# 20
「すみません、こんなときに不在にしていて。水野さんにもいろいろ対応していただいたみたいで」
木曜日の朝、伊藤は出勤してくるなり頭を下げた。
「大丈夫。引き続き私もサポートに回るから。伊藤くんも出張の後処理とかあるだろうし、何でも頼って」
佑希はそう答える。今は部の一員として、自分にできることをやりたい。
そして10時を迎え、大洋生命のウェブサイトに今回の誤計算に関するニュースリリースが載る。その後、ニュースリリースの内容は複数のネットニュースにも掲載された。
ニュースリリースには、誤計算の発生した対象者はすでに特定されていることや、対象者には個別に書面を送っていることも明記しているのだが、それでもコールセンターには自分も対象者かどうか尋ねる電話が相次いだ。
コールセンターは、この問題の発覚の遅れに対する反省から、些細なことでもこまめに報告をしてくるようになった。上がってくる報告のほとんどは取るに足らないことだった。佑希としては、そこまで神経質にならなくてもいいと言いたいところだが、立場上そうはいかない。
「まあ、今のところ想定の範囲内だね」
古山はサンドイッチを片手に言った。
「そうですね。古山さんが周到に備えてくださったおかげですよ」
伊藤が、焼きそばパンを頬張りながら古山を持ち上げる。
「よかったですー。一時はどうなることかと思いましたー」
福留が、3段弁当を広げながらのんびりと言った。
「いや、あなたは変な方向に心配し過ぎなのよ」
ツナマヨのおにぎりを食べながら、佑希は言った。
「まあ、この調子で済んでくれればいいんだけど」
古山がぽつりとそう言った。
しかし、そうはいかなかった。
「2時間半……ですか!?」
佑希は、電話口で思わず訊き返す。
電話の相手は、コールセンターのインバウンド部門で課長を務める
彼の話によると、午後2時頃、過徴収の対象者から書面を見てクレームの電話があったという。その顧客は、オペレーターが出るなりすぐに上位者対応を希望し、SVが1時間ほど対応したがさらに上を出せと言い出した。係長の柏木がその電話を替わったが、1時半近く経った今も電話を切らせてもらえず、関谷のそばでまだ話を続けている。
厄介なことに、その顧客は会社の非を逆手にとって金銭を要求してきていた。
「これまで過剰に保険料を引き落としてきたことに対して、会社は何をしてくれるんだと。会社としての対応については即答できないと伝えると、おまえが責任者ならおまえが決めろ、決められないならもっと上に替われの繰り返しです。解約も匂わせてくるんですが、本当に解約する気はないらしく話が堂々巡りで」
「分かりました。取り急ぎ、その方の証券番号だけ教えてください。こちらもすぐに対応を確認してみます。柏木さんには、具体的な話は一切出さず、なるべく相手の話をかわすようにしてもらってください」
佑希はそう答え電話を終えると、証券番号から顧客情報を検索し、前島の席へ報告に向かった。いつの間にか席に戻っていた伊藤が申し訳なさそうにこちらを見ていたが、声を掛けている余裕はなかった。
前島の了承を得て、対応を確認するためにリスク管理部へ問い合わせる。内線に出た相手は、佑希の話を聞くとあからさまに難色を示した。
「えーっ、そんなのお客の要求飲んでお金渡す訳にもいかないでしょう。普段なら断ってるんでしょう」
「それなら会社の方針として要求には応じられないとお答えしていいですね」
佑希はそう言い返す。
「ちょっと待ってください。そんなこと言ってないでしょう」相手は慌てて言った。「だいたい、金銭要求っていっても、どんなニュアンスなんですか。ただ脅しで言ってるだけなのか、何か具体的な損害を被ったと言ってるのかでも対応変わりますよ。本当なら詳細を報告書に書き起こしてほしいところですけど、それが無理ならせめてもっと詳しく対応時の状況を聞かせてください。状況が分からないと、判断のしようがないでしょう」
こちらとしては、少しでも早く、解決のための糸口だけでも見つけられたらと思って連絡してみたが、相手はそう思ってはくれなかったようだ。しかし相手の言うことももっともなので、佑希は一旦引くことにした。
「分かりました。ひとまず担当部署にもう少し詳細を聞いてみます」
そして関谷へ架け直すが、ちょうど他の電話に出ているところだった。
佑希は少し考えたのち、PCに向き直った。そして、コールセンターの録音を聞くためのシステムを立ち上げる。大洋生命も他の一般的なコールセンター同様、通話はすべて録音されており、専用のシステムにログインすることで録音が聞けるようになっている。どのみち関谷に状況を聞いても、向こうも又聞きでしかない。それならば自分で直接、柏木と相手との通話を聞いてしまった方が早い。
該当の通話を検索すると、イヤホンをPCに差し込み、再生ボタンを押す。
「――大変お待たせいたしました。お電話替わりまして係長の柏木でございます」
耳に入ってきたのは、低いトーンの女性の声だった。佑希はぞくりとした。
柏木の声は、つい数日前に話したときとは別物だった。これがクレーム対応の現場というものか。
