第4話 ワインの味なんてわからない
「いったい、これはどういうことですか!」
「すまない」
ミカの怒り声が大部屋に響く。
―― 脇役でもいいから、出ないか
以前、ミカをボディ・ダブルで使ったことのあるプロデューサーからかかった一声。
その一縷のチャンスに賭けた。たいして重要な役じゃない、それでも、台本を何度も何度も読み、台本に書かれていない背景を想像し、必死に役作りをした。リハーサルでも、演出担当の現場監督から称賛された。それなのに。
「スポンサーからの意向だ」
「そんなの納得いきません!」
「君が怒るのは、わかる。だが、スポンサーの意向には逆らえない」
「私、何かしましたか!? 降ろされる原因はなんですか?」
ミカの剣幕に、決して理由を言うまいと口をつぐんでいたプロデューサーの鈴木だったが、とうとう折れた。
「スポンサーから、CMに使ってる新人の女優をつかうようにと話が来た」
「今更そんな話がありますか。だいたい、あの子に演技なんかできるんですか」
「……」
「実力なら私のほうが上です。試してみて下さい。リハーサルが必要なら何度でもやります」
「君の実力はわかってる。だから、声をかけた」
「だったら」
「申し訳ないと思っている」
鈴木が頭を下げた。
「わかりました。今回は諦めます。でも、この埋め合わせは必ずして下さい」
「……」
「どうなんですか! 次はつかってくれますか」
ミカの真剣な口調に、鈴木は覚悟を決めた。
「次もない」
「そんな、……」
ミカが絶句する。
「はっきり言おう。顔立ちが整っていて台詞がちゃんと言えれば、あとはどうでもいい。スポンサーも視聴者も、演技力のあるなしなんかわからん」
「な、なんなんですか、それは! それが、プロデューサーのセリフですか!」
「一般人が1000円のワインと10万円のワインの違いがわかるか。飲めればそれでいい。素人がフィギュアのジャンプの違いがわかるか、飛んでこけなきゃそれでいい。違いなんてものがわかるのは、その筋の一握りの人間だけだ」
「だからって、うまいにこしたことはないでしょう!」
「だったら、君はワインに10万払うか?」
「それと、これとは、」
鈴木がミカの言葉を遮った。
「今どき、誰も役者の演技なんか、真剣に見ちゃいない。スマホ片手に、暇つぶししているだけだ。だったら誰でもいい」
「……」
「ついでに言えば、君はうますぎる」
「それはどういう意味ですか。皮肉ですか」
「そうじゃない。一人だけ、うまいやつがいると、他の奴の下手さが目立つ。全員、下手なら、それがわからない」
「そんな、バカな話がありますか!」
「そんな、バカな話があるんだよ!」
鈴木がミカに負けない声を張り上げた。
「少しうまいぐらいなら、それでもいい。だが、浮いてるんだ、君は。現実問題として、作品全体のバランスを考えた時、君をつかうよりも、新人をつかう方が落ち着く。だから、今回のスポンサーの話を受けることにした。君には、本当に申し訳ないと思っている」
頭を下げた鈴木に、
「ふ、ふざけるなー!」
ミカが泣き叫びながら、出ていった。
ミカが叩きつけた扉の音の残音が消えるのを、頭を下げたまま、鈴木が聞いていた。やがて、再び、部屋に喧騒が戻る。
「なんなんですかねー、あれ」
一人の若いADが、誰にともなく言った。
「たいして可愛くもないのに、粋がっちゃって、みっともねぇなぁ」
「みっともねぇのは、あいつをつかえない俺達だろーが!」
鈴木の怒声が、部屋を轟かせた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
―― くそ、くそ、くそ、くそ、
―― なんなんだ、この腐った世界は
怒りと、絶望と、悔しさと、情けなさが入り混じった、激しい感情がミカの心に渦巻く。
―― 情けない
容姿が劣る自分が悔しい。美人に生まれていたら、よかったのに。
茫然自失としながら、街をさまようミカが飛び込んだのは、古いワインバーだった。
もう女優なんかやめよう。こんなことしてても無駄だ。だったら、最後に浴びるほど酒でも飲むか。だったら、普段飲まないような高い酒を飲んでやる、そう思ったミカの前に、偶然現れた店だ。
古いが小綺麗な店は、カウンター席のみで、マスターが一人で切り盛りしている。切り盛りしているといっても、客はミカ一人だけだ。
