一.お山の泉(五)
僕が口を閉じても風は容赦なく吹き付け、雨粒がぽつぽつと頬を打ち始めた。
「山小屋に戻って、山を下りる準備をしましょうか」
「キャッ!」
泉の水を入れた容器が宮司さんの手から零れ、ころころ地面を転がった。
「あっ」
二人同時に声を上げたものの、僕たちが動くのを妨げるように風が渦を巻き始める。
「宮司さんは山小屋へ。僕が取ってくる」
コロコロ転がった入れ物は、泉の
(あまり遠くに行かなくて良かった)
泉まで戻ろうとしたところで、「大丈夫か!?」と言う声とともに、誰かが斜面を駆け下りて来た。
その声には聞き覚えがあった。
「ゴローさん?」
(どうしてここにゴローが)と思いつつも、知った声にホッとしながら彼を呼ぼうとした時、僕はひときわ強い風に吹き飛ばされた。すぐ側の岩にしたたかに体をぶつける。
息ができずに呻いていると、ゴローが駆け寄って来た。
「無事か。さくらさんはどこだ」
「さ、さくらさん……?」
そうか。ゴローは宮司さんのことを、『さくら』って名前で呼ぶんだ。
痛みに息を詰まらせながらも、そんなことを思ってしまう。
「山小屋、戻っていると思う」
「なら、彼女は大丈夫か。立て。逃げるぞ」
逃げるって、どういうことだ。
そう問い返そうとした僕を、また強い風が襲う。
すぐ目の前にいたゴローは何ともないのに、僕だけが吹き飛んで笹の中に倒れこんだ。
今ははっきり見えた。
僕を吹き飛ばしたのは風なんかじゃない。
あの、白い塊だ。
「壱様、おやめなさい」
ゴローがそれまで聞いたことのないような低い声で言った。
「いちさま?」
僕は笹の中に起き上がりながら宙を見上げた。
風の中に紛れるように、白い物が右往左往している。
と思う間もなく、白い塊は恐怖に竦んで立ち上がれないままの僕の上に飛び乗ってきた。
倒れた笹に押し付けられて、乗られた胸だけでなく、背中も痛い。
そこでようやく、僕は白い塊の正体をはっきり見た。
白い大きな狐だ。お宮で見た、あの狐だ。
相変わらず敵意剥き出しなのか、鋭い牙が僕の目の前にあった。
ゴローが何か言っている。けど、恐怖のあまり上手く聞き取れなかった。
その時の僕には、ゴローにも狐が見えていることの不思議なんて頭の中から吹き飛んで、ただ狐への恐怖しかなかったんだ。
僕を睨む狐の鋭い目が、ちらりと横に流された。
僕の顔のすぐ横に、じっと視線が注がれる。
「お前にも、これ、見えているの?」
三毛猫が、ちょいちょいと手を伸ばして遊んだように。
この白い狐にも、僕の耳に突き刺さっている銀色の輪っかが見えている。他の誰にも見えない、小さなピアスが――。
狐が大きな口をくわっと開けた。その口から零れた涎が僕の顔に滴り落ちる。思わず顔を背けようとしたけれど、狐はそれを許してはくれなかった。
ふさふさの毛の生えた太い前足で僕の頭を抑えると、いっそう低く唸って、僕の顔の横に食らいついてきた。
「うわあっ!」
「壱様!」
ゴローの制止に、ふっと狐が僕を押さえつける力が緩んだのを感じて、僕は白い体を押しのけた。けれど簡単には動かない。
それどころか、狐はさらに強い力で僕を地面に押し付けてきた。
再び鋭い牙が、僕の耳をかすめる。
「ピアス、取ろうとしているのか?」
こんな牙で耳を食い千切られたらたまったもんじゃない。
何度も襲ってくる牙。その度に、顔を背けて避ける。
どうしてこの狐は、僕をこんなに目の敵にしているんだ?
「壱様。おやめなさい!」
ゴローが声をかけるたびに、『いちさま』と呼ばれる狐の力は少し弱まりはするけれど。
僕は今にも耳を食い千切られそうになりながら、必死に狐の下から逃れようとしていた。
僕ともふもふの古民家宿 藤原ゆう @mokonanyan
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。僕ともふもふの古民家宿の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます