第36話 宣戦布告

 ―― 『二人の女王』リバイバル公演 ―― 


 かつて、アクトノイドの実力を世界に知らしめた『二人の女王』が、5年ぶりにリバイバル公演されます。


 主演は今人気沸騰中の女優『空閑くがかなた』。かつて、アクトノイドが演じた役を、今回は、人間の女優が己自身の体にて演じます。


◇空閑奏(主演女優)コメント

 5年前の本公演が、アクトノイドの出発点となったことは、皆様も御存知のとおりです。その後、演技力に秀でているが正当に評価されてこなかった役者たちがアクトノイド・パフォーマーとして続々と活躍し、現在のアクトノイドの活況へとつながっています。


 故佐竹狂一氏は、パーソナリティと演技の分離こそが演劇の理想だと主張しました。役にあった容姿を持つものだけが選ばれる、そこに技術はない。それは演技とは言えない。アクトノイドこそが、演劇の理想を実現するのだと。


 しかし、この状況は正しいのでしょうか。役に最適に合ったアクトノイドが、その役を演じる。そこに技術はあるのでしょうか。それを演技と呼べるのでしょうか。人間が己の体をつかって、いろいろな役を演じる。それこそが、演劇の本質であり、演じる技術なのではないでしょうか。


 ここに私は宣言します。演劇にアクトノイドは必要ないと。


 そして、それを私自身の演技によって証明します。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「まさか、ここまでやるなんて」

「これじゃ、ミカさんのやってきたことの全否定じゃない。いくら、ミカさんを超えるためったって、あんまりよ。まともじゃない」


 まともじゃないか。だけど、汚いまねをしているわけじゃない。正々堂々、正面から勝負を挑んできている。だからこそ、怖い。奏の演技には狂気がある、いや、演技だけでなく生き方そのものが、尋常でない。自分を高めるためには、一切の妥協をしない。自分のやりたいことには、全くのためらいがない。他人の常識やルールなどお構いなく、まっすぐに自分の道を突き進んでいる。


児島こじま監督が言ってた。子どもの記憶を持っていることが、自分をおとなになってからも苦しめたって。でも、それはきっと、子どもの純粋さが残酷だからだと思う。本人は、自分の好きなことをただ一生懸命やってるだけなのに、周りを傷つけてしまう。奏もきっと同じで、すごい舞台を作りたい、そのためにアクトノイドよりも、自分自身の身体で演技をしたほうが優れている。そう考えてるだけなんだと思う」

「あの子はそれでいいかもしれないけど、他の人はどうなるのよ。みんなが、あの子みたいになれるわけじゃない。あの子みたいに、恵まれてない」


 恵まれているか。確かにあの子の容姿は生まれつきのものだろう。だが、あの子の情熱は? あの子の一途さは? あの子の努力は?


 演劇への思い、演技への情熱、今まで自分は誰にも負けない自信があった。だけど、あの子は自分以上に強い思いを、熱い情熱を持っているのかもしれない。


 そして、あの子の情熱に火をつけたのは、そもそも私自身だ。自分でつけた火で、自分が燃やされる。だったら、私の今までの努力はなんだ。何のために、ここまで来た。


「あの子は自分のすべてをかけて私に挑戦している。だったら、私も逃げるわけにはいかない。あの子の舞台を私の目で見極める」

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