# 19

 火曜日の夜。


 恵人は、荻窪のアパートでひとり、スマホの画面を見つめていた。


 今日も佑希からの連絡はない。


 やっぱり自分から連絡してみようか。


 いや。何度となく頭に浮かんだ考えを、恵人は打ち消した。そして、昨日佑希から最後に届いたメッセージを見つめる。


《そっか、急にごめんね。じゃあいいや。今忙しいからしばらく連絡できないかも》


 そして、それに自分は《分かった》と返した。佑希の言うしばらくというのがどれくらいなのかは分からないが、それを了承したからには待つしかない。佑希も大変なのだ。


 しかし、いくら忙しいからといって、いきなりこんなに素っ気なくなるなんて。日曜日には、あんなに楽しそうにしていたのに。


 佑希に限ってとは思うが、一夜限りの遊びだったとは思いたくない。


 そんなことを考えながらスマホを見つめていると、電話が鳴った。


 佑希からではない。佑希以外に連絡をくれる唯一の女性、母親からだった。


「もしもし」


「ああ、恵人? 最近電話くれないけど元気にしてるの?」


「元気だよ。最近LINEしたばっかじゃん。心配しないで」


「そんなこと言って。また前みたいに事故にでも遭わないか、お母さん心配なんだよ。本当はもうあんたには東京出てもらいたくなかったんだけど……」


 早速会話が嫌な方向に進みそうだったので、恵人は遮るように言った。


「またそんなこと言って。新しい仕事も順調だから安心して」


「順調ったってどうせたいした仕事じゃないんでしょ。あんたみたいなの雇ってくれるようなとこじゃ」


 恵人は一瞬、返す言葉につまった。その隙を突くように、母親は言葉を続ける。


「ほらやっぱりそうなんじゃない。もうあんた、茨城戻ってらっしゃい」


「何言ってるのさ。そっちじゃそれこそ仕事ないじゃん」


「仕事なんて選ばなきゃあるでしょうが。うちで恵一郎けいいちろうと一緒に農家やりゃあいいじゃない。あんただけだよ、コンピューターだかなんだか知らんけど、わーけわかんない仕事して、結婚もしないでフラフラしてる親不孝モンは」


 また始まった。恵人は額に手をやった。


「恵一郎なんて3人目の子がもう幼稚園だよ。美里みさとだって洋介ようすけさん連れて月に1度は子ども見せに来てくれるんだから。洋介さんだって立派だよ。市役所の改修だって、イオンの建設のときだって、みーんな洋介さんがやってるんだからね」


「いや別に洋介さん一人で建てた訳じゃ……」


「あんたねえ、職人さん馬鹿にする気? あんた、東京で机に向かう仕事が偉いと思ってるんでしょう! そんなこと全然ないんだからね」


「分かってるよ。ていうか、たいした用事ないんだったら、もうお風呂入るから切るね」


「待ちなさ……」


 遮る母親の言葉は最後まで聞かずに、恵人はスマホを耳から離し、電話を切った。そして、スマホをベッドの上に投げつけた。


 ◆


 翌朝、水曜日。


 スマホを見ると、久米川の方から返信が来ていた。


《悪い、返信忘れてた。でっかいミスが見つかって大変でよ。本社にも影響出てると思うがそっちは大丈夫か?》


 送信時間は、午前2時。久米川の苦労が頭に浮かぶ。そんなときに連絡させてしまってこちらが申し訳ないくらいだ。しかし、この間一緒に飲んだとき、このままじゃ何か問題が起きるなんて久米川は言っていたが、その言葉がまさか本当になるとは。


 もしかすると、佑希が忙しそうなのもそれが原因じゃないだろうか。だとしたら、それこそ間の悪いときに申し訳ないことをしてしまった。


 一方の自分は、2人が忙しくしているというのに、まったく影響を受けていないのだが……


 ◆


 しかし、出勤してみると、保険金部内もなんとなく騒がしかった。社員の一部は慌ただしそうに、一度電源を入れた端末をまた落としたり、荷物をまとめたりしている。


「何かあったんですか?」


 恵人は、隣に座る先輩の派遣社員、北野きたのに尋ねる。


「なんか、上の階でトラブってるみたいで、社員さんが何人か応援に行くんだって。私たちには関係ないけどね」と北野は答える。


 とうとうこの部署にも影響が出たか。しかし結局、派遣社員の自分には関係のないことなのか。応援というのも、どうせ何か専門的な知識が必要な仕事なんだろう。


 そんなことを考えていると、荷物を抱えて部屋を出ていこうとしている社員たちの話し声が聞こえた。


「手作業で手紙折るとかありえないんだけど」


 ちょっと待て。それなら誰にだってできるじゃないか。むしろそういう作業こそ自分たちにやらせればいいんじゃないか? というより、何で手紙? システム関連のトラブルじゃないのか?


