第7話 子どもの世界(後編)

 美登利と一体となったミカが、研究室を出て廊下を歩く。


「うわー、天井高い」

 普段見慣れた光景が、子どもの視点だと目新しい。


 とことこと、エレベーターホールまで歩く。

「ボタン、押せないじゃん!」

 エレベーターを呼ぶボタンに、美登利の手が届かない。


 確か、荷物用エレベーターには低い位置にボタンがあったはずだ。荷物用エレベーターは、フロアーの反対側にある。

「と、遠い……」

 一歩一歩の歩幅が短い子どもの足では、フロアーを横切るだけでも一苦労だ。


「やっと、着いた」

 エレベーターを呼び、荷物用エレベーターに乗りこむ。

「ひ、広い!」

 まるで、一つの部屋だ。それが、ガクガクと音を立てて移動するさまは、SF作品に出てくる秘密基地だ。


 1Fについてエレベーターから降りると、巨人たちが闊歩していた。大人たちの足が視界を遮る。蹴飛ばされないように、足の間を縫って行くと、

「きゃっ!」

 傘を振り回して歩く大人がいて、目の前を傘の先がかすめた。自分が危険な行為をしているとも知らずに歩き去る男を追いかけ、

「あぶねぇだろ」

 男の膝裏を蹴飛ばした。


「うわー」

 男が転び、周りの大人たちに突っ込んだ。

「何やってんだよ」

「危ないわねぇー」

「気をつけろ、バカ」

 大人たちの喧騒を後に、得意顔で美登利ミカがビルを後にした。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「けっこう、ゴミが落ちてるなぁ」

 一見、きれいに見える道も、子どもの低い視点から見ると意外に汚れている。大人では気づかないものを、子どもは目ざとく見つける。時には、ゴミだけでなく、宝物もある。


「100円見っけ」

 落ちていた100円玉をポケットに入れた。法律論では、たとえ一円でも落ちていたものを拾ったときは警察に届ける必要があり、ネコババしたら遺失物横領罪だ。

1年以下の懲役、もしくは、10万円以下の罰金だ。


 ―― そう言えば、昔、50円玉を拾って届けて、お巡りさんに褒められたな。

 ミカの小さい頃の記憶が蘇る。しかし、現実問題、小額の小銭を届けられても迷惑なだけだろうし、捕まることもないだろう。こういう経験を繰り返しながら、子どもは成長していくのだ。あとで、買い物ついでに募金箱に入れておこう。


 普段なら、たかが100円だと思ってしまうが、今は、宝物を見つけて、なんか気分がいい。踊るように、スキップしながら道を歩く。

「大人になってからは、舞台以外でスキップなんか、したことないなぁ」

 体を自由に動かすだけで、気分がウキウキする。子どもっていいなぁ、子どもって楽しいなぁと思いながら、道を進んでいく。


『ゴゴォォー』

 横断歩道で信号を待っている美登利ミカの前を、轟音を立ててトラックが通り過ぎた。

 ―― 怖い。

 一瞬、心臓が止まった。大人でも轢かれたら、命がない。自分の背丈ほどもある車輪を見た時、恐怖で心臓が止まりそうになった。


「視界が狭い」

 今のトラックも突然現れた。子どもの視野は約90度。大人の視野160度の半分しかない。リアリティにこだわる流博士は、こんなところもちゃんと再現している。安全だと思っても、油断は禁物だ。


「信号が変わっても、すぐに飛び出しちゃダメよ。ちゃんと、右、左を見てから、渡ろうね」

 突然、上から話しかけられた。優しそうなおばさんが笑顔で話しかけてくる。そういえば、昔は旗を持った緑のおばさんが横断歩道の前に立っていたけど、最近は、見かけない。

「はぁい」

 おばさんに、元気よく返事をした。手を上げて、横断歩道を渡るのは、いったい何年ぶりだろう。


 更に歩いていくと、小さな公園があった。都会の真ん中なので、遊具もなく、高い鉄棒があるだけだ。子ども用というよりは、健康に気をつかう大人用だ。当然、美登利ミカの手には届かない。


 公園の端には、小さなバラ園がある。普段なら、花を見るためには覗き込む必要があるが、ちょうど、子どもの目の高さに咲き誇っている。ピンクのバラの花は、美登利ミカにきれいな顔を向けて、まるで、美登利ミカと友達になりたがっているようだ。


