惹句ランタンの燈

くもさき

1 日々子の羽

 チャペルで一人目を瞑っている。私がだれかのために祈っている。天井からぶら下がるシャンデリアを天使のようだと先生は言っていたが、私には巨大な羽虫に見えた。前に一度、羽虫が校舎内で大量発生したのを覚えている。いきなりそんなものが湧いてきた理由はわからなかったが、それは蜉蝣だったらしい。私は地面を這う虫は例外なく嫌いだけれど、空を飛べる虫には憧れた。かれらはそのからだに自由を纏うことができる。私も、行かなくてはならなかった。ステンドグラスに見守られる時間は、もう私には必要ない。

 私は目を開きゆっくりと立ち上がると、毎日通ったチャペルに別れを告げた。

 ずっとだれかが私を呼んでいる気がした。それはよく知っている声だった。音に合わせて踊るピエロのオルゴール。初めて私にそんなプレゼントをくれた男の子。サーカスのピエロになりたいと言ったかれの声とオルゴールの音が、耳の奥で混ざって響いていた。


 岩倉行きのバスはちょうどいい揺れで、窓の外を見ていたはずがいつの間にか眠ってしまっていた。窓から見えるのは、どこか懐かしいようで、暖かみのある町並み。過ぎ行く知らない町の景色に、私の胸が高鳴る。

 途中下車し、賀茂川沿いの道路を歩く。天気予報によれば、京都では今朝まで強い雨が降り続いていたらしい。隣を走り去るバスは、少し大げさに蛇行して水溜まりを避けていった。それを見て私はそっと微笑んだ。

 ふと腕時計に目をやると、針は午後四時を指していた。ずいぶんと半端な時間に着いてしまった。修学旅行生らしい集団が追い越していくのを見送りながら、私は辺りを見回す。するとすぐ先にかかる橋の名前が目に留まる。それは〈三条大橋〉というらしい。   

 京都駅から電車で目的地までいこうと思ったが、河原町というところで町並みに見覚えがあるように感じ、気付くと降りていた。どうせだからと思い、少し散歩することにした。一度外国人のひとに道を訊かれ、困ったので他の通行人を頼ってみたけれど、そのひとも観光客だったので埒があかなかった。(いくつかのお寺を一度に訊いてきたのだが、私には一つもわからなかった。なんせ、ここに来たのは中学生のときの修学旅行以来だった)。

人通りのあるところを歩くのに疲れたので、人気のない方へ行くと、偶然バスロータリーの裏に交番を見つけた。目的地までの道を訊くとまだけっこうな距離があることがわかった。それでも、歩いていくことにした。荷物は先に送ってあるので、歩くのは苦ではない。むしろ、ここに今日から住む者としての実感が欲しかった。そのためといったら変かもしれないけれど、私はもう一度川端通という川沿いの道を闊歩することにした。川の向こうに、風情のある店がたくさん見える。風通りのよさそうなそこは納涼床と呼ぶらしい。これは新幹線のなかで読んだガイド本で得た知識だ。

 納涼床で昼間から飲んでいるカップルがこちらを見ている。いや、きっとかれらもまた、あそこから町並みを傍観しているだけなのだ。私もいつか、この町並みの一部になってしまうのだろうか。そんなことを思いながら、私は川沿いの木陰を歩いた。




✳︎




 煉瓦色をした建物の門には<里桜>とやけに達筆で書かれた看板があった。そう、ここが私の目的地だった。そっと木製の扉を開け玄関へ入ると、靴箱の上の壁に大きな絵が飾ってあった。それは、ハロウィン南瓜が笑っている絵だった。その奥には十畳ほどのラウンジがあった(ラウンジといってもテーブルと二人がけのソファが二つ向かい合わせにあるだけなのだけれど)。

「あなたが、新入りさんね」

 急に上から声がしたので目線をやると、階段をゆっくりとだれかが下りてくるのが見えた。

「沢井日々子です。今日からお世話になります」

「そんな、会社じゃないんだから固い言い方しなくていいわよ」

 彼女はラウンジのソファに腰掛けると、煙草に火をつけた。

「私はこの女子寮の管理人の平松です。よろしく」

 けして派手さはないが綺麗な顔とすらっとしたからだ付きをしていて、歳は三十代後半ぐらいに見える。白いゆったりとしたワンピースを着て、薄いブルーのストールをしている。煙草は火をつけただけで吸わなかった。

