7 彼らの朝
「またお越し下さいませ」
日々子が本を袋に包んで渡すと、お客さんの老紳士は「ありがとう」と短く笑って店を出た。
日々子がここで働き始めて、すでに三ヶ月が経つ。いつの間にか夏が終わり、さっきの老紳士のようにもうマフラーを巻く姿さえ見受けられた。いつも日々子は「またお越し下さいませ」といってお客を見送る。いつの間にか、日々子はこの町で迎えられる側から迎える側になっていた。
ここでは東京にいたころとは比べものにならないほど、ゆっくりと時間が流れている。この京都という町自体がのんべんだらりとして見える。日々子はそう思っていたが、季節はすでに移り変わってしまっていた。そのなかで日々子は新しい大学でも本の貸し借りをする友達ができたし、なにより寮での暮らしにはすでに愛着のようなものが湧いていた。
五時半に仕事を上がった日々子が寮に戻ると、門の前で綾人が煙草を吸っていた。綾人が酒の席以外で煙草を吸うのはめずらしいので、彼女はなにか胸騒ぎのようなものを感じた。かれはまだ短パンにTシャツという格好のままで、ひとりだけ季節に取り残されていた。
日々子がなにか声をかけようとすると、「綾人!」とかれを大声で呼びながら、郁ちゃんがこっちに向かって走ってきた。
「大変や。あのことバレたらしいで」
「えっ、どうして」
「この前あんた自分で酔っぱらって暴露してたやろ。そっから広まったんや」
「そりゃ、また、えらいことになったなぁ」
綾人はへらへらとまるで他人事のように笑っている。
「まさか、覚えてないん?」
綾人は大袈裟に頷く。
「あんた、そうやってふらふらしてばっかりいたら、いつかだれかに刺されるで」
郁ちゃんはこの前の飲み会のときも、たしかそんな説教を綾人にしていた。
「いいんだよ。おれはなんにも思われないぐらいだったら、嫌われても印象に残れば勝ちだと思ってるから」
綾人はそのときそう反論した。
そしてきょうも顔を真っ赤にして「ほんまいい加減にしぃや」と言い聞かせる郁ちゃんに「なんとかなるって」と笑い返す。けれど、日々子はその煙草を持つ手の指先が、微かに震えているのを見逃さなかった。
幼い頃の日々子は目ばっかりがぎょろぎょろとなにかを見ていて、ほかに主張のない大人しいこどもだった。いつも幼稚園の遊び部屋の隅で、だれかが遊んでいるのを、あるいはただ外の景色を観察しているだけで丸一日を過ごしていた。
ある日、日々子は天井にヤモリが張り付いているといって、先生を困らせたこともあった。そのヤモリはどんなに探しても先生には見つけられなかったからだ。けれど、日々子はたしかに見たと主張した。それに唯一賛同したのが二歳年上の綾人だった。綾人は神出鬼没な園児で、いつでもどこかに現れてはすぐにまたどこかへ消えた。かれがちゃんと年長組の部屋にいることは少なかった。その日、いきなり現れた綾人が「おれもみた」といったとき、初めて二人は目を合わせた。かれらは対照的な目をしていた。日々子はどこまでも見通すようなまっすぐ澄んだ目をしているのに、綾人はこどもとは思えないほど淀んだ黒目がちな目をしていた。ただ、二人とも大人たちからすれば「何を考えているのかわからない」という評価だった。
二人はいつしか一緒に遊ぶようになった。けれどそれは鬼ごっこやかくれんぼではなく、もっと静かな遊びだった。蟻の歩く先を辿って巣を見つけたり、一日中オルゴールを聴いているだけのときもあった。かれが先に卒園するとき、日々子はその踊るピエロのオルゴールを綾人からプレゼントしてもらった。「おれはピエロになりたい」とそのころのかれはいっていた。そんなこどもだった綾人は、京都で青年になり、なぜかしら惹句ランタンという南瓜の化け物になっていた。
〈里桜〉に初めて来た日、玄関にかけられた南瓜の絵が日々子にはとても印象的だった。彼女には、その絵を描いたのがだれなのかすぐにわかった。そして、かれが置かれている状況も、なぜかしら少しだけわかった気がした。
綾人は、中学生の頃、背がやっと女子に追いついたぐらいから、顔も童顔で性格も全然男らしくないくせに、なぜかしら女の子たちにモテるようになった。逆に言えば中性的な顔立ちであまり男を感じさせないかれは、よく女子の群れにもぐりこんでいた。そして、ある日いきなり彼氏に昇格したり、しなかったりしていた。
