4 平松の書

「退屈だったよね」

「全然、興味深かったです」

 日々子はそういって頷く。私は後半たっぷりと寝てしまっていて、内容を少しも覚えていない。きっと観ていても忘れてしまうのだろうけど。この間、現代美術をしている友人の展覧会を覗いたとき、声をかけてきた男は、いきなり自分の舞台に私を招待してきた。けっこういい男に見えたので、こうして日々子を誘ってきてみたが、能なんて話はわかりにくいし、難しくてわからない、というのが正直な感想だった。実際、私よりもなにげに連れてきた日々子の方がずいぶん懸命に観ていた。

 男とは差し入れをするほど親しいわけでもないので、軽く挨拶だけすると仁王門通りからタクシーを拾って東大路通りを下っていった。

「なにか食べたいものある?」と日々子にきくと、彼女は「ラーメンがいいです」ときっぱりいった。

 京都ラーメンというのは実はすごく有名で、昼時には行列ができる店もいくつかある、日々子もその例に習って、最近よく食べにいくらしい。

 私はきょうのお礼に、ラーメンを驕ってあげた。私はニンニク抜きラーメン、日々子は唐揚げセットを頼んだのに、同じ時間で完食したのにはさすがの若さを感じた。日々子は細いのによく食べる。

 ちなみにこの一乗寺駅周辺には、ラーメン屋が何軒もある。ほとんどがこってりした豚骨出汁なのだが、東京でラーメン激戦区に住んでいた綾人くんが褒めるほど美味しい店が多いようだ。でも一番のポイントとしては朝の四時や五時まで営業している店がいくつかあるということ。勉強や飲み会で徹夜をした学生が締めにラーメンというのがここでの日常風景だった。

「そういえば、あなたのアルバイト先はこの辺だったかしら」

「そうなんです。平松さんはいらしたことあります?」

「ごめんね、なんかお洒落本屋ってあんまり好きになれなくて」

 店を出ると、私たちは寮に着くまで線路沿いを歩いた。夕暮れの駅のホームや電柱、その影から顔を出す野良猫、日々子の横顔。そのどこからもことばを感じない。一文字も読み取ることができなかった。私は文字を集めて、ことばを集めて書くことでしか自分を表現できない。なのに、最近ではことば拾いが上手くできなくなってしまっていた。

 私は寮母のほかに書家という仕事をしていた。一つ一つの文字を大切にする。それが私の役割だと思っている。だから私にはたくさんの言葉はいらない。文字をただ置いていく。一文字一文字、紙の上に置き去りにしていく作業。それが私の仕事だ。書くとき、私はからだの動く速度が一気に上がるらしい。とくに意識はしていないが、周りからはそう見えると聞く。けれど、そもそも私は注意深い人間ではないのだ。なのに、初めて会うひとなんかは、私がどうも奥ゆかしく気品のある女だと思っているらしい。とんだ誤解だ。

 私は寮へ戻ると、すぐにラウンジのソファに横になった。するとすぐにまどろみがやってきた。







 起きるともう朝になっていた。いったい何時間寝たのだろう。私は何十時間でも平気で寝てしまう。けれど時間がもったいないとは思わない。ただ少し口のなかが気持ち悪いだけだ。雨の音をききながらまたラウンジでうとうとしていると、ぎゃっと、尻尾をふんづけられた猫のような声がきこえたので窓のそとをみてみる。すると、庭の隅でだれかが転んで尻餅をついていた。黄色いカッパを着て、黒の長靴を履いた日々子の姿がそこにあった。

