一.お山の泉(二)
翌日は雨が上がり、からりと晴れたけど、滝の水はやはり多いだろうということで、その後三日ほどは自宅待機。また掃除の日々を送ることになった。
拭き掃除の合間に、また祖母のお品書きを出して眺めたり、茶トラのロクが来ないものかと、買い出しに行った時に買って来たキャットフードを皿に出して置いてみたり、この古民家生活を何となく楽しみ始めている自分を感じていた。
滝の水量が落ち着いたと連絡が来たのは、登山を二日後に控えた日のことだった。
布団に入る前に、宮司さんに言われた荷物をスポーツバッグに詰めていると、土間に気配を感じて、居間から覗いて見た。
またあの三毛猫かと身構えたら、薄暗い土間に見えたのは茶トラの模様。
「ロク。来たのか」
嬉しくなって声をかけると、ロクはブニャと小さく鳴いて、まっすぐ冷蔵庫の陰へ歩いて来た。昔から猫の餌はここに置いてあったから、僕も何の気なしにここに餌皿を置いたけど、それが良かったようだ。ロクはちゃんと餌の在り処を覚えていたんだ。
ロクは餌を食べ終わると、僕に一瞥もくれず出て行ってしまった。
(一歩前進かな)
藁部屋に籠っていたロクが姿を見せてくれただけで嬉しかった。
***
翌日。
整備された遊歩道を歩き見えてきたのは、白糸のような落水が見られる滝だった。
この滝は、落差はそれ程ないものの、裏側からも滝を見られる『裏見の滝』としても知られていた。休日やシーズンには観光客が訪れる場所だったけれど、この日は平日な上に、まだ紅葉にも早いためか、僕たち意外に観光客はいなかった。
僕も子どもの頃訪れたことがあったけれど、滝の裏の岩場にある祠を、なんとなく怖く感じたことを覚えている。
「大丈夫のようですね」
宮司さんは、白い着物に羽織を羽織り、下は浅葱色の袴という神職姿だった。僕も事前に渡されていた白い袴を着ていたけれど、着慣れないせいか自分ではすごく違和感があった。
(僕が名代とか、禊とか、大丈夫なの?)
ここにきてまで、そんなことを考えてしまう。考えても仕方ないことを、うろうろ行ったり来たり悩んでしまうのは、僕の悪い癖だった。
「では、和希さん。さっそくお願いできますか?」
祝詞を読み終えた宮司さんに言われ、僕は気持ちを引き締め直した。
滝の下までは岩伝いに行ける。僕はピョンピョンと飛んで、水が落ちる岩場に立った。
滝壺の岩は半分くらいまでが水の中だ。僕の腰くらいまでの深さだろうか。
宮司さんを見ると、静かに僕を見守ってくれている。
僕は大きく息を吸い込んで、落ちてくる水の下に入った。
途端に頭に重たい刺激。
「つめた……っ!」
思わず声に出してしまうくらい、山の水は冷たかった。
心を落ち着けて、宮司さんに習った祝詞を口にしようと、胸の前で合掌した。
その時だった。低い唸り声が聞こえて目を開いた僕の視界に、大きな白い塊が飛び込んで来たのは。
「わっ」
その白い塊は岩の上の僕に体当たりすると、またすぐにどこかに飛んで行ってしまった。
僕は岩の上から落ちながら、それを目の端で捉えていた。けれどどうすることもできないまま、水の中にお尻から落ちてしまった。
宮司さんの慌てた声が聞こえたけど、腰までの深さの滝壺だ。すぐに足がつくから問題ない。僕は変に落ち着いた気持ちで水の中に沈んでいった。
でも――。浅い所は足が着くくらいの滝壺なのに、なかなか底に着かなかった。僕の体は抗う間もなく、どんどん沈んでいく。
僕の周りにあるのは、澱みのない綺麗な水。水の中に入り込んで揺らぐ日の光。僕とは逆に水面へと上がって行く、細かい気泡。一切の音が廃されたのかと思うくらいの静けさ。そこは異空間に入り込んでしまったのかと思うほど神秘的な場所だった。
(どこまで沈んでいくんだろう)
もうとっくに底に着いていてもいいのに、僕は沈み続けている。不思議なことに怖くはなかった。この水の中は、とても優しい気配で満ちていたから。
あの白い塊がぶつけて来た悪意は、一瞬だったけれど僕を戦慄させるには十分だった。
その時感じた恐怖はもうない。
(なんでこんなに穏やかな気持ちでいられるんだろ)
そう思った時、突然息苦しさを感じて僕はもがいた。金魚みたいに泡を吐きながら、掴める物がないか水の中で体を捻じって探した。いきなりのことに慌ててブクッと大きく泡を吐いた僕は、それが水面へと上って行くのを見送りながら意識を手放しそうになっていた。
(うわっ!)
背中に何かがぶつかった。失いかけた意識が急いで戻ってくるくらいの衝撃だった。驚いて手足をばたつかせた僕は、何かヌメヌメとした物を触ってしまった。
水の中でヌメヌメしてるって、何だ!?
そのヌメヌメの
ザバッと全身が水から出て、新鮮な空気を求めて口をあわあわさせていると、ホッとする間もなく地面に投げ出された。
ヌメヌメは、随分大きなヌメヌメだった。生き物であるのは間違いなさそうだったけれど、僕は恐る恐るその体に触れてみた。三メートルほどの濃い茶色の体はヌメヌメな上に、デコボコしている。さらにブヨブヨともしていて、なんとも不思議な感触だった。
「オオサンショウウオ?」
何かの映像で見た覚えがある。生き物の生態を紹介するテレビ番組だったかもしれない。
のっぺりした顔には、豆粒みたいなつぶらな瞳がくっ付いていた。その瞳を覗き込むと、パカッと大きな口が開いて、僕は反射的に飛びのいた。まさか食べられるわけでもないだろうけど、大きな口はなかなかの迫力。その口の下に覗いている筋肉質な手の先には、まん丸な指がくっ付いていた。
オオサンショウウオは僕のことなんて最初から関心がなかったように、ずるずると体を這わせて沢の方に帰ろうとしている。
「あ、ありがとう!」
助けてもらったお礼を言わなくてはと焦って声をかけても、オオサンショウオはそのまま、するりと水の中に潜ってしまった。
「和希さん!」
オオサンショウウオが沢の中に姿を消したのと同時に、滝壺の縁に転がる僕の所に、宮司さんが駆け寄って来た。
「良かった!和希さんにもしものことがあったらと思ったら、私……」
いつもは物静かな宮司さんも、この時ばかりは焦りを顕わにしている。
宮司さんは僕の頭にバサッとタオルをかけて、僕の頭をわしゃわしゃ拭き始めた。
「和希さんが水から上がって来ないから、本当にどうしようかと思いましたよ」
「ぐ、宮司さん。自分で拭けるので」
思わず身を退いた僕を心配そうに見上げて、
「本当に? 溺れた時、水飲みませんでした? ごめんなさい。和希さんが泳げないって知らなくて」
「いや泳げるんですけどね」
別に宮司さんの前だからと見栄を張ったわけじゃない。あの時は泳ぐとか考えられなかった。ただ沈む以外、何もできなかっただけだ。
見れば、滝は相変わらず白糸のような水を落としていて、景色は滝の下の岩に立つ前と何も変わりはなかった。
僕を水の中に突き落とした白い塊のことも、助けてくれたオオサンショウウオのことも、今は宮司さんには言えなかった。
「滝行、やり直しましょうか」
僕の体を案じてくれる宮司さんを安心させるために微笑んで、僕はもう一度滝壺に足を向けた。
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