綾人は郁ちゃんに忠告を受けたあと、すぐに電話でどこかに呼び出されていった。
「じゃあ、ちょっといってくるよ」
そういうと、綾人はいつものゆるやかな足取りで歩き去っていった。声、ちょっと震えてた。そんなことを思っていると、日々子にも電話がかかってきた。
「あ、姉ちゃん」
実家の弟からだった。
「いい加減帰っておいでよ。母さんも心配してるよ」
家族はみんな私がずっと付属校から通っていた女子大を辞めて、京都の大学に編入するなんて思ってもみなかった。
「私、帰らないよ。やることがあるから」
「なにを京都なんかでやることがあるのさ。おれ、姉ちゃんの考えてることわかんないよ」
「あいつのこと助けなきゃいけないから」
「だれだよ、あいつって」
「惹句ランタン」
「は? なにいってんだよ」
「また正月休みには帰るから、電話ありがとう。またね」
電話を切ると、日々子は大きく息を吸い込んだ。
そうだ、私が自分で進まなきゃいけない。もうミサには参加しないのだ。私はもうだれにも祈らない。ただひらすら、かれを暴こうと思う。そしてほんとうのかれを見つけたなら、そのとき、きっと私はもっと前に進まなくてはならない。いや、すでに私は京都へ来た時点で半歩ほど踏み出している。あとはしっかりと踵から爪先まで地面を踏みしめればいい。
✳
部屋に戻っていったん仮眠をとった日々子は、目が覚めると部屋から出て、階段を下りた。けれどラウンジにはだれもおらず拍子抜けしてしまった。ここに一人でいるなんて初めてだった。
ラウンジで目を閉じると、日々子にはいろんな音がきこえた。平松さんの筆や、小森のペンが走る音、晶さんの筋トレで床がきしむ音、いろんな力をもった音が〈里桜〉では生まれて、生まれたそばから消えていく。日々子は、ここでかれが過ごした時間を少しでも分かち合うことができたことに感謝する。
「綾人?」
――と、日々子は玄関の絵の下でうずくまっている背中を見つけた。
「どうしたのそれ」
綾人の頬はひどく腫れていて、黄色く変色してしまっていた。
「殴られた。町中だったからさ、サラリーマンのおっさんが止めに入ったりして、大変だったよ」
馬鹿みたいに真面目な声のトーンだった。いつもよりだいぶ低くきこえる。
「どうしてそんな」
「秘密がばれてさ」
「秘密?」
「前に、そいつの女と飲んだ勢いで寝ちゃって」
それから少し沈黙があったあと、「友達」と綾人が小さな声を出した。「友達だったんだ。でもあいつの彼女に誘われて、最初は断ってたんだけど。二人とも酔ってたし、いつの間にか」
「痛いの」
「うん、想像以上に」
綾人は無意識に頬ではなく、胸を押さえているようだった。
「漫画みたいに、こう……拳に息吹きかけてさ、振りかぶって、それから当たるまでは見えなかった。衝撃が強すぎて、一瞬、鉄パイプかなにかで殴られたのかと思った。すぐに意識が飛びかけてるのがわかった。それで倒れかけたけど、踏ん張って立ち上がったんだ。そしたらもう一発同じとこに。今度は気付いたら膝、崩してた。あいつは頭の上でなんかすごい声で怒鳴ってたけど、頭くらくらしてて半分も聞き取れなかった。そこでおっさんが止めに入って」
「殴られるってわかってたんじゃないの?」
「そのつもりで呼び出された場所まで行った。おれが先に着いて、あとからあいつが。ひどい隈を下げた目だったな……顔に穴が二つ空いてるみたいに」
「そんなの、逃げればいいのに」
「大学入ってから一番の親友だった。そいつ、その彼女と結婚するって言ってたんだ。おれに笑いながら、きらきらした目でそう言ったんだ」
「馬鹿じゃないの。つらいことほど芸の肥やしでしょ!」
日々子は叫んだ。前に綾人はこんなことを言っていた。
「美大生は、つらいことを芸の肥やしにできる最強の若者なんだ」
日々子はそのとき、一瞬だけ綾人はもう大丈夫なんだと思った。けれどそれは甘かった。
「あいつら、別れるって。おれさ、こんなにだれかを不幸にしたと思ったのは初めてだ」
綾人の声が次第に大きくなる。
「いいか! おれは必ず幸せにする。これから会うすべてのやつを幸せにする。男も女も関係ねぇ。みんなだ!」