「ああ!!?? 俺は上司出せっつったんだぞ!?」
そこに、耳をつんざくような男の怒鳴り声が飛び込んできた。佑希は咄嗟に一時停止を押す。
佑希は一瞬放心状態になり、PCの画面を眺めた。心臓がバクバクしている。
怒鳴りこんでくる人なんてコールセンターでは珍しくない。頭では分かっていたが、実際にその声を聞いて、改めてコールセンターがどんな人を相手にしているのかを感じ取った。
佑希は一息ついて音量を落とすと、もう一度再生ボタンを押す。
「――何でまた女が出てくんだよ! 男に替われ!」
その言葉に佑希は眉をひそめる。
「
柏木は少しもたじろぐことなく、毅然と答えた。
その態度に、佑希は胸がすく思いがした。
自分にはできないことを、柏木はやってのけている。
柏木への尊敬とともに、こちらも尽力しなければという思いに駆られた。まずは相手の要求のポイントを抑えることだ。佑希は会話を早送りしようとした。
するとそこに、視線を感じた。
顔を上げると、隣の席から派遣社員の
「あのう……テレサービスの柏木さんからなんですけど……」
「!」
佑希は慌てて電話を替わった。
「あ、水野さん、お世話かけましたー。例のお客様、無事対応終了しましたー」
柏木は、先程聞いた声とは打って変わって明るい声でそう言った。佑希は、拍子抜けして訊き返す。
「対応……終了? どうやって?」
「なんだかずっとお話聞いてたら、相手も根負けしたみたいで、もういいやって言ってくれました。最後には、頑張ってねなんて言われちゃいました。なので、対応は不要です。契約も継続で。どうもお騒がせしました」
佑希はポカンと口を開けた。あの怒鳴っていた相手を諦めさせるだけでなく、激励までされてしまうとは。改めて柏木への尊敬の念が湧いた。
「よかったです。どうもありがとうございます」
何度も頭を下げて、佑希は電話を置く。時計を見ると、5時過ぎになっていた。
結局、3人合わせて3時間、うち柏木が2時間も対応したことになる。自分なら、そんな電話を終えたらヘトヘトになっているだろう。けれども柏木は、疲れた様子など微塵も見せず、あっけらかんとした様子で電話をくれた。
もしかすると、こんな長時間対応も自分が思っているほど珍しくはないのかもしれない。今回は会社側のミスということでコールセンターの対応も慎重になっていたために、関谷も通話終了を待たずに報告を上げてくれたのだろう。けれども普段から、報告を上げるまでもなくコールセンター内でうまく話を収めてくれている案件もたくさんあるのだろう。いつも話が大きくなった案件だけが自分たちのところに来るので、その大切な事実を忘れかけていた。
リスク管理部に報告をし、だったら最初から連絡してくるなと小言を言われ、前島に報告をし、一緒に安堵する。
別の階に他の用事を済ませに行って戻ってくると、デスクにイチゴのクッキーが置いてあった。それを指でつまんで持ち上げ、尋ねるように周りを見回す。
「あ、僕です」向かい側から伊藤の声がした。「福岡土産、渡すタイミング逃してて。あと、さっき電話取ってくれてありがとうございました」
「いいえー。お土産ありがとう」
佑希はそう返して席に着く。ちょうど少しお腹が空いてきた頃だ。時計を見ると、6時前だった。もうすぐコールセンターの営業終了時間だ。
早速佑希は包装を開けると、クッキーを齧った。するとそこに電話が鳴った。
佑希は慌てて食べかけのクッキーを包装に戻してPCの縁に立てかけると、電話を取った。
「……大洋生命事務統括部、水野でございます」
「あ、大洋生命テレサービス柏木です。先程はどうも」
電話の主は柏木だった。先程の件だろうか。
「こちらこそ。先程の件ですか?」
「いえ、実は、また別件でして……」
柏木は申し訳なさそうに切り出した。佑希はガックリと肩を落とした。
「そうでしたか。どうしましたか」
気を取り直して、佑希は訊いた。
柏木の話を要約すると、過少徴収の対象者から再発防止策について指摘があったということだ。その顧客は差額を返金することには快諾したものの、会社の姿勢そのものに苦言を呈してきたのだ。書面やニュースリリースには“再発防止に努めてまいります”というお決まりの文言があるが、それに対して会社として具体的に何をするのかと。
事前に用意していた通り、具体的な策は検討中だと伝えると、そんな悠長なことを言っているからこのような問題が起こるんだと説教めいた話が始まった。運の悪いことに、その顧客はIT企業の経営者で、システムについても詳しく、決まりきった説明では満足しなかった。あげくには再発防止策を文書にして送れという要求を突きつけた。
対応者も、再発防止策は社として今後必ず検討することや、個別対応は行っていないことを伝えたが、相手は一歩も引かなかった。そのうえ、自分はSNSのフォロワーも多く、会社の対応次第ではそれを世間に公表することもできると言ってきたのだ。
そこで、一旦はどのような対応ができるかだけでも確認して、日を改めて連絡することにしたという訳だ。
「面倒な案件ばかり持ち込んですみません。だいぶ粘ってみたんですが……」と柏木は詫びた。
