3 エマの塔

「日々子、いつまでエマの自慢話に付き合ってるの」

「平松さんひどい、面白い話なんだから」

 私は頬を膨らませてみせる。

「きみは友達のことをもっと知りたいと感じたことはあるかい」

 私はまた、デイビットのそのことばを思い出していた。ニューヨークで行きつけのカフェ『サバースキー』でソーセージを齧りながら、かれは風を撫でるような声でそう言った。かれの発言は、いつも不思議と説得力を持っている。

「ないわね。デイビット、やっぱりあなたすごい、興味深いわ」

「当たり前だ。つまらないゲイなどなんの価値もない」

 デイビットのことを最初に面白いと思ったのは、セックスワーカーのキャシーと一緒に住んでいるということを知ったときだ。二人の間には当然、肉体関係はない。だからこそ一緒にいて楽なのだとかれは語った。

 私は酔っぱらっていてもそうでなくても、デイビットの話をよくしてしまうらしい。日々子は相づちこそ静かだったが、大きな目を見開いていかにも関心を持ってその話をきいてくれていた。

「面白かったかしら、私の話」

「エマさんって、なんかモデルみたい」

「あんた人の話きいてた? まぁいいけど」

 日々子はどうやらあまり固定概念を持たないらしい。私のこんな突拍子もない話をすんなり聞き入れている。少しオーバーに話していることなんかわかっているとは思うけれど。

「エマはほんまにモデルやよ。言わへんかった?」

 郁ちゃんにそう言われると、日々子は「うそっ」と言って頬を赤らめた。

「どおりできれいなわけだー」

「うん、よく言われる。アリガト」

 私とすれ違ったひとは、みんな悪そうな女だと思うだろう。きっと私はそんなルックスだ。まず笑い皺がいけなかった。でもなによりいけないのは、そんな私を心の底から肯定している自分だった。肯定させ続けるためにモデルになった。パリに住んで、半年で飽きてニューヨークに。と、そこまではよかったが、いまは学生時代を過ごした京都に戻ってきてしまった。それはそれで、たちまち私の話で寮内は持ち切りになるのかと思っていた。けれど、なぜだか家出少女の日々子の方が目立っていた。私が、京都でも孤独を味わわなければならないなんて、ありえない。

「日々子さん、お出かけしましょう」

 私は彼女の手を引き、寮の外に出る。日々子のことは郁ちゃんや晶さんからいろいろ聞き出した。その上で、私は少し意地悪なことを考えた。にもかかわらず、「どこにいくんですか?」と日々子は嬉しそうな顔をみせる。

「いろいろ。喜びなさい、きょうは私とデートよ」

 叡山電車で出町柳まで行き、鴨川デルタで休憩をして、今度はバスで京都駅までいって京都タワーへ。それが私のプランだった。私は、日々子と一緒にいるのに、ずっとかれのことばかり思い出していた。

「おれ叡電でさ、逆方向の鞍馬温泉まで行ったときに、途中鹿が出て停まるかもって車掌からアナウンスがあって、嘘だと思ってたらほんとに出たんだよね。鹿。あのときはびっくりしたなぁ」

「ほんと、あなたってマイペースね」

 あのときそういって私が笑うと、「それで、これからどこにいくのでしょうお嬢様は」とかれがきくので「極秘任務です」と返してやった。

 いまでもかれとのことは、楽しかった思い出しかない。付き合っていたというほどでもないが、前に〈里桜〉で暮らしていたころ、たしかに私はアヤトとよく遊んだ。とくにこの最初のデートはよく覚えている。京都タワーに登ったときのことはより鮮明な記憶だった。

「ほら、あそこが二条城でしょー。それからあっちが」

「ふーん、東京タワーみたいに耳が気持ち悪くならないんだね」

「これはこれで、こじんまりとしてていいでしょ」

 京都タワーでは望遠鏡を使って遠くのお寺なんかを見て遊んだ。 

 私は昔から高いところが好きだった。いろんなものを見下ろして、俯瞰できるからだ。ほんとは直接だれかと関わるのは苦手だった。被害妄想かもしれないとはわかっていても、他人と話すとすぐに嫌われているんじゃないかと思ってしまった。だからほんとは自分を見せたいだなんて思ってなかった。けれど、いつからかお洒落を覚えて、見られる快感を知って、ここまで立ち止まらずに走ってきた。そのはずだった。

