第9話 愛してその醜を忘る(後編)
ラブシーン撮影の日がやってきた。
「中身が愛子じゃないんだから問題ないでしょ」「いや、やっぱり嫌だ」「博士が愛子のこと好きだって、愛子に言っていいですか」「それは困る」「だったら、今回は見逃して下さい」「それとこれとは話が別だ」「じゃあ、話す」「絶対、ダメだ」等々、スッタモンダの挙げ句、
撮影は、最初に、作品の売りである醜男と美女との濃厚なラブシーンから始めることになった。後に回して何か問題が起きたら、それまでの撮影が全て無駄になってしまう。リスクのある部分は、先に片付けてしまおうという腹だ。
撮影の準備にあたり、用意された楽屋でのアクトノイドの設定には、愛子だけでなく流博士も浮かない顔ながら協力してくれている。
すべての準備が整い、ミカがパフォーマースーツを着用し、オペレーションサークル中央に陣取った。
「ミカさん、頑張って!」
愛子がガッツポーズを送った。
「ミカくん、紗弥をくれぐれも頼む」
流博士の目は、泣きそうだ。
「じゃあ、行ってきます」
裸体にガウンを羽織った
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
濡れ場の撮影は、監督、照明担当、録音担当、カメラマン、そして、相手役の
「じゃあ、リハーサル行きます」
無事、キャスティングができたことで、
「紗弥さん、準備はいいですか」
「……」
「紗弥さん?」
「……」
##########################
ミカを吐き気が襲った。
目の前にある醜悪な物体。
ブヨブヨとした体から、流れるように落ちる汗。
私は女優だ。濡れ場なんか、アクション映画の格闘シーンと変わらない。所詮、体なんか服の延長に過ぎない。そんなふうに割り切っていたミカだったが、本能が体を揺さぶる。
一歩、足を踏み出そうとしたが、見えない壁に阻まれた。まるで、琢也の周りに負の結界が張ってあるかのようだ。
「くさー!」
アクトノイドには嗅覚センサーは搭載されていないはずだ。にも関わらず、ミカを猛烈な汗の臭いが襲った。
「な、なんで!?」
視覚が見せる気のせいか? いや、たしかに臭う。こんなことが、ありえるのか。
『じゃあ、キスシーンから』
監督から指示が出る。
必死に紗弥を操り、顔を琢也に寄せる。紗弥の視覚には、琢也の顔がアップで写り、開いた口から、すきっ歯と、汚れた歯が覗く。
「うっ!」
強烈な口臭が襲う。
気のせいか?
いや、気のせいじゃない!
実際に、嗅覚が反応している!
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「すいません! ちょっとトイレ!」
紗弥が
「すげえ、最近のロボットって、そんなとこまで再現してるのか」
監督が、開けっ放しのドアに向かって呟いた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「無理、無理、無理ー!」
ミカが膝をついて、HMD内蔵のヘルメットを外した。
「どうした!」
「大丈夫ですか!」
ミカのただ事でない様子に、二人が心配して声をかける。
「ちょっと甘く見てたわ。『愛してその醜を忘る』ってのは、言葉でいうのは簡単だけど、そんなに甘いもんじゃないわね。まさに『言うは易く行うは難し』って感じ」
「……」
「……」
「人は、外見で判断しちゃいけないとは思うけど」
「……」
「……」
「やっぱ、見た目は重要かも」
「ミカさん、それはちょっと酷くないですか。外見で判断されることで、ミカさん自身が、さんざん嫌な思いをしてきたじゃないですか」
「僕だって、相当な覚悟を決めてここに来たんだぞ。さすがに、それはないだろう」
二人が軽蔑した目でミカを見た。
「私も、そう思うわよ! でも、見た目はともかく、
「
「でも、実際に臭うんです!」
「そんなことは、ありえない」
「ありえないったって、ありえるんだから、しょうがないじゃないですか! 私だって、人を見た目だけで判断したりなんかしませんよ。でも、
「視覚が嗅覚に影響を与える可能性もあるが、そんな強烈な効果は聞いたことがない」
流博士が首を捻った。
「で、どうするんですか? ミカさん」
「少し休んでから、もう一回、やってみる。それで、ダメだったら私から監督に詫びをいれます」
「……」
三人の間を沈黙が包む。
しかし、その沈黙を破るように、控室のドアがノックされた。
「大丈夫ですか?」
入ってきたのは、琢也だった。
「やっぱり、私が相手では無理ですよね。ご迷惑をおかけし、申し訳ありません。撮影は中止にしましょう。私の方から監督に言いに行きます」
「そんな、悪いのはこちらです。後藤さんに責任はありません」
部屋を出ていこうとした琢也を、愛子が慌てて引き止めた。
「ですが」
琢也が顔に浮かぶ汗を拭く。
「後藤さんは、多汗症ですか?」
その光景を見て、愛子が尋ねた。
「は、はい。私は、昔から汗っかきで。人に不快感を与えてしまうんです」
「それは、たいへんですね」
「つねに汗ふきシートを持ち歩いて、すぐに拭き取るようにしているんですけど」
愛子が、何を思ったか、琢也に近づいて匂いを嗅いだ。
