一.お山の泉(四)
まだ秋の色がそう濃くない山の中を、僕と宮司さんは頂上を目指して登っていた。
「泉の近くに山小屋がありますから」
その神事に必要なものを詰めているからか、宮司さんのリュックはパンパンだった。
登山を始める前に、重そうなリュックを僕が持とうと提案したけれど、
「私の役目なのでお気になさらないでください」
そう言って、宮司さんはやんわり僕の申し出を断った。その微笑みから、彼女の仕事に対する誇りや責任と言ったものが滲み出て、僕は思わず目を伏せてしまう。何もない自分は彼女の足元にも及ばないのだと。そんな事実をまざまざと突き付けられたような気がしたからだ。きっと彼女にとってはそれが普通のことなのだろうけど、僕にはそんな普通のことすら難しかった。僕はそこから逃げ出して、今の状態に至っているのだから。
途中までは車が一台通れるくらいの幅だった登山道も、今では人ひとりがやっと通れるくらい。下山してくる人がいれば、脇の斜面に避けなくてはならないくらいだ。
ヒノキの林には下草が少ない。緑の少ない景色がしばらく続いた。
「あ、
自分の思いの中に沈み込んでいた僕は、宮司さんの声に顔を上げた。
数歩前を登っていた宮司さんが足を止め、近くのドングリを付けた木を見上げている。木の実のなった木や、この時期の山野草にも目が行くけれど、宮司さんが気に留めたのは梟の声だった。
「どこにいるのかしら」
僕は先日家の庭に来た梟のことを思い出した。あの時の梟も、しきりに鳴いていたっけ。
「見えないですね」
諦めたように呟いて、宮司さんは木立を見上げていた視線を、彼女よりは少し低い位置にいる僕へと移した。そこはなだらかな山道から、そろそろ急坂に差しかかろうかという所。いつもは見下ろしている宮司さんに、坂道の上から見下ろされる形になって、僕は少し狼狽えた。
「梟って、意外に昼にも活動するのかな」
そんなどぎまぎしている自分を隠すために早口で言うと、宮司さんは再び歩き始めながら。
「森の主のような梟なら、そんなこともあるのかもしれませんね」
普段なら笑って聞き流すようなことでも、宮司さんが言うとなんだか神秘的だった。
『森の主』。そんな存在が本当にいるような気さえしてくる。
またしばらく歩くと水場を見付けた。そこで休憩を取ることにして、僕は背負っていたリュックサックからペットボトルの水を取り出した。
宮司さんは水場のちょろちょろと落ちてくる水を触って、「冷たい」とはしゃいだ声を上げている。その様子が年相応に見えて微笑ましい。
梟はまだ鳴いていた。ホウホウと悲しげに。まるで僕たちの登山を心配して鳴いているようにも聞こえる。
その声に追われるように、リュックを背負いなおして、再び山道を登り始めた。冷たい水を触ったせいか、宮司さんの足取りが元気を取り戻したように思える。
大きな岩のそばを通り過ぎてしばらく歩くと、登山道の両脇の景色が雑木林から背の低い笹野原へと変わった。
ここからは稜線を行くことになる。
稜線を縦走していると、小さな広場に辿り着いた。ここはまだ山頂ではなかった。その手前にある、山頂より少し標高の低いピークだ。ここからさらに稜線を行けば山頂に到達するのだが、今回は道を外れ、少し下った所にある山小屋を目指した。
山小屋までの下り道は笹をかき分けて進まなくてはならなかった。
登山も思った以上にハードなものだったし、これは確かに、もうすぐ米寿を迎える分家のおじさんには厳しい道のりだったろう。
宮司さんとの登山は最近ではなかったくらい楽しいものだったから、最初はかなりしぶしぶだった名代の役目も、今では機会をくれたおじさんに感謝したいくらいだ。
「宮司さん、大丈夫ですか?」
後ろを振り返ると、同じくらいの背丈の笹と格闘する宮司さんがいた。
背の高い僕が笹をかき分ける役を買って出てはいたが、よくしなる笹の茎が反動で戻ってきては、ちょうど宮司さんの顔を直撃してしまうようだ。
「だ、大丈夫です! きゃっ」
小さな悲鳴とともに、笹の中に埋もれる宮司さんの手首を咄嗟につかんで引き寄せた。
「僕から離れないで」
「は、はい」
ぐったりしている様子の彼女を山小屋まで連れて行き、神事の前に昼食を取ることにした。
泉の近くの山小屋は、建てられてからの年数は経ているようだったけれど、中は綺麗に掃除されて居心地の良い空間だった。平日のせいもあってか、他に登山客の姿は見当たらず、小さな山小屋は僕たちの貸し切りだった。
「少し風が出てきましたね」
僕が塩おむすびを詰めただけの簡単な弁当を開いたあたりで、宮司さんが耳を澄ませながら言った。
外の笹野原が、ざわざわとざわめいている。
「天候がひどく変わらないうちに、神事を済ませたほうがいいですね」
そう言って、僕は急いでおむすびにかぶりついた。
宮司さんは手作り弁当だろうか。美味しそうな卵焼きを頬張っている。
弁当を食べている間に、風はいよいよ強くなってきた。
弁当箱をしまった宮司さんが、白い着物と袴を登山服の上から羽織って、泉の水を入れるための容器を手にした。
「山を下りられなくなったら大変です。始めますね」
山小屋の近くにある泉は、古い時代から守られてきた大切な信仰の場だ。
風に煽られながら神事を執り行う宮司さんの後ろで、僕も神妙な顔をして控えていた。
蓋つきの小さな筒形の容器に泉の水をすくうと、宮司さんは小さく息をついた。
「これで終わりです」
ホッとした表情の宮司さんの向こうに見える空は、さっきまであんなによく晴れていたというのに、今やすっかり黒い雲に覆われていた。吹き荒ぶ風に、まっすぐ立っていた笹は横倒しになって、もうどこに道があったのかもわからない。
「少し待てば、きっと低気圧通り過ぎますよ」
そうだ、とスマホを取り出してみる。
「だめだ。圏外だ」
天気アプリを見れば、この嵐がいつ過ぎるかわかると思ったのだが。
「いつもなら、電波は届いていたと思うんですけど……」
そう言って、宮司さんは口をつぐんでしまった。
「大丈夫。まだ日没までは時間あるから」
ことさらに明るい声を出して宮司さんを励まそうとしてみるけれど、かえって彼女の不安を煽ってしまっているようで、僕は口を閉じることにした。
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