2 郁子の苗
「初日から二人乗りで登校って、不良すぎない?」
日々子の初登校日、私の自転車の荷台に跨がる彼女は不安そうにそう言った。
「平気やって」
テレビのCMで覚えたばかりのアイドルの新曲を口ずさみながら、私はぐいぐいと足の裏に力を入れペダルを回した。日々子が重いわけじゃない。京都の道が坂だらけなのだ。
日々子より先に授業が終わったので寮へ戻ると、ラウンジのソファでは晶さんが仰向けになって寝ていた。
「そんなとこで寝てると」
「夏風邪なんてひかへん」
目覚めていたようで、晶さんは立ち上がると思い切り伸びをした。
「ねー晶さん、この前成り行きで綾人と一緒に寝たんやけど」
私は隣に座りながら話し始める。
「は? ヤったのあいつと」
「それが、なんもなかったんやけど。女として見られてないんかな」
「というか成り行きってなによ」
「なんやろ」
「それよりあんた元彼とは完全に切れてんの?」
「あいつとは、もう終わったわ」
元彼とは半年前に別れたが、まだときどき連絡があった。けれどきっと昨日の夜に会ったとき、あの瞬間が最期になったように思う。
「なら、やっぱり綾人のこと気になってんでしょ」
「綾人かー。かわいいとは思うけどな」
「なんだ、煮えきらねぇな」
晶さんはそう言い残すと、階段を上がっていった。寮にいるときの晶さんはだいたい部屋で寝ている。こうしてラウンジに顔を出すと、だれかの愚痴につき合わされる羽目になるからだ。
「あっ、日々子。いつから」
いつの間に入ってきたのか、日々子は玄関の絵の前に立ち、私の顔を見つめてからゆっくりと口を開く。
「郁ちゃんと綾人って」
「なんでもないし」
「でもいまの話」
「いやあれは……なんていうか、たぶん、友情?」
綾人の部屋は少しカビの匂いがした。けれど、干したてらしいシーツには太陽の暖かさが残っていた。何でもない会話をしながら、うとうとと気付けば二人寝てしまっていた。
「私はただの幼なじみですから遠慮せずに本音を」
そうだ、二人は幼なじみらしい。昨日その話をきいて私に少し焦る気持ちがなかったといえば嘘になる。
「だからさ……とにかく違うから」
私は居心地の悪さに耐えきれず、その場から逃げることにした。
「あ、ずるい!」
だれのかもわからないサンダルを履いて外へ飛び出すと、私は駐輪場に向かった。自転車に跨がった私にはだれも追いつけやしない。と思ったが、日々子は平松さんの自転車ですぐ後ろまできていた。
「あんたお嬢様学校やろ。なんでそんな速いん」
「そこの童顔少女止まりなさい!」
日々子はまるで婦人警官のように追いかけてくる。
「ついでに聞くけど、昨日のあのひとって、もしかして元彼?」
昨晩遅くに寮を訪ねてきた元彼の目的は、私から自転車を取り返すことだった。私の愛車は元々あいつのものだった。喧嘩別れだったからか、私が借りたままになっていた。
「それで、なんで別れたの」
「そう急かすなや。チャイ二つ」
結局私は、白川通にある行きつけのカフェで腰を落ち着けて話すことにした。店に入ると猫を抱えた背の高い男が出迎えた。軽く挨拶をして、席に座る前に日々子の分も注文する。ここのチャイはほんのり甘くて落ち着く味だが、出てくるのに時間がかかる。
「ね、かれムーミン谷のスナフキンに似てるやろ」
私が店員の男を見ながらそう言うと、スナフキンはムーミン谷の住人じゃなくて旅人だよ、と日々子が細かい指摘をしてきたが、無視することにした。
「理由はこれ」
話をごまかせるほど私はムーミン谷に詳しくないので、仕方なくシャツの襟をめくってうなじを見せる。すると、一気に日々子の顔色が変わった。
「背中にもあるんやけど、見る?」
「い、いいよもう」
みんなも知ってるの。と日々子は急にか細い声になる。
「もちろん最初は隠してたんやけど、すぐバレた」
私がこの暑いのに襟付きシャツとか、お風呂にはみんなのいないときに入るとか、正直そんなキャラじゃない。寮生たちだって腐っても、勘のいい女という生き物なんだ。
「そっか、でもじゃあいまは優しいひとと付き合ってるんだ」
「どうやろ。あんま好きちゃうし、別れようかと思っとる」
チャイを飲み切ると、日々子はバイトの面接へ向かった。一乗寺にある雑貨も置いているお洒落な本屋。雑誌によく取り上げられるその有名店で働きたいのだと言っていた。