「マスター、この店で一番高いワイン、持ってきて」
「一番高いですか」
「そう、一番高いやつ」
「値段の高い安いよりも、お客様のお好みで、選ばれるのがよろしいかと」
「うるさいなぁ。こっちは客なんだから、つべこべ言ってないで一番高いの持ってきてよ。お客様は神様でしょうが」
「神様にも、貧乏神とか疫病神とか、いろいろおりますが」
「うまいこと言ってないで、さっさと持ってこ―い」
飲む前から店に染み込んでいるアルコール臭で、酔っ払ったようなミカが管を巻く。
「そこまでおっしゃるのでしたら、こちらが当店で一番高いワインとなります」
マスターが古びた一本のワインを持ってきた。
「フランスのボルドー『アム・アクトリス』1978年ものでございます。こちらのワインは、138年前に元舞台女優の……」
「そういうウンチクいいから、さっさと開けてよ」
「本当によろしいのですか?」
「だから、いいって言ってんじゃん」
「念の為、ご確認しますが、こちらは一本40万円となりますが、お支払いは大丈夫でしょうか?」
「よ、40万円!」
ぼーっとしていたミカの頭が一気にクリアーになる。
「で、お支払い出来ますでしょうか?」
マスターの顔が怖い。
「お、お支払い、できません……」
ミカの声が小さくなる。しかし、今日は一番高いワインを飲むと決めている。
「仕方がない、わかったわ。私の体で払います」
「そんなわけには……」
「何よ、私は魅力的でないって言いたいわけ?」
「滅相もございません。お客様は、とても魅力的でいらっしゃいますよ」
「だったら、いいじゃない。なんか、文句ある?」
すると、マスターは小ズルそうな笑いを浮かべ、
「お客様でしたら、実際にことに及ぼうとした時、『体で払うとは言ったが、服を脱がせていいとは言ってない』と仰っしゃりそうですので」
と言った。
「ふん、うまいこと言うわね。私はポーシャじゃないっての」
「私も、シャイロックではございません」
ミカの洒落に、マスターも洒落で返す。ポーシャも、シャイロックも、シェークスピアの『ヴェニスの商人』の登場人物だ。『ヴェニスの商人』では、借金のカタに肉を要求したシャイロックに、ポーシャが『肉を切り取ってもいいが、血を一滴でもこぼしたら契約違反だ』と切り返す。
「マスター、演劇詳しいの?」
「いえ、特には。商売柄、いろいろなお客様が来られますので。お客様のような、女優の方は久しぶりですが」
「女優か」
「ひと目でわかりますよ。立ち居振る舞い、声の出し方、顔の表情。普通の人とは違います。特にお客様のような才能のある方は」
「はぁっ? 才能がある? からかってるの? それとも、喧嘩売ってる? こっちは、今日、降板したばっかなんだけど」
「それは、また、見る目がない人がいるものですね。金の卵を逃すとは、もったいない」
そう言うと、マスターが一杯の赤ワインをミカにサーブした。
「まだ、注文してないけど」
「こちらは、サービスです。安物のワインですが、お口に合いますでしょうか」
「安物か。だったら、私にぴったりだ」
ミカがワインを一口飲むと、芳醇な香りが口に広がった。
「おいしい」
「最近はワインの質がよくなりましたから、低価格のものでも、十分美味しく頂けます」
「そっか。ワインも安物でも十分なのか。女優とおんなじだ」
ミカが二口目を飲むと、涙がこぼれた。
「安いワインと高いワインで、味に違いなんかあるの?」
「飲み慣れていない方には、違いを感じるのは難しいかもしれませんね」
そりゃそうだ。素人になんか、わかるわけない。
「その、一本40万円のワインは、どんな人が頼むんですか?」
そう、ミカが尋ねると、
「一度も売れたことが、ございません」
とマスターが応えた。
「そりゃ、そうか。だいたい、いくらなんでも高すぎでしょ。おいしいとしても、コスパ悪すぎ」
「仰るとおりです。私にも、このワインにそれだけの価値がるのか、わかりません。ただし、手間がかかっているのは確かです。採れた葡萄の実を、一粒一粒、手作業で仕分けて作ってますから」
「まじ!? なんで、そんなことすんの?」
「少しでも、良いものを作るためでしょう」
「そんな、もの好きな」
「もの好きなのではなくて、ワイン好きなのです」
また、うまいことを言う
「どうして、安いワインが美味しくなったのか、わかりますか?」
