6 綾人の燈
「どうした少年、とぼとぼ歩いて。こっち来るかい?」
そのひとに初めて会ったとき、おれは小石が跳ねてパンクした自転車を押しながら河川敷を下っていたところだった。彼女は納涼床の上から話しかけてきたのだが、最初はまるで空から声が降ってきたように思った。
それからおれは店の前に自転車を停めて、二階に上がった。そうして彼女と一緒に鴨鍋をつついた。納涼床に上がるのは初めてだった。彼女は一人で赤ワインを飲んでいた。
「一人で鍋も寂しいからさ、だれか探してたんだ。鴨、美味しいでしょ?」
「うん、美味しいよ」
「それならもっと笑いなよ。その方が食べさせ甲斐があるってもんじゃない」
おれはきっと神妙な顔をしていたのだろう。夏なのになんで一人で鴨鍋なんだろうとも思ったし、汗をかいたTシャツにGパンのラフな姿のその一回り年上の女性に、なぜ自分が惹きつけられるのかわからなかった。
「この間のお礼がしたいんでしょ。じゃあさ、君の話教えてよ」
二回目に会ったときはそういって、おれの生活ぶりを知りたがった。大学で絵を描いていること。寮の女の子たちのこと。おれは包み隠さず色々話した。いつも聞き役が多かったおれは話すことに夢中になった。
彼女はいつでも理知的で、同い歳くらいの女の子とはなにか違った。いや、飾らずに言えばおれは、あの日初めて会ったときから彼女に一目惚れをしていた。
それから彼女とはたまに木屋町周辺で会うようになった。
けれど、五回目に会ったとき、彼女は突然おれに別れを告げた。
「私、故郷に帰るんだ」
「えっ、いつ?」
「今夜」
別れ際、そっと伸ばしたおれの手を見て、彼女は微笑みながら、おれの頬を両手で包んだ。
とても冷たい手で、ひんやりとした。
「またね、少年」
それが最期だと、彼女とはきっともう二度と会うことができないと思った。なぜならおれはまだ、少年だったのだ。
彼女の故郷がどこか、おれは訊かなかった。
いや、訊けなかったのだ。
〔ハンバーグ作ったからたべにおいで〕
同じ夜、菜月からそんなメールが来た。
だれかに会いたい気分だったが、かといって大勢には会いたくなかったので、言われた通りに家へ向かった。
菜月はエプロンをしてキッチンに立っていた。
「すぐできるから座って待ってて」
「うん、待ってる」
すでに肌寒くなってきたせいもあり、早くもリビングには炬燵が出ていた。炬燵布団の中に入りながら、フライパンの上で肉が焼けていく音を聞いていた。
「ねぇ、なんで今日は一人?」
キッチンの彼女にそう尋ねた。
そうだ、いつも菜月と会うときは必ず彼女の彼氏も一緒のはずだった。そして、その彼氏はおれの友達でもあった。
「彼、いま東京にいるの。内定した会社のインターンだって」
「そうなんだ」
おれたちはもう四年生になっていた。
ハンバーグはデミグラスソースのようなものがかかっていて、今の気分に反して酷く甘かった。
「ご馳走さま、お腹いっぱい」
少し横になると、まだ口をもぐもぐさせたまま、菜月もすぐ隣に寝そべってきた。
「ねぇ、今日は泊まっていって」
彼女の吐息からはソースの甘い匂いがする。
「でもさ、菜月はあいつの彼女だし」
「でもその前に私たち友達でしょ?」
半分寝ながら考えてみた。
たしかに最初から友達の彼女として紹介されたわけじゃない。菜月も同じ大学の同級生だった。
少しのあいだ目を閉じていた。
気付くと、電気は消えていて、机の上には空になったチューハイの缶が倒れていた。きっと菜月のものだ。だけど、おれも木屋町で飲んでからここへ来ていたことを思い出す。
あのひとの、なにかを試すような目が、おれのともしびを熱く燃やす笑顔が、闇の中で鈍く瞬いた。
そのとき、目の前に白いものが伸びてきた。
女の手だった。けれど、それが誰のものかはわからなかった。
指先が触れ合った次の瞬間、おれはそれを強く引き寄せた。
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