私は一人、二杯目のチャイを飲みながらバナナタルトを齧り、スナフキンを眺めていた。話すわけでもなく、仕事中に猫と遊ぶかれを見つめていた。この店の雰囲気はかれの雰囲気そのものだ。そう思えた。それなら〈里桜〉は私たち寮生の雰囲気を纏っているのだろうか。と、妙なことを考えた。
「ごちそうさま」
一日カフェで読書をしていたいという日々子にたいして、私は同じ場所に三十分もいられないほどのせっかちだ。けれど、その噛み合わなさを私たち同室二人組は楽しんでいる節があった。元彼と、綾人と、それに日々子のことを朝からぐるぐるぐるぐる考えて、なんだか少し疲れてしまった私は、ほんとうの自分の自転車に跨がって、白川通を引き返した。私の自転車は、いつの間にかベルが盗まれてしまっていた。そしてあの緑の自転車は、持ち主の元へと昨晩帰っていってしまったのだった。
✳
昨日お店から連絡があって日々子はめでたく本屋の面接に受かった。そのお祝いというほどでもないけど、日曜日にドライブへ行くことにした。運転手が私で、助手席に小森、その後ろに日々子、私の後ろに晶さんというメンバーだった。
車は綾人から私が借りてきたもので、ホンダのシティカブリオレという名前のクラシックカーだ。父親のお下がりでもらったらしい。オレンジ色のボディは駐車場でもとても目立っていた。ボディも小さく丸みを帯びていて、最高に可愛いルックスのそれを私たちはカブちゃんと呼んでいた。
「で、小森はいつ免許取るんやっけ?」
私はミラーをチェックしながら、助手席に尋ねた。
そのうち、と空返事をする小森は、ダッシュボードからCDウォレットを手に取る。
「もうあんたの助手席姿も板についてきたよな」と晶さんも斜め後ろから指摘する。
「助手席ってナビ役もそうだけど、車内DJとしての役割もあるから好きなんだ」
「あんたがちゃんとナビしてくれたことなんてあった」
「んー、スリップノットかけて集中力奪ったことはあるね」
「こんな気持ちのいい昼間からヘビメタなんてかけたら殺す」
意外にも癒し系音楽しか聴かないという晶さんに釘を刺され、仕方ないねと言って小森は手に持っていたのとは別のCDを挿入した。
「えーまたこの曲? 他にないの」
この塩顔シンガーソングライターは最近寮生のあいだでも流行っているが、さすがに車のなかでも流すには聴き飽きた。
じゃあ、と小森DJが次に選んだのは同じ言葉を何度も連呼するように歌うへんてこな曲だつた。
「なにこれウケる」
晶さんがけらけらと笑っている。
「こういうのファンクって言うんだよ」
聴きなれないファンクというジャンルも、数曲聴けば車内の空気に馴染んだ。
「これ綾人のCD? ミーハーなのは変わってないなぁ」と日々子が笑うと、DJ小森は変な踊りを始めた。
「これライブだと踊りながら歌うんだけど、動きがコミカルで」
「ちょ、狭いんやからじっとしとき」
私が肩に拳をやると、小森はすぐに動きをとめた。こいつは音楽好きだからかいつもは内向的なくせにドライブも好きで、車の中だとこうして人格が変わるほどなのだ。
そんな調子で私たちは肝試しの名所、岩倉トンネルへと向かった。どこに行きたいかと尋ねると、日々子がまさかの肝試しを注文したのだ。
岩倉トンネルというその心霊スポットは、水たまりがトンネルの手前からいくつもあって、ひどくじめじめした場所だった。私たちはだれも霊感が強いなんてことはなかったが、明らかにやばい雰囲気というのはすぐに見てとれた。
「あのさ、絶対窓開けんなよ」
そう言って、一番怖がっているのは晶さんだった。しかし、よく見れば、辺りにはなんだか霧まで出始めているし、寮生のなかで唯一霊感がありそうな小森も、じっと暗いトンネルの入り口を凝視したまま固まってしまっている。
「じゃ、じゃあ入るよ」
私は思わず標準語でそう言うと、アクセルをゆっくりと踏んだ。ゆっくり車がトンネルに飲み込まれていく。こんな場所で車を少しずつ前に進めるというのはすごく神経を使うことだ。というか、正直私は鳥肌が立っていたと思う。
「絶対窓開けんなよ」
「なんで」
「なんでって、入ってくるから」
「なにが」
「これ以上言わせんな」
いつもなら笑える晶さんと小森のやりとりも、今回ばかりは気休めにもならなかった。心なしかさっきよりも霧も立ち込めている。そろそろ稲川淳二さんにご登場願いたい。ときどき、平松さん主催でホラー映画鑑賞会というのをやるのだが、特典映像である稲川さんの解説が入ると、怖さが増すというよりもむしろ笑ってしまうのだった。そういえば、この前綾人とも「ポスト稲川淳二」は、最早日本では見つからないのではないか、という話でちょっとした論争になった。そんなことを思い出していたら、いつの間にか私だけ恐怖から抜け出して、笑い始めていた。
