第二章 お山の泉と狐様
一.お山の泉(一)
鳥居の
なぜ二人で登山をすることになったのか。
それは注連縄を作った翌日のことだった。
その日は昨日の秋晴れが嘘のように、朝からひどい雨が降っていた。
そんな雨を縫うようにして、古民家を訪れた客が二人。分家のおじさんと、宮司さんだった。
居間に通して、ペットボトルのお茶をふるまった。
「宿をするなら、お茶の淹れ方くらい覚えないとなあ」
分家のおじさん、また勝手なことを――。
「あら、お宿をされるんですか?」
(宮司さんにまで言われたら、しなくちゃいけない感じになるじゃないか)
とは口に出さず、
「いえ、しないですよ」
と、僕はにこやかに返した。
僕が座布団に座ったのを見計らったように、おじさんが前のめりになって話を始めた。
「ついにお前に、名代を任せた本当の意味を教える時が来た」
いやに芝居がかっている。
そんなおじさんの気合を削ぐように、宮司さんが優しい声音で機先を制した。
「私からお話させていただきますね」
「おお、そうかな」
おじさんはまだ先を話したそうにしていたが、あとは宮司さんに任せるとでも言いたげに湯呑みに手を伸ばした。
(宮司さん、意外にやり手だな)
大人しそうな女性と侮っていたら痛い目を見そうなタイプだと思う。
「お話というのは、和希さんにお願いがありまして」
宮司さんが居ずまいを正したのを見て、僕も背筋を伸ばした。
「お願いですか?」
「はい」
宮司さんが頷くたびに、顔の横の髪がさらさら動く。僕は無意識のうちに、それを目で追ってしまった。彼女が目の前にいると、ほんのちょっだけ、胸が苦しくなる。
「秋の例大祭の準備にご尽力いただいてありがとうございます」
「いえ、とんでもないです」
「鳥居や拝殿のことは氏子さんにお任せしているので安心なのですけど。実はひとつ、宮司が執り行なわなければならない神事があるんです」
「神事ですか」
「はい。こちらのお宮では、お山の
「湧水」
「ええ、そうです。お山の上の、泉のお水」
「総代も一緒に」
「はい。ですが今年は」
「名代の僕が、おじさんの代わりに付き添うと」
「お願いできますか?」
なるほど。
おじさんも事前に話してくれればいいものを。「登山しろ」なんて言ったら、僕が帰ってこないと思ったんだろうか。
(僕もそこまで、どうしようもない人間じゃないと思うんだけどな)
おじさんは何食わぬ顔でお茶を啜っている。長年農作業に従事してきた人の、節くれ立った厚みのある手。稲を刈り、野菜を育て、かつては牛を引いたその手も、今は老いて深い皺が寄っていた。
「そのために僕がいるんですから行きますよ」
おじさんは意外そうに目を見開いて僕を見た。そんなに僕を頼りない奴って思っていたのかと、ちょっと落ち込んでしまう。
「まあ、ありがとうございます!」
「頂上まで行けるようにがんばりますね」
「ふふ。和希さんなら大丈夫ですよ。よろしくお願いします」
宮司さんの髪がまたさらさら頬に落ちるのを、僕は夢見心地に見ていた。
ご神体である霊峰の、頂上に湧き出る泉の水。
それを神職が取りに行くという神事が始まったのは江戸時代のことだと、宮司さんは話した。飢饉の多い時代に、この集落独自に発展した習わしなのだという。その年の豊作を神に感謝するために。そして同時に、次の年の五穀豊穣を神に祈るのだ。
山の頂上付近に泉があるというのは僕も聞いて知っていた。けれど登ったことはない。
昔から修験の山でもあったから、登山道はしっかり整備されてはきたらしい。
両親から登山に誘われたことはあるけれど、僕は一度もその誘いに乗ったことはなかった。
「何か準備しておくことがありますか?」
「一週間ありますから、登山に必要な物を揃えておくくらいでしょうか。あとは、しっかり体調管理をしていただければ」
宮司さんは、
「必要経費はこちらでお出ししますわ。ね、総代さん」
と、念を押すように、隣のおじさんを見た。
それに対し、おじさんはしぶしぶ頷いた。
ここのお宮に来て三年と聞いているけれど、我の強いおじさんたちの中にあって、宮司さんは自分の意見を押し通せるくらいまでしっかり馴染んでいる。その陰には、彼女のとんでもない努力があったに違いない。古くからの氏子と、新参の宮司にしては、彼らは良好な関係を築いているようだ。
「それから、もうひとつ」
「はい」
「和希さんんいは、事前に禊をしていただく必要があります」
「禊ですか?」
なるほど。神事の一環だから、というわけだ。
「でも、この雨ですから……」
宮司さんは心配そうに窓の外を見た。
「滝の水量が増えていたら、ちょっと考えないといけませんね」
「滝――ですか?」
「はい。滝です」
テレビでタレントがしているのをよく見る、白い装束で滝に打たれる。あの滝行をするということだろうか。
僕の名代としての仕事は、思った以上に大変そう?
申し訳なさそうな宮司さんの隣で、分家のおじさんがにやりと笑った。
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