持ちになった。
ふと思い出して、佑希はつけ足した。
「対応は、そちらの伊勢さんが?」
「はい」
「課長の前島が、伊勢さんのお名前を見て懐かしそうにしていました。どうぞよろしくお伝えください」
「はい、こちらこそ、前島課長によろしくお伝えください」
佑希はもう一度お礼を言って、電話を終えた。そして、長い息を吐いた。
異議を唱えていた一人の顧客が、首を縦に振ってくれた。ただそれだけのことだ。だからといってこの誤計算問題そのものが解決する訳ではない。何か会社に利益をもたらす訳でもない。むしろここまでするのにどれだけのコストが掛かっただろう。
それでも、そこには一人の生身の顧客がいた。自分には想像もできなかった生き方をしている、一人の人間が。その一人の信用を、繋ぎ止めることができたのだ。
前島に報告しようと思ったが、席を外しているようだった。ひとまず、前島もCCに入っている藤原からのメールに、対応完了の旨を返信した。
ホッとしたからか、佑希は急に疲労感を覚えた。コーヒーを求めに自販機へと向かう。
紙コップにコーヒーが注がれると、佑希は自販機脇にあるカウンターに寄りかかり、コップに口をつけた。心地よい苦みが口の中に広がる。
激動の1週間が終わった。
いや、本当は終わっていない。古山も伊藤も、この週末は休日出勤だという。それに、コールセンターは普段から土日関係なく稼働している。営業現場も対象者への訪問に動き出す。本当に頭の下がる思いだ。
実のところ佑希も休日出勤に手を挙げたのだが、本来「くらしサポート」に関する業務は担当外なので、そこまでさせられないと却下されてしまった。佑希としては、イレギュラー対応で滞ってしまった通常業務をこっそり進めたいというのもあったのだが。
仕方ない。今日も終電コースになりそうだ。どうせ予定もないことだし……
……あれ? そういえば、何か忘れているような……
「水野ちゃん」
声を掛けられ、佑希は振り向く。いつの間にか古山が立っていた。
「よかったね。例のお客さん、無事対応終わって」
「すみません、いろいろと出過ぎたことを……」
佑希は咄嗟にそう返した。
「何言ってるの。手伝ってくれて、すごく助かってるよ」
古山は笑顔で言った。
「そう言っていただけてよかったです」
「そういえば」古山は思い出したように言った。「あいつも、大活躍だってね」
「あいつ?」
佑希はキョトンとして聞き返す。そして、“何か忘れていた”の“何か”を思い出し、「あっ」と声を上げる。
「そう、武田くん」
そうだった。後でLINEを返そうと思いながらそのままになっていた。あろうことか、仕事のことで頭が一杯で、すっかり意識から抜け落ちていた。
「保険金部の同期から聞いたんだけど、武田くん、今回の件で社員に交じって応援に出てるんだってね」
「応援?」
「あれ、本人から聞いてない? ほら、取り過ぎた分の返金とか、書類の金額の訂正とか、その辺の事務作業で人手が必要だからって、いろんな部署からかき集められてるじゃない」
「ええ。その業務に……武田くんが? 普通、契約の関係で派遣社員に他部署の仕事はさせないんじゃ……」
「うん。それにも経緯があってね。武田くんったら、部内が応援でバタバタしてて自分まで仕事が回ってこないからっていって、自分を応援に行かせろって社員に食って掛かったんだって。普通そんなことしたら余計なこと言うなって怒られそうなもんじゃない? でも、ちょうどその様子をリスク管理部の
「リスク管理部の、酒井課長?」
佑希は訊き返した。名前は聞いたことがあるが、顔が思い浮かばない。
「ほら、覚えてない? 小窪常務の誕生会で私たちのテーブルにいて、武田くんが何かいいこと言ったときに賛成してた人」
「ああ!」
思い出した。恵人が生き方について話していたときに、元気よく合いの手を入れてくれた男性がいた。古山は話を続ける。
「その酒井課長がちょうど、もう1人くらい応援出せないかって保険金部に打診しにきてたところだったんだって。そんなときに武田くんが応援行かせろとか言ってたもんだから、じゃあおいでよって感じでかるーくOK出たんだって」
「軽っ」
「で、仕事させてみたらそれがもう優秀で。ほら、社員ってたいてい管理業務ばっかりで、入力とかの実務は弱い人多いじゃない。まあそういう役割分担だからそれが悪い訳じゃないけど。で、その中で武田くんが抜きんでて仕事が早くて正確で、もう大活躍だってさ」
古山は面白そうに話した。そして、顔を近づけて言った。
「水野ちゃんと一緒ね」
「え?」
「会社のピンチに、熱くなって周りに食って掛かって、でもちゃんと結果を残す。似た者同士なんじゃない?」
佑希は顔が熱くなるのを感じた。ついさっきまで存在を忘れかけていたというのに、途端に恵人のことが愛しくなってきた。
それにしても、古山はこんな話をして大丈夫なのだろうか。恵人のことを目の敵にしていたというのに。窺うような目で古山を見返すと、古山はゆっくりと口を開いた。
「それで……謝らなきゃと思ってたんだけど……この間は、ごめんね。ひどいこと言って」
唐突な謝罪に、佑希は目を見開いた。
「武田くんは何も悪くない。私はあなたたちの関係に口を挟める立場でもない。ただ私があのときイライラしてただけだったの。2人には関係ないことなのに、私は、自分の気持ちを水野ちゃんにぶつけて……」
そう言いながら、古山はうつむいた。
そうだったのか。佑希は、いつも完璧に仕事をこなす先輩の、人間らしい一面を垣間見た気がした。
「大丈夫ですよ」佑希は微笑んだ。「私もそのおかげで、自分の気持ちを確かめる時間が持てました」
古山は驚いたように顔を上げた。そして微笑んだ。
「ありがとう、水野ちゃん」
そうだ。その通りだ。一度恵人の誘いを断ってしまったこともあったけど、そのおかげで自分の気持ちは確かになった。やはり自分は恵人のことが……
そんなことを思っていたら、一刻も早く恵人に逢いたくなってきてしまった。さっきは今日も終電だなんて考えていたけれど……
そんな佑希の心中を察するかのように、古山は声を掛けた。
「よし、今日はさっさと帰れるように、残りの仕事片付けるよ!」
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