「そういえば私、上までは登らなかったんだけど、東京タワーの景色はどんなだった?」

「あんまり覚えてない、おれはこっちの方が好き」

 アヤトは京都の町並みを愛おしそうに見ながらそういった。

 私は、東京タワーの蝋人形の館で見た人形たちを思い出す。ランウェイを歩くモデルたちはだれもが時間に取り残されたように無表情で、蝋でできているかのように見えたのだ。スポットライトを浴びて観客に笑みを見せる私は、あの蝋人形と同じだ。そんなことを考え始めたら、なぜだか上手くライトの下を歩けなくなった。

 無数の塔が私を取り囲んでいる。堆く聳えるそれは、私を見下ろす。そのなかには無数のマネキンがいて、その倍の数の目が私を見下ろす。恐ろしい夢だ。私を何度も夜中に起こすその忌々しい映像は、ここ最近では毎日のように見てしまう。私は怖くなった。蝋人形と歩いているからではない。私もそう見えているかもしれないと思ったからだ。私の夢見たショーケースはこんなことだったのだろうか。ううん、きっと違う。こんなことなら、客たちを蝋人形の館に案内した方がいくらかマシだ。そんな馬鹿げたことを考えながらも、肩で風を切り足を前に進め続けていた。だけどいま、ついに立ち止まって、帰ってきた、この町に。つい先日までショーでかかっていた五月蝿い音楽は、すでにもう耳から遠い。京都の不気味な静謐さのなかで、行き場のない胸の奥のともしびに、私はゆっくり溶かされていくような気がした。

「どうしたの」

「えっ」

 気付くと、アヤトが私の頬に触れていた。かれの指には小さな雫がついていた。

「なんかごめん」

 そう言って笑うと、「いや、おれの方こそ。なんだか知らないけど、今日はとことん付き合うよ」とアヤトはハンカチを貸してくれた。あとで訊くと、それは彼が自分でデザインしたものらしかった。南瓜のお化けが笑いかけているそのハンカチで、私は頬を乾かした。

「こういうとき欧米ではキスするんだっけ」

「一方的なイメージだけど、間違ってはないわね」

「さっき話してた友達とは?」

「デイビットのこと? するわけないじゃない。かれはいつでも慰めてくれるけど、女に手を出したりしないわ」

「おれはゲイじゃないよ」

「だけど欧米人でもないわ」

 私たちは大口を開けて笑い合う。また目尻に涙が溜まってくるのがわかったけれど、今度は明るい涙を流せそうだった。

 日々子といるあいだ、私はアヤトのことばかり思い出していた。

 日々子と交代でタワーに設置されている望遠鏡を覗いていると、不覚にも私はその景色を以前より愛おしく感じてしまっていることに気付いた。さすがにもう涙は流れなかったけれど。







「エマ、相変わらず寮じゃだらしない格好やな。モデルなんやからしゃきっとしぃや」

 郁ちゃんに注意されて、私はしぶしぶソファから起き上がる。

「けど最近はずいぶん大人しくなったんやない」

「私はいつも大人しいわよ」

「前は小森にちょっかいだしたりしてたやん」

「そんなこともあったかしら」

なつかしい。そうだ、引き籠もりの小森ちゃん。私は彼女を着せ替え人形みたいにして、いろんな服を着せてみたことがあった。小森はすごく恥ずかしがっていたが、私は小森が実は可愛くてスタイルも良いことに気付いていたから「大丈夫! 超イケてるって」と言ってどんどん次の服を用意した。けれど、元々着ていたゴミみたいなパーカーを勝手に捨てたのがいけなかった。あの子にしてみれば大事な一張羅だったらしく、怒らせてしまった。現にいまも小森は似たような白いすすけたパーカーを着ている。よくあんなものをもう一度買おうと思ったものだ。折角変身させてあげたのに、元の何を考えてるかわからない引き籠もり少女に戻ってしまったじゃない。

「引き籠もりじゃなくて、漫画を描いてるんでしょ」

心の声が漏れてしまっていたようで、日々子が隣から反論してきた。

「一日中、漫画描いてるだけなんて引き籠もりと一緒じゃない」

「あんたかていまなにもしてへんやん」

 郁ちゃんは意地悪そうに言う。意地悪は私の特権なのに。

「私は、サマーバケーションだから」

「ロングバケーションにならへんとええけど」

「もう、ほっといてよ私のことは」

「案外ね、ひとにああだこうだ言われるぐらいのときが人生では一番輝いてる瞬間なのよ」

 平松さんは火だけつけた煙草を片手にそうこぼす。

 いい加減めんどくさくなってきたので二階に逃げると、やっと一人になった。そう思って胸を落ち着かせていると、隣に小森が立っていた。小森は前より少し堂々とした目つきをしていた。