「こんにちは」

 自然に言葉が口から出た。大人が花に話しかけたら、ちょっと変な人だと思われるかもしれない。でも、子どもにとっては普通のことだ。


 ちょっと視点が変わるだけで、世界が全く違って見える。これが、子どもの世界だ。


 いろいろなものが大きく見える。ワクワクするが、恐ろしくもある。

 大人が目に留めないものが目に入る。汚いゴミもあるが、宝物もある。


 そして、世界が活き活きとしている。いや、実際に、花も、車も、子どもにとっては、命をもった生き物だ。人間と同じだ。


 児島監督は、子どものころの記憶を持っていると聞く。その素晴らしい世界を、皆が忘れてしまった世界を、世界中の人に見せたいのだ。


 ミカに、ひとつの考えが閃いた。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「どこに行ってたんだ!」

 流博士が、顔を真赤にして怒った。


「すみません、役作りのために、街を歩いていました」

「美登利に何かあったら、どうするつもりだ」

 流博士の怒りは、収まらない。


「もう、君に美登利は任せられない。この仕事は断る」

「そ、そんな。そもそも、美登利は、この作品の撮影のために造ったんですから。断ったら製作費も支払われませんし」

「ダメなものはダメだー!」

 完全に小さな子を持つ父親モードになっている。


「美登利は、もう、この部屋から一歩も出させない」

 こうなると手がつけられない。どうしたものか、と美登利ミカが思案していると、紗弥愛子の声がかかった。


「あなた、いい加減にして下さい」

 紗弥の美しい顔が、流博士を睨む。美人が怒ると、迫力がある。


「子どもを、そんな過保護にして、どうするんですか! 美登利は、あなたの所有物じゃありません!」


 ―― ん? 特許権、意匠権を含め、博士の所有物のような気がするが……。

 ミカの頭に疑問が浮かんだが、二人のやりとりを見守ることにした。


「美登利が心配なのはわかります。でも、子どもが成長するのを見守るのも親の役目です。親という字が、どういう字を書くか、あなた知ってますか?」

 流博士も、紗弥愛子の勢いに押される。


「親という字は、『木の上に立って見る』と書くんです。子どもが多少危ないことをしても、黙って耐えるのが父親の役目です」

「そ、そんなこと言われても、心の準備が……」

「準備が整ってる親なんていません。親も、子どもといっしょに成長するんです」


 ―― やるな、愛子。なかなか、いいことを言う。


「いや、でも」

「あなたは、自分の子が信じられないんですか! 美登利は、あなたと私の愛の結晶じゃないですか!」


 ―― これは、突っ込むところか? それとも、感動するところか?


「美登利、パパが悪かった」

 ―― キモーッ

 流博士が殊勝に謝っているところ悪いが、ミカの背筋が凍る。しかし、ここは女優魂の見せ所だ。


「パパ、本当に悪かったと思ってる?」

「本当に悪かったと思ってる」

「反省してる?」

「反省してる」

 よし、ここがチャンスだ。美登利ミカが舌なめずりをした。


「じゃあ、一つお願いがあるんだけど」


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 ”全米が泣いた。日本人も泣いた” -ザ・シネマティック-

 ”児島勲、最高傑作” -ワールドエンタ-

 ”古い児島勲は死んだ。そして、新しい児島勲が生まれた” -映画評論-

 ”児島勲が最低な人物であることに疑いの余地はない。しかし、この作品が最高であることは認めざるを得ない” -全日本アニメーション連合事務局-


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


『監督ライナーノート』


 僕は、子どもの頃の記憶を持っている。


 このことに気づいたのは、僕が大人になってからだ。自分では当たり前だと思っていたことが、他の人にとっては当たり前ではなかった。この事実は、一時いっとき、僕を深く傷つけた。しかし、僕が映像作家となってからは、このことが大きな武器となった。特に何の才能もない僕のような凡人が、なんとか今までやってこれたのは、この幼い頃の記憶のおかげだ。


 子どもが見る風景を、大人になって皆が忘れてしまった世界を、皆に見せたい。そんな気持ちでやってきた。だが、僕の作品を見るのは、僕の意図とは逆に、子どもの心を失った大人たちだった。やれ、リアリティがないだの、科学の基礎を無視しているだの、どうでもいいことにケチばかり付ける。頭でばかり理解しようとし、心を空にして楽しもうとしない。


 そんなやからに、はたはた愛想がつき、僕は筆を折ることにした。


 しかし、偶然見た公演でアクトノイドの存在を知り、ムクムクと創作意欲が湧いてきた。子役では限界がある、3歳以下の幼児を主人公とした実写作品を撮る。徹底したリアリズムとファンタジーを合成させ、観客たちに子どもの世界を体験させる。それが僕の狙いだ。


 だが、撮影を進めていた僕に、驚くべき提案がなされた。主人公の子どもを、僕自身で演じてみないかという! よわい70を超えた爺さんが3歳の子どもになるだと!? とても、正気の沙汰ではない。だが、面白い!


 アクトノイドのパフォーマースーツを身にまとい、子どもになった僕が見たのは、かつての僕が見た景色だった。昔あった草原はすでにない。友と駆けた山々も切り崩され、見上げる景色は高層ビルに遮られている。しかし、そこに広がる景色は、間違いなく子どものものだ。


 すべてが大きく、恐ろしく、しかし、広い。身を屈めなければ見えない景色が、逆に見上げなければ見えない。世界は神秘に満ち、生命で溢れている。


 僕はやっとわかった。子どもの世界を他人に見せたかったのではない。誰よりも僕自身が、子どもの世界を見たかったのだ。


 こんなド素人に演技などできるはずもなく、だから、この作品では、子どもとなった僕のありのままの姿を写している。それが、試写会では思いのほか、好評だったようだ。


 今、この国では少子化が進んでいる。こんな世界で生まれるなんて、今の子は、かわいそうだと皆が言う。冗談ではない! 子どもにとっては、いつだって世界は輝いている。この世界は、今までも、そして、これからも、子どもたちのものだ。


 劇場に足を運ぶ大人たちよ。

 このくだらない作品を見に来る大人たちよ。


 そんな暇があったら、子どもを作れ! 子どもを産め!

 君らに未来なんか作れない。君らに作れるのは、子どもだけだ。


 ~~~ 齡70を過ぎて未だ大人になれない爺より ~~~



―― 子どもの世界 了 ――

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