そんなの不可能だ、と日々子は思う。できっこない、でも、それでもいい。綾人がその気なら頑張ってみればいい。そんなことを本気で思った。
綾人がどこかにいってしまったあとも、日々子は玄関に残り壁の絵を見ていた。そうして、小森の漫画に出てくる、ジャックのことを思い出していた。
✳
日々子と絵の前で話した日から、綾人は〈里桜〉に姿を現さなくなった。残暑がおさまる頃になっても、かれからはなんの音沙汰もなかった。
「そういえばあんた、この前小森とこっそり夜遊びして平松さんに怒られてたけど、あれなんやったん」
郁ちゃんは早朝から豆苗に水をあげていた。一緒に起きてしまった日々子は、窓の外のまだ少し暗い空を睨み目をこする。
「ちょっと充血バスツアーに」
その夜、日々子と小森は前から約束していた充血バスに相乗りした。
最終バスの行き先が赤く充血したように表示されているのを日々子は「充血バス」と呼ぶことを面白いなと思った。川端通を走りながら見える納涼床には、まだ酒を酌み交わすひとたちが残っていた。窓を開けると、バスのエンジン音に混ざって虫たちの声や、河原で騒ぐ若者たちの喧騒がきこえた。夜の京都の優雅さに見とれているだけで、二人は会話さえ忘れた。なかなか眠らない町で、日々子はかれのことを思った。いま一番助けたいひとのことを。
納涼床を眺めていると、日々子は京都に来た最初の日のことを思い出した。あのときにはまだ昼だったから、そこが夜になるとどう賑わうかも知らなかった。そうだ。あの日、初めてだれかのために変わろうと動き出した。日々子は自分のこころの奥にあったともしびを思い出す。
この小さなともしび。
これをくべてくれたかれに恩返しがしたい。
「あのさ、郁ちゃんも綾人と会ってないよね?」
綾人はあれ以来、しばらく日々子の前に姿を見せていなかった。
「うん。この前、小森が道で偶然会ったいうてたけどな。なんか約束したって。ほんまあの阿呆どこほっつき歩いてんねやろ」
――と、慌てて階段を上ってくる音が聞こえた。
晶さんだった。昨日、久しぶりのキックボクシングの試合で勝ってから興奮して眠れずにいた彼女が、赤い目で息を切らしながら飛び込んできた。
「おいっ、綾人がきてる」と晶さんは二人に早口で教えてくれた。
「なんか屋根の上に登ってたぞ」
日々子はそれをきくなりすぐに部屋を飛び出した。最上階には、屋根の上に向けて立てかけられたままの脚立があった。それを使って屋根に上ると、綾人はその一番縁に立ち、夜明け前の空を見上げていた。
「なんでこんな時間に起きてんだよ」
日々子の気配に気付くとかれは、背をむけたまま低い声を出す。
「悪い? そんなことよりどうしたの黄昏れちゃって」
綾人の後ろ姿は、どこか肩の荷が下りたように柔らかく見えた。
「お祓いしてきたから」
「お祓い?」
「いまうちの大学、卒業制作展やってて、みんな自分の作品の飾ってあるブースにいるんだよね」
「喧嘩しちゃったひとたちに会ってきたの?」
「そんなとこ。時効ってあるんだな、みんなも気持ちよく卒業したがってたみたい」
「仲直りできたんだ」
「うん、全員じゃないけどね」
そう言うとかれは少し笑ったようだった。
「なんであのとき私に京都へ来るよう言ったの」
「おれが、日々子がいた方が楽しそうだと思ったから」
そうなのだ。綾人は自分のことしか、自分の幸せしか考えないひとだった。だからこそ日々子は一緒にいていままで楽だった。それなのに、漫画のモチーフにされるぐらい、京都で慣れないことを始めていた。
「でもおまえ、ほんとに来るなんて馬鹿だよ。後悔してるだろ」
「本気でそう思う?」
「うん。まったく思わないな」
「私、私ね、いまここに来なかったら、もうこのまま一生あなたに会えないって気がしたの。綾人が私の知らないひとになっちゃうんじゃないかって」
「おれはおれのままだよ」
綾人の声はやはりワントーン低い。けれど、それは昔かれがヤモリを見たと賛同してくれたときの優しい声色に似ていた。
「なんかお前変わったな。前はさ、もっと人に合わせるやつだったじゃん。でもいまは日々子がみんなを変えてる」
「そんな、大袈裟だよ」
「いや、すごいよお前は」
