5 小森の祭 

ジャックは暗闇のなかで生まれた。耳を劈く雷鳴とともに生まれた。ジャックが産み落とされた場所、それは下水道だった。梅雨のように湿度が高く、鼠たちが走り回っている世界だ。そのなかでひときわ目立つのがジャックだった。かれの頭は南瓜でできていて、つり上がった目と大きく裂けた口は、ただくり抜かれただけのようで、ぽっかりと開いたそのなかもまた暗闇があった。けれど、よく見るとその奥には小さなともしびがあった。生まれたときからずっと、それはどんなときでも消えることのない、かれの道標となっていた。

 私の漫画は〈惹句(じゃっく)ランタン〉というタイトルで、惹句とは映画などのキャッチフレーズのことを指す言葉で、「なぜだか惹かれてしまう短い言葉」という意味を持っている。

 主人公のジャックは、マントを羽織った南瓜頭のお化けで、あの女子寮の玄関にある絵と同じように口が裂けている。ハロウィンの怪物、ジャック・オー・ランターンがモチーフだ。そんなジャックは充血バスに乗って夜の町を徘徊し、不気味がられながらも、人々を導くような、あるいは考えさせるような一言を伝えていくというのが、この漫画のおおまかなストーリーだ。

「これ、もしかして綾人?」

 いつの間にか、作業机の後ろから日々子が私の原稿を見ていた。

「よくわかったね」

「私も思ってたから。あの玄関の絵、きっと自分を描いたんじゃないかなって。だからなんだかこれもかれに見えて。あれ、音楽聴いてたんじゃないの」

「いま聴き終わったとこだから」

 ヘッドフォンのスイッチは、実は入っていないことの方が多い。ただ自分の世界に入りたいときはいつも耳に付けている。それと、いま言われたことは日々子の言う通りだった。惹句ランタンのモデルは綾人だ。綾人と、寮の玄関に飾られたあの〈仮面〉という題の絵を見ていたら、なぜだかこの漫画を思いついたのだ。

「下でお菓子食べてるからおいでよ」

 日々子に連れられ階段を下りていると、彼女は思いついたように「充血バスって、私乗ったことないかも」と呟いた。

 最終バスは行き先の掲示が赤く充血したみたいになっている。それを私は充血バスと呼んでいた。

「もしよければ、今度一緒に乗ってみる?」

「それもいいけど、もうすぐ祇園祭でしょ」

 日々子はまだ一度も行ったことがないくせに、嬉しそうな顔をする。ラウンジの壁に少し斜めになって掛かっているカレンダーを見ると、きょうはすでにその前々日。つまり宵々山だった。

「それより主役のお出ましよ」

 平松さんはそう言って、私を指差す。

「なに、なんにこと」

「これよ」

 平松さんが渡してきた紙を見て思い出した。平松さんが日々子の歓迎会のときに配ったアンケート。そこには祇園祭に対抗したイベント募る! というよくわからない趣旨が記されていた。

 平松さんは過去に、祇園祭の前日に婚約者に別れを告げられたことがあったらしい。それからというもの、毎年この時期になるとこうして変なことを言い出すのだ。

 漫画の息抜きのつもりで書いて提出した私の案が、なぜか今年採用されることになったのだ。私が考えたのは、題して『百鬼夜行プロジェクト』という案で、寮のみんなで妖怪のコスプレをして町を練り歩くといった内容だった。

「じゃあはい。わたし雪女がしたいです」

 日々子がきっぱり宣言する。

「いいんじゃない。じゃあ晶さんはフランケンシュタインね」

「おい、私は変装なんてやらんぞ」

「変装じゃなくて仮装ね」

「フランケン絶対似合うけどなー。おっと、それよかたまにはもっと可愛いのがいいとかー」

「エマ、いい加減なぐるぞ」

「平松さーん、晶さんがー」

 みんなが衣装で揉めているうちに、私は資料をとりに部屋に戻った。ジャック。綾人にはやっぱりジャックの格好をして欲しかった。







 次の日からさっそくみんなでイベントの準備にとりかかった。私は自分の部屋で当日の様子や衣装なんかをスケッチしていた。

 日曜大工をしているような音がきこえるので、気になって窓の外を覗くと、寮の小さな庭で綾人が腕捲りをしてなにか作業をしているのが見えた。気になって降りてみると、そこには見覚えのある形の木組みがあった。

「これなに」

「神輿」

 それは、言われれば神輿の残骸にも見えなくはない代物だった。訊けば、綾人の美大の学園祭で使っていらなくなったものをもらってきたらしい。

 かれはインパクトドライバーを片手に「すぐ直すから小森も担いでよ」といって作業に戻った。

「私も手伝う」と日々子が隣にかけよると、かれは工具の使い方から教え始めた。

「私にも教えて」

 私がそういうと、綾人は少し驚いた顔をしてから、工具を貸してくれた。


「なんやこれ」

 休憩でいったんラウンジに戻ると、郁ちゃんが怪訝な顔で見つめるテーブルの上には大量のスイカがあった。どうやらソファでうたた寝をしていた平松さんが、寝ぼけて通りにいた西瓜の販売車から全部買い占めたらしい。