「品種改良とか、道具が良くなったとか?」
「そもそも、なぜ美味しくしようと思うのでしょうか。どうして、今より美味しいものを作れると思うのでしょう」
「それは、もっと美味しいものがあるからじゃないの」
「そうです。素晴らしいワインがあるから、安いワインも、もっと美味しくしよう、美味しくできると思うのです」
「たしかに、そうかも」
なかなか、話のうまいマスターだ。
「この『アム・アクトリス』一本に40万円の価値があるかと言えば、そうではないかもしれません。でも、このワインがあることで、ワイン全体のレベルを引き上げているとしたら? 一本1000円のワインも、このワインのおかげで美味しくなるのだとしたら、決して高くはないのでは、ないでしょうか」
高級ワインは、ワイン全体のレベルを引き上げるか。確かに、それならば、一本40万円の価値があるかもしれない。
「私、保育園で、初めてお芝居を観たんです。演じたのは近所の名もない劇団で、どんな劇だったかも覚えていませんが、その時の感情だけは、未だに心の底に残ってます。普段とは違う世界が広がって、子ども心にも、すっごく感動しました。その後も、ずっとお芝居が好きで、中学でも、高校でも、毎日、お芝居の稽古してました。ダンスも、格闘技も、歌も、演じるのに必要なことは全部やった。自分でも、絶対、女優になるって決めてました。でも、今日、私がいると、全体のバランスが崩れるって言われました。一人だけ浮いて、他の人と合わないって。私の出番は、もうないって言われたんです」
「それは、すごい。あなたは、まさに『アム・アクトリス』だ。あなたが舞台に立てば、他の人も刺激をうけるでしょう」
「でも、立てる舞台がないんです。マスターは、私のことを金の卵って言いましたけど、いつまでも
ミカの涙が、ワイングラスの中に落ちた。
「おやおや、グラスを取り替えましょう」
マスターが手早く、グラスを下げる。
「ワインも、新しいものを開けましょう」
そう言って、『アム・アクトリス』のコルクを抜き始めた。
「ちょっと、マスター。私、お金ないです!」
「ワインも、いつまでも飲まなければ腐ってしまいます。もしかすると、もう腐っているかもしれません。これも何かの縁です。開けてみましょう」
手際よくコルクを抜くと、シュッとした音がした。
「私、ワインの味なんかわからない」
「まぁ、そう言わずに、飲んでみて下さい」
マスターが、ワインを注いだグラスをミカにサーブした。
ミカが、グラスを手に取って、ルビー色に輝く液体を目の前にかざす。
「きれい」
どんな味がするのか期待に胸を膨らませ、きらめく液体に口をつけた。
しかし、
「ごめんなさい、やっぱり私にはワインの味がわかりません。せっかくの高いワインが無駄になってしまいました」
と、ミカが申し訳なさそうに言った。
「まだ、このワインは真価を発揮していません。見ていて下さい」
マスターが『アム・アクトリス』をデキャンターに注ぐ。デキャンターに注がれたワインは、まるで生き返ったかのように輝いた。マスターが、新しいワイングラスに、デキャンターから『アム・アクトリス』を注ぐ。
「どうぞ、『
ミカがワイングラスを手にとった。離れていても、濃厚なバラのような香りが鼻腔をくすぐる。
「さっきと、ぜんぜん違う!」
ミカが恐る恐る、ワイングラスに口をつけ、濃厚な液体を口に含んだ。その瞬間、口の中に、今までに味わったことのない強烈でいて、しかし、草原を渡る夜風のような、甘く、そして、美しい、匂いとも味ともつかない感覚が広がった。
「お、おいしい!」
ミカの目に涙が溜まる。しかし、この涙は、さっきまでの悲しみの涙、悔しさの涙ではない。感動の涙だ。初めて、お芝居を見たときに流したものと同じ涙だ。
「いいワインは、眠っていた香りを引き出すのに助けがいるんです。才能のある女優さんを舞台に立たせるのに、助けがいるのと同じです」
私を舞台に立たせようとしてくれた人がいた。私の力を必要だと言ってくれた人がいた。でも、私は、その人たちに背を向けてしまった。
「私も、一杯頂きます。未来の大女優と、ごいっしょできて光栄です」
マスターが、ミカにグラスを捧げた。
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