「平松さん、二階のトイレットペーパーまた切れた」

 上から今度は甲高い声がきこえたので、びくっとする。

「また小森の阿保が無駄使いしたんと違う。もうええ加減にしてほしいわ」

 怒りながら下りてきた彼女はイントネーションが関西のそれのようで、私には新鮮だった。

少し間を開けてようやく気付いたようで「あっ、あんたが新人ちゃんか」と彼女は私を指差す。

 私がもう一度自己紹介をすると、「日々子って、ええ名前やな」と言って彼女は一歩、二歩と私ににじり寄る。

「へぇー、あんたええ目ぇしてる。あいつとは大違いや」

 彼女は面白い形の貝殻でも見つけたように、私の顔を覗き込む。

「あ、この子はあなたと相部屋の中野郁子。たしか同じ大学になるのかな。あなたと同じ二年生よ」

 平松さんが間を取り持つ。

「すごく……童顔ですね」

「童顔? かわいいの間違いやろ」

 彼女はそういって、頬をふくらませる。たしかに背がすごく小さいわけではないが、顔はどう見ても中学生ぐらいにしか見えない。

「まぁでも仲良うしてな。気軽に郁ちゃんって呼んでな」

 郁ちゃんは、そう言うとえくぼを両側に作るようにして笑った。

 とりあえず自分の部屋でも見てきたら、と平松さんに促され、私たちは階段を上り二階の一番奥の部屋に入った。

 郁ちゃんの部屋は意外と言ったら失礼かもしれないが片付いていて、窓からは気持ちのいい風が吹いていた。

 壁側に小学生の使うような勉強机があって、その下に見慣れない植物があった。

「ああ、これは豆苗。ここで育ててるんやけど」

 私がまじまじとそれを見るものだから、郁ちゃんはそれについて自慢げに解説してくれた。しかしその話し方は栽培している植物というよりも、むしろ愛犬の紹介に近かった。

 可笑しかったので思った通りの感想を伝えると「散歩に連れて行けへんのが難点やな」と彼女は返した。

「お天気やし、サイクリングせぇへん?」

「でも私、自転車」

「平松さんが貸してくれるで」

 寮の駐輪場で私は平松さんの水色のクロスバイクを借りた。郁ちゃんは緑のマウンテンバイクに跨がった。

「京都は狭いから、この愛車さえあればどこでもひとっ飛びや」

 郁ちゃんの後ろ姿を追って、二人で風を切って自転車を漕ぐのはとても気持ちがよかった。さっき歩いた川沿いを折り返して行くと、ちょうど三つの川が合わさった場所に到着した。その出町柳駅の目の前にあるのが通称〈鴨川デルタ〉と呼ばれる場所なのだと郁ちゃんは教えてくれた。私たちは川辺に自転車を停めて、そのちょうど三角形になっている川の合流地点まで歩いていった。もうお花見シーズンは過ぎていたけれど、学生らしい集団がピクニックをしているのが見えた。川には飛び石がいくつかあり、それを軽快に飛び跳ねて行く郁ちゃんの後ろを追いかけていくと、私たちはいつの間にか向こう岸に渡っていた。川砂利を踏んで、郁ちゃんは橋の下にある人影のほうへ駆けていった。

「晶(あきら)さん、やっぱりここにいたんやな」

 見上げるほど背の高いそのひとは、近づくとタンクトップが弾けそうなほどの筋肉質なのがわかった。郁ちゃんが言うにはキックボクシングをしているらしい。私が自己紹介をすると、すこし微笑んだような顔をして蹴りの練習を続けた。私はしばらくその凛々しい横顔に見入っていたので気付くのが遅れたが、その影に隠れるように、体育座りをしている女の子がいるのを見つけた。その子は練習に励む晶さんのからだをスケッチしていた。

「なんや、小森もいたんか」

 小森と呼ばれた彼女は白いパーカーのフードを深くかぶっていて、その下にはさらに黄緑色のヘッドフォンをつけていた。私がもう一度名乗ると、名乗り返すでもなくいきなり鼻を近づけて匂いを嗅いできた。そしてしばらく私を観察したあと、「あなた、どこからきたの? ジャックと同じ匂いがする」とよくわからないことを言ってきた。

「ジャックってだれ?」と私が返すと、「ジャックはね、寂しい人を探してるんだけど、ほんとは自分が一番寂しいの」とだけ言って、またスケッチに戻った。邪魔にならない程度に、横からスケッチブックを見ると、躍動感のある蹴りの様子が、実に写実的に映し出されていた。

「すごい、ですね」

「小森は漫画家志望でな、ときどきさっきみたいに変なこと言い出すときあるけど、まぁ気にせんで」

 郁ちゃんは少し早口にそう言うと、晶さんの方に汗拭き用の大きめのタオルを放り投げた。







「日々子も汗かいたやろ、お風呂先入ってな」

 寮に戻るなり郁ちゃんにそう言われたので、お言葉に甘えることにした。シャンプーやバスタオルを持って、一階の奥にあるお風呂場へ向かうと、すでになかでシャワーの音がしていた。けれど思ったよりも広く、三、四人は一緒に入れそうだったので脱衣所で服を脱いで「お邪魔します」と一応ハンドタオルで前を隠しながら入っていった。

