一.お山の泉(三)

 白糸よりは少し太い、透明なビニール紐くらいの太さの落水。それが何本も寄り集まって落ちてくる滝の下に再び立った僕は、滝の裏側から、あの白い塊がまた飛び出して来ないことを祈った。

 みそぎの最中に、そんなことを祈るのはどうかと思わないこともないけれど、もう、あんな思いをするのは嫌だった。

 水の中にいた間は感じなかった恐怖が、今はひしひし、足元から這い上がるように迫ってくる。両足の膝から下が、がくがく小刻みに震えているのは、水の冷たさのせいだけではないと思う。

 冷静になって考えれば、三メートル近くあるオオサンショウウオというのも眉唾ものだ。

(仔狐がいきなり、大人の狐になるくらいだからな)

 静かな祈りの時だというのに、頭の中は雑念だらけだった。

「和希さん!」

 宮司さんに呼ばれ目を開けると、滝壺の側の河原に立ち、心配そうに僕を見ている彼女と目が合った。

「そろそろ終わってください!」

 彼女の手の中には大きなバスタオル。

 秋の、それほど強くない日差しの下で、僕を見守ってくれていた彼女の姿がとても眩しく見える。と思った途端、僕は急に 眩暈めまいを覚えて、それまで立っていた岩の上に片膝をついた。

「和希さん、大丈夫ですか!? 今そちらに行きますね!」

「大丈夫です。そっちに戻るんで、宮司さんはそこにいてください」

 その声は、どうやら無事彼女に届いたみたいだ。こちらに向かってくる彼女の足音が止まったから。

 僕は冷え切った体に、これでもかと力を込めて立ち上がった。  

 彼女が心配するくらいだ。予定していた時間よりもずっと長い時間、僕は滝に打たれていたのかもしれない。

 ふらふらする体を叱咤して宮司さんの元まで戻ると、頭の上からバスタオルがかけられた。

 ちょっと無造作にも感じられる掛け方が彼女らしくない。そう思ってしまった僕は、恐る恐る彼女に尋ねた。

「宮司さん、怒ってますか?」

 すると彼女はキョトンとして首を横に振った。

「怒ってなんかいません。ご尽力いただいている和希さんには感謝しかありませんのに」

「いやあ。僕、なんか失敗ばかりしているから……」

 恐縮する僕に、彼女はふっと笑みを零した。

「いいえ。こちらの無理をたくさん聞いてくださって、本当にありがとうございます。お体、冷えましたよね? 帰りに温泉ありますから、寄って帰りましょう?」

 かつては、日本を代表する版画家も、好んで湯治に訪れたという温泉だった。

 でもいくら有名な温泉地だとしても、未婚の男女が一緒になんて――。宮司さんが温泉に入るとは限らないのに、そんな前時代的なことを考えてしまうのは、僕が少なからず彼女のことを異性として意識してしまっているからだ。秋祭りに伴う一連の行事が終われば、こうして話すことも、ままならなくなる人だというのに。

「いや、温泉は、また別の機会に。今日は家の風呂にゆっくり浸かりますよ」

「そうですか? 和希さんがそうなさりたいなら、それでいいです。では、そろそろ帰りましょうか」

 宮司さんが滝に向かってもう一度祈りを捧げる後ろ姿を、僕は少し後ろに立って見つめていた。

 僕よりも頭ひとつ分低い背丈。小さいけれど、凛とした背中。躊躇いのない所作を生み出す細い手。その姿は自然と僕の目に焼き付いて、とうとうそこから離れなくなってしまった。

「これで禊は終了です。明後日の登山もよろしくお願いしますね」

 振り返り、笑う彼女の姿はやっぱり眩しくて。

 僕はそんな彼女から目を逸らし、頷くことしかできなかった。

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