「いえいえ、先程の件だって無事終えてくださったじゃないですか。こちらも確認してみますよ」
「すみません。詳細はまたメールさせていただきますので」
「よろしくお願いします」
そう言って電話を切ってからはたと気がついた。今度は古山も伊藤も席にいたので、電話を繋ぐこともできたのだった。つい要件を聞いてしまい、なし崩し的に自分がこの話を抱えることになってしまった。
まあ乗りかかった船だ。先程奮闘してくれた柏木のためにも力にならなければ。
とはいえ、これは先程のクレームよりたちが悪い。何か自分の利益になることを要求してくるのであれば、まだ対処のしようがあるし、それが不当な要求なら拒むこともできる。そうではなく、正義感から会社の体制に異議を唱える“世直し型”のクレームは、対処の仕方が難しい。
過去に似たような案件があっただろうか。過去のメールを探していると、早速柏木からこの件の報告書を添付したメールが届いた。
報告書に記載されている顧客情報を見て、佑希は意外に思った。このクレームの主は女性だったのだ。IT企業の経営者というから、てっきり男性かと思っていた。
佑希は試しにその名前をGoogleに打ち込む。1件目に本人の会社のウェブサイトがヒットした。オレンジを基調とした、おしゃれなデザインのサイトだ。社長挨拶には、にこやかな笑みを浮かべた女性の写真が載っている。4年前に設立された、従業員18名の小さな会社のようだ。
佑希は検索結果のページに戻り、上から2番目に表示された、彼女のTwitterのページを開く。フォロワーは1万人超えだ。毎日何件かツイートしていて、リツイートされているものも多い。最近炎上した広告に対しても言及しており、200件以上リツイートされている。確かにそれなりの影響力はありそうだ。
ただでさえ、今回の問題はネットニュースに載っているのだ。炎上でもして注目を浴びたら、会社の信用にだって関わる。
前島に報告をすると、彼は渋い顔をした。
「本来なら、脅しのような文句に屈するべきではないんだがな……」
そう言いながら、佑希が印刷したTwitterのページを眺めた。そして、柏木からの報告書に目を移す。
「そうか、
報告書の対応者欄には、伊勢という名前がある。かつての部下だろうか。
「ご存じなんですか?」
「ああ。私がコールセンターで係長だったときに……いや、また話が長くなるからよそう。そうか……彼女が対応しても引いてくれなかったか。まあ、どう頑張ったってどうにもならないときはあるからなあ」
前島は、懐かしさの入り混じった表情で、独り言のように言った。そして、佑希に向けて言った。
「コンプラの見解を仰ごう」
◆
「できる訳ないでしょう」
コンプライアンス部の
藤原は佑希と同年代くらいの平社員のはずだが、上司に相談するとか、部内で検討するとか、そういったそぶりも見せず、電話口でただ断った。
せめて検討のテーブルには乗せてもらいたい。佑希は食い下がった。
「もちろん、再発防止策を事細かに書いて送るなんていうのが無理なのは分かります。ただ、お客さんに対して何か妥協点というか、落としどころがないと……」
「そんなこと言われましても、書面なんて送ったら後々証拠が残るじゃないですか」
藤原は迷惑そうに言った。
「それは分かりますが、口頭だけで引いてくれるお客さんではないので……」
「困りますね」そう言って藤原は声を低くした。「ここだけの話、今回の件に関してはあまりややこしいことをするなと小窪常務に言われているんです」
ここでも小窪の名前が出てくるのか。自己保身の塊め。佑希はムッとして言い返した。
「SNSに投稿されて炎上でもしたら、それこそややこしいことになるじゃないですか」
「だから、そうならないようにうまく丸め込むのがコールセンターの役目じゃないんですか」
佑希の眉がぴくりと動いた。藤原は続ける。
「だいたい、あなたこの間も文書文書ってうるさかった方ですよね。電話で解決できなきゃコールセンターの意味ないでしょう。それともなんですか、コールセンターはお手紙屋さんですか?」
藤原は高圧的に畳み掛けてきた。
黙っていることはできなかった。先程聞いた、耳をふさぎたくなるような怒鳴り声。それに屈しない毅然とした態度。
「……現場はよくやってくれています」
「はい?」
「今日も、金銭を求めてきた方を、3時間かけて納得させてくれました。それでも、どうやっても、どう頑張っても納得してもらえないときもあります。それが現場なんです」
頭より先に口が動いていた。
「私は先日、小窪常務に現場を知るよう言われました。これが現場です。なんなら私が常務に直接お話ししましょうか?」
一気に言ってしまってから、さすがに言い過ぎたと思った。伊藤が向かいの席から驚いたようにこちらを見ている。ああ、最近なんだかカッとなりやすいのかな。
先方も驚いたようで、少しの間、受話器から静寂が流れた。
そして、藤原はフッと笑うと言った。
「そこまでおっしゃるなら会議に諮りましょう」
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