「おお、新人ちゃんか」

 少しハスキーな声で返事をしたのは、さっき紹介されたばかりの晶さんだった。私は無言のままつい見惚れてしまった。彼女の右腕には水引の刺青が在った。

「あのさ、座ったら?」

「あ、そうですね」

 シャンプーをしながら振り返る彼女の隣に、私は椅子を置き座る。

「ああ、これ」

 晶さんは自分の腕をぐいと前に差し出す。

「見たいなら見ていいよ」

 考えてみたらおかしいが、私はいまのいままで女のひとも入れ墨をするということを忘れてしまっていた。

 私はそっと、彼女の腕を触ってみた。引き締まった二の腕に水引が描かれている。

「イカしてるだろ。あわじ結びって言うんだ」

 晶さんはそう言ってからから笑う。こんなに鍛えられた女のひとのからだは初めて見たけど、素直に美しいと思った。

 先にからだを洗い終えた晶さんは、ずいぶんと長く湯船につかっていた。

「どした? 一緒に湯船つかろうぜ」

 男のひとみたいな溜め息をついたあとに胡座をかいてそう言われると、なぜか少しだけそわそわしてしまった。

「じゃあ失礼します」

 爪先からそっと湯船に入り、また晶さんの隣で今度は体育座りすると、「肩までつかれよー」と晶さんは私を沈めてきた。

「溺れる」

「大袈裟だなぁ。肩までつからんと京都美人になれんぞ」

「そんなの初耳です」

 私は晶さんの大きな掌を払うと深呼吸した。晶さんの横顔は、鍛えているせいか骨張っていて凛々しく見える。まったく隙のない、引き締まった顔つき。けれど、ときおり彼女が見せる笑顔にはどこか油断があって、私はそれに気付いて初めて自分が寮生になった実感をもった。

「郁子は、また一緒に入らないって?」

「うん。あ、もしかして郁ちゃんも?」

「ちげーよ。堅気の家だぜここは。あいつはまた違う理由だよ」

「違う理由?」

「みんないろいろあるんだろ。若いからな。おまえもそうなんじゃねぇの?」

 私は、私にはなにかあるのだろうか。ひとまず、一緒にお風呂に入れないような理由はとくに思い浮かばない。

「あんたさ、日々子だっけ。見かけによらず、すげぇな」

「え、なにが」

 私はなぜかしら咄嗟に胸を押さえて、すぐに恥ずかしくなった。

「胸じゃねぇよ馬鹿。ここの寮生変わったやつばっかなのに物怖じしてなくてさ」 

「……悩むより先に、行動してみることにしたんです」

 私は一呼吸置くと、きっぱりと言った。

 そう。大学を去ったあの日、私はチャペルの懺悔室で神父さまに自分がいかに不出来な生徒だったかを告白した。私はうそをついていた。キリストなんて信じていなかったし、女学校も大嫌いだった。それなのに、優等生のふりをして、そこになりを潜めていたのだ。

「じゃあ日々子は青春の救世主になれるかもな」 

晶さんはそう返したが、「青春の救世主」という言葉の意味はよくわからなかったので聞き返すと「青春はいろいろあるからな。普段は五月蝿くても、たまには仲間がいるってのも悪くないだろ」と質問の答えになっているのか定かではないけれど、なんだか名言めいたことを言うので笑ってしまった。

「笑うなよ、恥ずかしいだろ」

 それから二人でいろんな話をした。前の試合で晶さんが自分より十センチも背の低い選手に負けてしまったこと。寮母の平松さんのほんとうの歳をだれもしらないことなど。そんなことをしていたら、お風呂場を出たときには完全にのぼせてしまっていた。

 それと、晶さんはこのあいだまで学生だったらしく、中退してキックボクシングのプロになったらしい。歳は意外にも私と二つしか変わらなかった。この意外は、郁ちゃんのときとは真逆の意味だった。

 部屋に戻ると、郁ちゃんは豆苗に水をやっていた。

「もうみんなお風呂入ったよ」

 それだけ言うと、郁ちゃんは準備していたお風呂セットを小脇に抱えて「ほなね」と言って部屋を出た。「ほなね」という挨拶は、東京ではきいたことがなかった。ましてやあのお嬢様学校ではきくはずもない。平松さん曰く、京都には全国からいろんな学生が集まっているから、関西とはいえ大阪や滋賀ほど関西弁のひとは多くないらしい。けれど私の同居人は、同い年で、でもそう見えないぐらい童顔で、関西弁で、かわいいひとだった。それについさっき、正反対の友達もできた。なんだか初日から充実している。

 ベッドに横になってうとうとしていると、物音がするので見れば、窓になにか虫がぶつかってきていた。それは蜉蝣ではなくべつの羽を持った虫のようだった。そういえば、蜉蝣はずいぶんと短命な生き物だそうだ。私は、なぜかしらこの町で、少し長く生きていけそうな予感がしている。

「郁ちゃんいるー」

 ――と、窓の外からかすかにそう呼ぶ声がした。私は途端に立ち上がり、窓の外を見る。

「郁ちゃんはお風呂ですけど」

 私がそう返すと、庭の真ん中に立っていたかれは驚いたように顔をしかめた。

「日々子」

 そうこぼすと、かれは眼を丸くしたまま無言で私の顔を見つめた。そうだ、私はこのひとに会いにここまできた。綾人。かれがすべてのきっかけだった。かれと、そして私自身を救うために私はここまで飛んだ。片道分しかもたない、生え立てのこの羽で。

「なんでおまえこんなとこに」

「京都美人にでもなろうかと思って」

 あと、なんだっけ。ああそうそう、青春の救世主。

 私が微笑むと、綾人はなぜかしら自分の頬を軽くつねってから、苦笑いした。

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