「これも使っちゃおうよ」

 日々子がそう言うと、みんなも「いいね」と西瓜を運び始めた。

どうやら、いつの間にか準備はとんとん拍子に進んでいるようだった。ついに寮生たちの仮装が終わると、コーディネートしたエマがみんなに解説してくれた。私は、座敷童のような着物を着させられた。

「あそこで琴を弾いてるのが琴妖怪、あっちで納豆を混ぜてるのが納豆妖怪、向こうで小豆を洗ってるのが小豆洗い、それから――」

 妖怪の紹介が終わりそうにないので、私は「妖怪はそんなのしないから」とエマに駄目出しをもらったヘッドフォンを部屋に置きにいった。

 と、後ろからいきなり胸を掴まれた。最初は郁ちゃんの仕業かと思ったが、どうも彼女にしては手が大きかったので、すぐに妙な冷や汗が出た。

「やっぱり。下着つけてない」

 振り向くと、そこにはジャックがいた。南瓜の頭にぼろ布のマント。私が描いたジャックそのものだった。

「あんた、私には手を出さないと思ってた」というと、「なんでさ? 小森はふつうに可愛いよ」なんてしれっといってくるので私は咄嗟にかれの脇腹を殴って逃げた。振り向かなかったのでどんな顔だったかはわからないが、殴られたジャックは尋常じゃないほど喘いでいた。なんせ本気で殴ったのだ、それぐらいのリアクションがないとつまらない。

 百鬼夜行はそれからすぐに行われた。神輿を担ぐ女の子たちはみんな日本の妖怪なのに、神輿の上で踊るジャックだけが季節先取りの外国産で、全体としては妙な完成度になってしまったが、私としては満足だった。

 ジャックは神輿の上から「ハッピーハロウィーン! 惹句ランタンをどうぞよろしく! ヒヒッ」と言うと、通行人に漫画雑誌一冊と西瓜を一切れ配った。漫画雑誌には私の描いた読み切り短編が載っている。もちろんジャックが主人公の漫画。初めての掲載だった。死ぬほど嬉しいというのはこのことなんだ、と思った。平松さんも、寮生たちも、ほんとうにばか騒ぎがしたいだけなのか、私の喜びを共有したいのだろうか。いや、きっと両方正解なのだ。

 汗をかきながら神輿を担ぐ妖怪たちはみんな笑っていて、御輿の上で躍っているジャックだけがその仮面に表情を奪われていた。

 それにしたって、どこか違うところだったら、こんなばか騒ぎ警察に止められるのかもしれない。けれど、美大やギャラリーの多い京都では、これぐらいでなにかいってくる人はいない。通行人たちは戸惑いながらも、それでも何人かは興味ありげに配布物を受け取っていった。

 私たちは徘徊しながら「真夏の昼間に百鬼夜行。お化けの神輿だ百鬼夜行」と唱う。これは平松さんが考えたテーマ曲だ。

 最後に「新人漫画家、小森絵理をどうぞよろしく」とジャックは高らかに叫ぶ。これは「恥ずかしいからやめて」と釘を刺したが無駄だった。

「まだ連載は決まってないんだから」というと、「なんか選挙活動みたいでおもろいな」と郁ちゃんが微笑む。

「南瓜が西瓜配ってるなんて可笑しいね」

 神輿の下で日々子がそう笑うと、みんなも笑って神輿が揺れる。そして、神輿の上のジャックがおっとっと、と露骨にふらついた。

「で、平松さんはなんてフラレたん?」

 郁ちゃんがそう言うと、「いまそのはなし?」と平松さんは苦笑いした。

「うん、いま」

「煙草吸う女は嫌だって言われたの。尻の穴の小さい男よ」

「やっぱり男は器よね」

「そうよね、ありがとう」

 平松さんは、今年のこのイベントでようやく過去を清算できるのかもしれない。そう思えるような声色だった。もう、吸わない煙草を持ち歩くようなことはなくなる、あるいは禁煙を辞める。どんな形であれ、それはきっと嬉しいことだ。

「あんたの漫画さ、あれアヤトよね。あんたもあいつのこと好きだったなんてちょっと意外」

 エマはそういって私の肩に肘を乗せ、得意の笑い皺を見せつける。

「そんなんじゃない。あいつはただの観察対象」

 そうだ。私はべつに、私のこともジャックが助けてくれるんじゃないかとか、そんな乙女チックなことは考えていない。ただ、志村綾人という男の子の生態に、少しばかり興味があっただけだ。あいつとあいつの描いた南瓜の絵はほんとうにそっくりで、私はその正体を暴きたくなったのだ。きっと他の女の子もそうなんだと思う。かれの虫のように軽快で怪物のように巨大な存在感に、あの黒目がちで虚ろな目のなかに、少しだけ迷いこんでいるのだ。