「博士、見た目と違って臭いません」
「汗自体に臭いはない。汗が臭うのは、皮膚の表面にある細菌によって分解されるためだ。汗をかいたら、すぐに拭き取れば臭いは防げる」
「なるほど。後藤さん、不躾なことをお伺いしますが、その歯は、どうされたんでしょう?」
「は、はい。小さい頃、親が構ってくれませんで、虫歯だらけに」
「ネグレクトですか?」
「はい」
琢也が悲しそうな顔をした。
―― ネグレクト
虐待の一種だ。直接的な暴力はないが、世話が必要な子どもや、介護が必要な老人や病人の世話を怠り、相手に間接的な危害を加える。子どもの場合、歯磨きの習慣が疎かになり、虫歯や歯並びの悪さの原因につながることが多い。
「家を出てからは歯科でホワイトニング治療も受けたんですが、貧乏役者の収入だと、これ以上は無理で。今は、食後には必ず歯を磨くようにしていますが、抜け落ちた歯が新しく生えるわけもなく」
口元は貧富の差が出やすい。一度失った歯は取り戻せないので、小さい頃からのケアが重要だ。そして、歯科治療は自由診療の幅が大きい。
「ミカさん、原因がわかりました」
「本当? いったい何が問題だったの?」
「原因は、ミカさんです」
「えっ?」
戸惑うミカ。
「ミカさん、パフォーマースーツの手入れを最後にしたのは、いつですか?」
「手入れって、特に何もしてないけど」
「ミカくん、本当か! 最初に着たときから、一度も手入れをしてないのか!?」
「ミカさん、自分が使う道具の手入れをするのは、常識です」
二人が、ミカを責める。
「ミカさん、本人を目の前にして言いにくいことですが、言わせてもらいます。臭いのはミカさんです」
「ちょ、ちょっと何言ってんのよ!」
「さっきの博士の説明をミカさんも聞きましたよね。汗をかいたままにしたら、臭うのは当たり前じゃないですか!」
「じょ、女優の汗は、く、臭くないのよ」
「アイドルはトイレ行かないみたないこと言わないで下さい。ミカさん、いくつですか」
「汗の成分は、女優もおじさんも同じだ」
流博士も冷静に突っ込む。
「もう一つ、聞きます。ミカさん、今日のお昼、何食べました?」
「ぎょ、餃子だけど」
「歯、磨きました?」
「……」
「ラブシーンの前なのに、歯を磨いてないんですか?」
「だって、アクトノイドを使うんだから、私は関係ないじゃん」
「それは、女優としてどうかと思います」
愛子の目が冷たい。
「ミカさん、やることはわかってますね」
ミカが、自分の着ていたパフォーマースーツに顔を近づけ、恐る恐る、中の臭いを嗅いだ。
「く、くさーい!」
「フルフェイスヘルメットを被ったことにより、臭いが充満したんだ」
流博士が冷静に原因を説明する。
「愛子、除菌シート持ってる?」
「あいにく、持ち合わせてないです。今日は、我慢するしかないですね。プロの女優として、最後まできっちり仕事をして下さい」
「そんなー」
ミカの顔に絶望が広がる。
「あの、よろしかったら、私の使いますか。あと、普段、劇団で小道具や衣装の手入れもやってるんで、お手伝いします」
神様がいた。
「愛子、歯ブラシある?」
「ないです」
「あ、私、予備の歯ブラシがありますので、よかったら」
人間は中身だ。
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その日、無事、ラブシーンの撮影は終了し、三ヶ月後、『愛してその醜を忘る』は公開された。
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”リアルならいいってもんじゃ無い” -映画評論-
”批評家絶賛するも、興行は失敗” -ワールドエンタ-
”せっかくお金を払うんだから、美しいものを見たい” -映画を見たAさん-
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― 週間フォトスポ 第7号 ―
『清純派アイドルの熱愛発覚!! 本誌記者独占スクープ!』
人気アイドルグループ『スペイン坂24』のセンター
男の人とは今まで一度も付き合ったことがありません(事務所発表プロフィールによる)という清純派の平川だが、現在、なんと20歳年上の個性派俳優と同棲中!
そのお相手というのが、一部の演劇ファンからカルト的人気がある劇団梁山泊所属の
二人の交際は、後藤が主演した『愛してその醜を忘る』のインタビューがきっかけとのこと。ヒロインを演じた女性ロボットに対し、あたかも生身の女優であるかのように礼儀正しく接した後藤の人柄に惹かれたという。
はからずも、二人のキューピットとなった『愛してその醜を忘る』を制作した
「まさに『事実は小説より奇なり』。残念ながら映画は惨憺たる結果に終わりましたが、是非、二人をモデルにドキュメンタリー版『愛してその醜を忘る』を撮影して、リベンジしたい。ドキュメンタリーなら自信あります!」
映画の内容を地で行く事の成り行きが、世間を騒がせるのは必至で、本誌は今後も追跡取材を続ける予定である。
―― 愛してその醜を忘る 了 ――
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