信じてもいない神に祈って、お嬢様学校の同期生たちと上辺だけの付き合いをして、それが東京での日々子の毎日だった。けれど彼女は自分に向き合うためにここへきた。日々子にとっての京都は避難先ではなく懺悔室だった。逃げ場のない、罪を告白する場所。そこで、日々子は新しい日常を得た。しかし、まだ彼女の目的は半分しか達成されていなかった。
「ほんとは怖かったよ。初めて晶さんとお風呂に入ったときも、もちろん肝試しのときも、ひとりでこっちに飛び出してきて、綾人に会うのだって怖かったんだから」
「そっか、無理させてごめんな」
「でも、それでも私は、私の世界を変えたかったから」
「世界を変えるか、そりゃまたとんでもないスケールの話だな」
「そうかな」
「うん、やっぱりお前は救世主だよ」
屋根の下で、「ほらーやっぱり登ってる。平松さんにチクるぞー」という声がきこえる。
「みんなも登ってきなよ。絶景だよ、絶景!」
屋根から見える景色は、ごく普通の静かな夜明け前だった。金閣寺も見えないし、京都タワーだって方角はなんとなくわかるがよく見えない。ただ日の出を待つように、そわそわしている京都の町並みが見えた。
これがいいなと思えたら、京都美人って名乗っていいってことかな、と日々子はひとり胸のなかで呟く。
綾人の向いている方向へまっすぐ進むと、かれの通っている美大がある。日々子はこっそり見に行った綾人の卒業制作の油絵を思い出す。壁一面が埋まるほど大きなその絵には、京都の町が描かれていた。全体としては仄暗い画面なのだが、黄色や緑、青といったさまざまな色のともしびによって鮮やかに輪郭が浮かび上がっている。日々子にとっては一夏を過ごしたばかりの町並み。けれど日々子は、たしかに四年間、綾人がこの町に住んでいたのだと、そんな当たり前のことをそのとき初めて実感した。それから、綾人がこの町でどんな風にときを過ごしたのか想像した。彼女の目に映る京都は、いまや綾人の町。綾人の世界そのものだった。
綾人はきっと、自分の目に映る世界の、小さなともしびの色を、その温度を知りたかったのだ。私がかれのことを深く知ろうとしたのと同じように。
日々子は次々押し寄せる感情と、走馬灯のようなこの一年の記憶の波に、つい涙腺が緩みそうになるのを堪えていた。
ふと物音がしたので振り向くと、郁ちゃんが屋根に登ってきていた。小森は上半身だけ屋根に乗っているが、腕の力が足りないらしく落ちそうになっている。下で脚立を支えていたらしい晶さんが「ちょっと、しっかりしろよ」とエールを送っている。日々子が綾人の方に視線を戻すと、なぜかしら妙に腰がひけていて、まるで妖怪のようだった。
日が昇り始めた。
日々子は夜明けの町で、この屋根の上が一番明るく光っている、そんなことを思った。きょうだれよりも先に自分が、自分たちが朝を迎えたのだと、そんなささやかな優越感を抱いた。
「あ、二人で先に見たんでしょあの映画、ずるい」やっと登ることに成功した小森がそう嘆く。
「なんだよ映画って」と綾人は背を向けながら答える。
「泣ける洋画特集、録画してたの一緒に見ようって約束してた」と小森は眉尻を高くするので「おれが約束守ったことなんてあった?」と綾人は返す。
潰したままの靴の踵を直しながら、ちらりと振り向くその顔を見て、日々子は驚いた。
南瓜の仮面が砕け散り、なかから現れたのは初めて見るかれの表情だった。泣き笑いしているような不思議な顔だ。
「日々子、なんだよその顔」
なぜかしら、綾人も日々子を見て驚いていた。
そうだ、私も同じ。私たちは、いまこの瞬間にもう一度知り合う。そうやって新しい朝と対峙する。その光の眩しさにまた身を潜めたくなるかもしれない。けれど、もう逃げない。私は私を、綾人は綾人を晒していく。
太陽に照らされ映し出されたのは、低い屋根の家々、叡山電鉄の少し錆びた線路、さっきまで日陰だった場所であくびをする野良猫、そぞろ歩く徹夜明けの大学生。この美しい景色に、私たちを見せつけてやる。
日々子はすぐ目の前に、へっぴり腰の妖怪の呼吸を感じる。それがなぜかいまは少し頼もしく思える。いつでも互いのともしびに火をくべることができる距離に、かれらはいる。
(了)
惹句ランタンの燈 くもさき @kumosaki555
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