「なによその目」

「日々子の真似」

 小森はそれだけ言うと笑った。

 私の知っている、あの根暗な少女はそこにはいなかった。京都にいる子たちなんてみんな休んで、だらけてばっかりいると思っていた。けれど隠居していると思っていたのに、彼女たちは案外ここで必死に暮らしているのかもしれない。

 私が「マネキンロードでお人形さん扱いなんてもうまっぴら。日本に帰ろうかしら」と訴えたとき、「マネキンロードとはいい表現ね。うん、いいんじゃない。たまにはエスケープしちゃっても」と言ってくれたのはデイビットの同居人のキャシーだった。でも本当のところ、私だけが逃避先として京都を見ている。それに改めて気付かされ嫌気がさす。人は夏の暑い中で成長する、とどこかで聞いたことがあるけれど、私は例外の部類に入るのかもしれなかった。







「高いとこ、好きなんでしょ?」

 ここ、おれの大学で一番お気に入りの場所。あの日、アヤトは得意げにそういった。

 お寺の庭園なら知ってるけど、こんなに素敵な景色、京都にあるなんて、私はそのときまで知らなかった。なによりも、そこからは京都の町を近くに感じながら一望できた。遠くまで見えるのに、不思議と近くにあるように思える、不思議な距離感だった。

「素敵じゃない」

 私が心からそう言うと、アヤトは自分が誉められたかのように少し照れてみせた。

「そういえばさ、アヤトって高いとこ怖いんじゃなかった」

「うん。でもだれかと一緒なら怖くないよ」                          

「ねぇ」

「なあに」

「五分間だけ欧米人になろうか」

 私はアヤトにキスをした。するとアヤトも「じゃあ五分間だけ」と言って私の耳の後ろ辺りを触ってきた。しばらく唇が軽く触れ合わせていたが、かれが舌を入れてこようとするので、「駄目」と人差し指をかれの唇に当てがった。

「なんで」とアヤトがまた真顔で言うので、「だって、あなたスイッチ入る寸前って顔してる」と告げると、「まじ?」とかれは自分の頬を触る。

「うん、一瞬とろんとした眼してたよ」

「そっか、じゃああと三分」

「こら、勝手にはじめる……な」

 私はあのとき思った。アヤトとキスするのは、きっとこれが最初で最後だと。どうしてか、そう確信した。

 いつか、私の逃亡劇はいつか終わる。それが今になってはっきりわかる。人形めいたモデルたちとランウェイを歩く、あの居心地の悪さに耐え、ゆっくりでもそこに重い腰を据える。いや、ステージまで居心地が悪いなんて、きっとそれは、それだけは私の嘘だ。あれほど自分を出せる場所なんて他にないのに。

「でも〈里桜〉もそうね」

 私はまた独り言を呟いていた。

「やっと気付き始めたんだね。そうだよ、あなただけじゃない。すべてのひとが主人公なの」

 このあいだ二人で話したとき、小森はそれだけ言うと、自分の部屋に戻っていった。きっと私もまたいつかあの場所に戻るのだろう。でもそれはもう少しここで、他のスポットライトを覗いてからでも遅くはないのかもしれない。私はいま、初めて友達のことを深く知りたがっている。


 私は日々子をアヤトの大学のお気に入りの場所まで連れ出した。

最初はアヤトに教えてもらった場所に連れて行くことで、日々子に対して優越感を感じられると期待した。けれど京都タワーに二人でいったときから、私はもう彼女に意地悪をする気力が奪われてしまっていた。

「綺麗」

 日々子は感慨深そうに町並みを見下ろす。

「あとであいつのアトリエ覗いてみない。このすぐ下だから。私も久しぶりにアヤトの絵、見たいし」

 筆を持ってキャンバスに向かうかれの横顔はすごく真面目で、私はついくすぐって邪魔したくなってしまうのだ。

 日々子は「うん」と小さく返しながら、景色を食い入るように見ていた。あとで絵に描いてといったらすらすら描いてしまうかもしれない、そんなことを思わせるほど真剣な眼差しで見つめていた。その顔を見ていると、これから先、もしまた私がアヤトとキスをしたとしても、分かり合えない領域がある。そして、そこへ彼女は飛び込もうとしている気がした。

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