 ……などと思ったことは言えず、始業時間になると恵人はいつも通り入力業務に取りかかった。


 が、こちらもいつも通りにはいかなかった。


 なにしろ判断を仰ぐ社員がいつもより少ないのだ。書類の不備や、見たことのない種類の添付書類が添えられている場合など、何かいつもと違うことがあったときは、自分で判断せず社員に報告することになっている。まだ入ってから日が浅い恵人は、ただでさえ質問や確認をする回数が他の人より多い。かといって、派遣社員同士での質問は、たとえ相手がベテランでも禁止されている。社員のあずかり知らぬところで、勝手な解釈で仕事を進めるなということらしい。恵人としては、ちょっとした質問なら認めてもらいたいところなのだが。


 そんな訳で、恵人は質問がある書類を脇にどけ、他の書類の入力をしながら、同じ島にいる社員の大崎おおさきの様子をチラチラと伺う。しかし大崎は、あるときは他の派遣社員の質問を受けており、あるときは自身が係長のところに質問に行っており、あるときは内線電話を受けている。


 手が空いていそうなタイミングも時々あるのだが、そういうときに限って恵人の方が、作業のキリが悪くて手を離せない。そうこうしている間にも新たな質問は増え、書類が脇に溜まっていく。


 やっとのことで大崎を捕まえることができたと思ったら、そのときにはもう、何枚も溜めていた書類のどの部分の何を訊こうと思っていたのか、記憶が飛んでしまっていた。しかもタイミングを逃すまいと慌てて駆け寄ったので、メモを取るためのペンを持ってくるのも忘れていた。


 忙しい大崎に謝りながらペンを取りに戻り、なんとか質問の内容を思い出しながら大崎の指導を受け、すべての疑問が解決し入力を終えた頃には、もう昼休憩の時間になっていた。


 恵人は、他の派遣社員たちより少し遅れて部屋を後にした。そのとき大崎や他の社員たちはまだ机に向かっていた。


 情けないよな。ひとり昼食を取りながら恵人は思った。


 佑希や久米川や他の社員たちが頑張っているときに、自分は逆に周りの足を引っ張っているんだから。


 SE時代、システムにトラブルはつきものだった。そんなとき、自分は率先してトラブルに立ち向かおうとしてきた。ときに部署の垣根を越えてまで。まあ、そこまで頑張ってしまったからこそ、一度燃え尽きてしまったのだが。


 それが、今となっては……


 ――どうせたいした仕事じゃないんでしょ。


 母親の言葉が、改めて胸に突き刺さった。


 休憩を終えて仕事に戻ると、さらにはっきりとその事実を突きつけられた。自分のするべき仕事がなくなっていたのだ。


 いや、処理しなければいけない書類はたくさんある。この部署には、保険金の請求書が全国の拠点から送り込まれ、まず社員が枚数をチェックしてから派遣社員たちに仕事を回すことになっている。そのチェックをする前の状態の書類は、大崎の机にうず高く積まれている。けれど、大崎にその業務をする余裕がないのだ。


 当の大崎は先程から席を外している。室内を見回すと、係長席の隣に座ってなにやら話をしていた。


 どうしたものか。自分は都度与えられる業務をこなすだけで、他に抱えている仕事はない。できるのはせいぜい、先程質問した際に走り書きしたことを、忘れないようにノートに書き留めることくらいだ。


 しかたないのでノートをまとめていると、隣から北野の声がした。


「そのネックレスかわいいねー。もしかしてプレゼント?」


 自分はネックレスはしていないので、その声は別の人に向けられたものだと分かった。


「ありがとー。そう、島田が誕生日にくれたの」


 北野のさらに隣から返事が聞こえた。


「いーなー。彼氏かー」


 北野は楽しそうに答える。


 そうか。プレゼントにネックレスか。


 ……じゃなくて。この人たち、いくら仕事がないからといって業務時間内に何をしゃべってるんだろう。社員は忙しそうにしているのに。気がつくと、恵人の向かい側の席でもおしゃべりが始まっている。


 おしゃべりは恵人がメモをまとめ終わっても続いていた。何もすることがないまま一人でイライラしていると、ようやく大崎が席に戻ってきた。周囲の話し声は一瞬収まったが、少ししてまた小声でおしゃべりが始まる。


 恵人は耐えきれずに席を立ち、大崎の席まで行った。


「あの、何かお手伝いできることありますか」


 大崎は驚いたように恵人を見てから言った。


「いや、大丈夫。こっちの仕事だから」


 そして、PCに向かい、Excelのファイルを開く。


「け、けど、請求書、数えるのありますよね」


「ああ、ごめんな。昨日の数値だけ、今すぐ入力しなきゃいけないんだ。それ終わったらやるからさ」


「あの、件数数えるだけなら、僕やりましょうか」


 恵人がそう言うと、大崎はムッとしたような顔で恵人を見た。


「おまえ、旧帳票の違いとか分かんないだろ。たまに古いのとか、違う種類のとか混ざってるから、そういうのよけなきゃいけないんだよ。こっちは忙しいんだから、余計なことすんなって。ただでさえ、午後に応援から戻ってくるはずだった奴らが、また違う作業手伝わされることになって大変なんだからよ」


 知識もないのに差し出がましいことを言ってしまった。そう一瞬思った。けれどもこれまで募っていたイライラも手伝って、恵人はさらに食い下がった。


「だったら僕にその応援に行かせてくださいよ。みんなが大変なときに自分だけぼーっとしているなんて嫌なんです」


「おまえなあ……!」


 大崎が声を荒げようとしたそのとき、後ろから声がした。


「大崎くん、どしたの、怖い顔して」


 振り返ると、見覚えのある男性が後ろに立っていた。


「あなたは、確か……」

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