「ちょっと郁ちゃん、変な笑いやめてよ」
「ごめん、思い出し笑い」
「なにをこんなときに思い出すのよ」
「ポスト稲川淳二」
「あー」といって小森も笑い出した。
二人でその話をすると、晶さんと日々子も恐怖から抜け出したようで、ついでに私たちを乗せたカブちゃんは岩倉トンネルからも抜け出ようとしていた。
こんな場所、ほんとうにひとりで来ていたら最悪だっただろう。けれど皆で来ると、こんなにもどきどきして、楽しい時間に変わるのだ。
トンネルを抜ける頃にはなんだかすっきりした気分になっていた。けれど、私には一つ気になることがった。私は、きょう綾人に電話で車を貸してほしいと頼んだときの、かれの声を思い出していた。どこか、いつもと違う声色だった。日々子が来てからというもの、綾人の様子がおかしい。この前綾人の部屋にいたときも、同じ場所で呼吸をしていない感じがした。話をしていても、まるでだれか違うひとと話しているようなぎこちなさがあった。もしかしたら、かれの話し相手はだれでもよかったのかもしれない。いや、綾人にいま必要なのが日々子なら、辻褄が合うのか。
「そういえばさ、郁ちゃんの愛車はどうしたの?」
考え事をしていると、急に現実に戻されるように日々子から厭なことを訊かれてしまった。
「返したよ」
「じゃあこの前乗ってたのは?」
「私の自転車」
そう。私はあいつの自転車なんか使わなくても、そもそも自分の自転車があった。普通のなんてことないママチャリ。日々子は少し迷っていたようだが、あえて訊いてきたのだろう。それが私にとって大切でデリケートな問題とわかったからこそ、踏み込んできたのかもしれない。いや、きっとそうなのだ。
「自転車を返してくれませんか?」
久しぶりに会ったあいつは、すいぶんと真剣そうな顔でそういった。
前に喧嘩したとき「私と同じ関西弁しゃべんな」と怒鳴って以来、かれはこうして私の前では大嫌いだと言っていた標準語を使うようになった。けれど、上手くしゃべれずなぜか敬語になってしまっていた。
「嫌です」と私が返すと、「チャリ、返してくれへんか?」と今度は関西弁に戻してきた。
「嫌や、足なくなるし」
「だから、そういうことちゃうやん」
わかってる。緑色のマウンテンバイクに私が乗り続けている限り、私はかれのことを忘れられない。
「幸せになれ郁子。そのために別れたんや」
かれの最後のことばを、私はたぶん一生忘れないだろう。私は鍵をかれに渡すと、かれが取り戻したばかりの自転車に乗って去っていくのを黙って見送った。
なんであんたが幸せにしてくれへんの、とは言えなかった。あいつの酔うとひとを殴る癖を直すには、私の小さなからだではもう無理だから。だって、あいつのことを好きなのと同じぐらい、会うとからだが震えてしまうのだ。だけど、せめてかれが最後に見せた、出会ったときと同じようなぎこちない笑顔だけは覚えておこう。
そう思った。
✳
私が車を綾人の住むアパートまで返しにいき寮まで帰ると、部屋では日々子が私の豆苗に水をやっていた。
「豆苗ってすぐ育つんだね、びっくりしちゃった」
「ひとは、だれに水をやったらちゃんと育ってくれるんか、わからへんから難儀やな」
「結果がわかってたらつまらないと思うけど」
彼女はまっすぐ、私を射抜くような視線を送る。この子は自分の役割をきちんと知っている子だ。だからきっと綾人のことも。
「平松さん、ハロー、うん、帰ってきちゃったー」
――と、騒がしい、いやなつかしい声が聞こえた。そしてその声はすぐに二階まで上がってくるとノックもなしに部屋へ入ってきた。
「エマ、やっぱりあんたね」
「郁ちゃん、相変わらず中学生みたいね」
「なんや、あんたかって相変わらずな性格してるみたいやない」
「あら可愛い子が増えてるのね。ハロー」
「は、はろー?」
「エマ、ここは京都やから。日々子、紹介するわ。こいつは」
日本とアメリカのハーフのエマは、個性派揃いの女子寮のなかでも一際遠慮がないトラブルメイカー。だけど、悔しいほどに魅力的なその笑顔のせいで、どこか憎めない奴なのだった。
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