「あら、なにしてるの」

「私きょう草むしり当番なんです」

「雨の日はいいわよ」

 私は日々子を連れ戻すと、タオルで身体を拭くのを手伝ってやった。

「あんた真面目すぎ」

「すみません」

 暖かい中国茶を淹れてあげると、日々子は少し頬を赤らめながらも落ちついた声を出した。

「じゃあさ、もう草むしりはいいから他のことで手伝ってくれる?」

「これから書くから、見てて」

 私は筆を振る真似をする。

「見てるだけですか」

「うん、他になにかある」

「いや、なんだか手持ち無沙汰で」

「いいのよ。人に見られてた方がいいものが書けるから。それに、けっこう疲れるわよ、見てるのも」

 私は、日々子が用意してくれた古新聞の上に画仙紙を広げる。そして思い切り書きつける。雨という字。ただその一文字だけを書き連ねていく。

「文字は生きているの。書かれた瞬間から、もうそこで呼吸を始める」

 次々と私の手から離れていく「雨」を目で追う日々子は、少し顳顬から汗を垂らしていた。

「あなたも書いてみなさい」

「えっ」

「いいから」

「わかりました」

 そう言うと、ゆっくりと日々子は隣に来て、筆をとった。

 日々子はとてもきれいでまっすぐな線を引く。彼女の目のように、強く透き通った文字が生まれる。彼女が書いたのは「晴」という字。それが私に対抗しているようで生意気だったので、私も向きになって画仙紙に大量の雨を降らせた。

「私の字は全然シンメトリーじゃないでしょ。右側と左側、それぞれの崩し方で全体のバランスを考えるの」

「あ、ほんとですね。私も」

「難しいから真似しなくていいわよ。まぁ、私だってなんにも考えないで書くときもあるけどね」

 そう、いまみたいに。夢中で書けるときが一番楽しい。

「終わったら新京極に買い物にいきましょう、なんでもひとつ好きなお漬け物を買ってあげるわ」

 私がそう提案したのは、少しずつ雨が止んで空がすっきりとした晴れ間になってきてからだっだ。

「漬け物ですか」

「そう。嫌い? すごく美味しいのよ」

「好きです」

 私は空が晴れてしまったことにたいして日々子に「負けました」などとは決して言わなかったが、その代わりにこうしてご褒美をあげることにした。







 日々子と二人で新京極を闊歩しながら、私は考えていた。あの合作を〈雨の日の習作〉という題にすることを。私の最近の作品には、タイトルの後に全て習作とついている。私はもともと習作という呼び方は嫌いだった。習作とは練習のためにつくる作品のこと。そんなもの、全てが習作であり、同時に全てがそうでないと思えたのだ。だから習作と呼ばれるものを見ると、どこか逃げているように感じてしまうのだった。けれど、矛盾しているが、私は今の自分に習作以上のものを作れる自信がなかった。「じゃあいつか秀でた方の秀作になればいいですね」と綾人くんは言ってくれたが、それはひとが決めることだ。

「あの玄関の絵、平松さんが置いたんですよね」

 京みやげやら漬け物やらいろんな匂いに歩を緩めそうになりながら、日々子はそう尋ねる。

「そう、私がかれの作品を買った初めてのお客さん」

 あの絵を飾ったとき、私は初めて綾人くんと話した。丸太町のギャラリーに展示してあったあの絵をオーナーに「買いたい」と言ったら、作家本人がわざわざ届けてくれたのだ。

「この絵、なにに見えますか?」

 そのときやけに淡々とした声でかれがそうきくので、私は「そうね」と少し悩むことにした。最初にハロウィン南瓜のことを思ったが、少し考えて「仮面」と口にすると、綾人くんは「なるほど、そう見えますか」となぜか嬉しそうに笑った。そして次の日、いつもより遅く起きた私が玄関へいくと、絵の隣に小さなキャプションがつけられていた。昨日まで無題だったその絵には〈仮面〉という新しいタイトルが付けられていた。それを見て私は微笑んでいたと思う。そして〈仮面〉は、私よりもさらに満面の笑みをたたえていた。この南瓜頭は、女子寮の住人たちにこうして毎日笑いかけるのだと思ったら、つい「がんばって」と言いたくなった。

 綾人くんは不思議な男の子だ。私が自分の中で生まれた言葉を大事にするのとは違って、かれはだれかが喜ぶ言葉を大事にしている。それはとても尊いことだけれど、きっといつか限界がきてしまう。あの笑顔の南瓜を見ているとそんな一抹の不安もよぎる。

「おいしい」

 八ッ橋の新しい味を試食する日々子はしみじみとそう零す。楊枝に刺したそれを私に差し出す笑顔はまるで私のかわいい妹のようで、この娘がどんな気持ちでこの町にきたのか、とおせっかいな想像をしてしまう。

「やっぱり黒胡麻が一番ね」

 いいながら、私はいらぬ心配をするのはやめようと思った。日々子の澄んだ二つの目は、きっと見たいものを見るためにある。そして、そのための一歩をすでに彼女は踏み出している。私は彼女の背中を押すでもなく、ただ見守ってやればいいのだ。

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