「というか、えっ、みんな読んでくれてるの?」

「当たり前でしょ。だってみんな最初からあんたのこと応援してんのよ」

 神輿に担がれてるのはジャックで、綾人なのに、奉られてるのは私だった。私はそんな大事なことにいまごろ気がついた。私はそっと決意する。この気持ちをまた私は描くことで返していくのだと。

「平松さん、ありがとう。この企画にしてくれて」

「私は一番気が紛れそうな突拍子もないのを選んだだけよ、あなたのためじゃないわ」

 そういって神輿を担ぐ平松さんは、幽霊を模した三角頭巾が汗でおでこに貼りついてしまっている。首にはいつものストールではなく浅葱色の手拭いが下がっていた。きょうの平松さんは、寮生たちに紛れているせいか十歳ほど若く、素敵に見える。

 私は寮でエマに自分が言ったことばを思い出す。

「やっと気付き始めたんだね。そうだよ、あなただけじゃない。すべてのひとが主人公なの」

 あれはほんとうのところ、半分強がりのつもりだった。けれどいま、ようやく私は自分を主人公だと感じられた。京都の町を徘徊する百鬼夜行が、私を担がれてもいい存在なのだと訴えているようだった。







 百鬼夜行はそのあとも、西瓜と漫画がなくなるまで、笑いながら京都の町を練り歩いた。そんななか、ジャックの仮面を付けた綾人だけがやはり表情を隠していた。かれはいつまで仮面をつけているのだろう。あの南瓜頭じゃない。心の仮面を。かれは、他人が見たがる顔しか見せない。根っからの女たらしで話術に長けているのではなく、独りよがりなところを見せないのだ。それはきっと、長所ではない。それはすでに呪いなのだと思う。

 寂しくて、寂しくて、だれかに覚えてもらいたくて、だからこそつまらない言葉を使わないのだ。

 読み切り漫画のクライマックスで、ジャックは「ここよりずっと楽しいところへ案内するよ」と伝えたホームレスのおじさんにこう返される。

「失礼だねきみは! こう見えても僕は自分の人生に満足しているんだ。ほれ、きみの方がずいぶん寂しそうな顔をしているじゃないか」

 そのときジャックは初めて気がつく。

 かれは自分の心にともしびを灯すのを忘れていたのだ。他人にばかりおせっかいを焼き、その度、自分のともしびがどんどん小さくなっていく。

 私は、いつかかれが、かれ自身の心にもともしびを灯せたらと願う。そして、それはきっと私にはできない。それができるとしたら日々子しかいない。彼女の目は、アヤトのつまらなそうな目とはまったく違った。日々子の目は世界を創り出す目だった。あの眼差しに見つめられるだけで空気が入れ替わるような、そんな予感がした。私は期待してしまった。

 そうなんだ。期待があるから、私は描ける。だれよりも私自身が私に期待しているのだ。最初は描けることだけが重要だと思っていた。けど違った。すべての要素が、私に描くという行為を促している。もう描くか描かないかでなんて悩まない。どう描くかで悩むんだ。その先に、きっと期待に対する答えがある。

 妖怪たちは配布物がなくなってもすぐには帰らなかったが、鴨川デルタでいったん休憩をすることにした。私は一人ちょうどいい大きさの岩の上に腰掛ける。このあとは出町柳商店街を通るつもりらしいが、さすがに迷惑にならないかと心配だ。

「読んだよ」

 いつの間にか、隣の岩に綾人が座っていた。

「漫画、おれも読んだ」

 言いながら、かれは仮面をとる。

「なんだよあれ、モデル料くれよ」

 額に汗を垂らしてかれは笑った。

「あ、あれべつにあれだから、あんたのことは研究対象であって、そんなんじゃないから、だから誤解し」

 言い切る前に、綾人は走り出していた。あんなに早く動いている綾人を私は初めて見た。

「小森! おれも負けないからなー」

 かれは少年漫画の主人公のような台詞を大声で叫びながら走る。

「よほど悔しかったのね」

 みんながぽかんとそれを見送っているなか、平松さんがそう零した。

 かれがあんなに急いでどこへいくのか。私にもすぐにわかった。大学のアトリエに向かっているんだ。なんだか安心してしまった。あいつにもともしびを灯す隙間が残っているのだと。

 うぉおおお、叫びながら走る背中を妖怪たちが見送っている。綾人は黒いマントをたなびかせながら、出町柳駅の方へ吸い込まれていった。

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