第9話 逆説

家に着いた。母にあまり気にされることはなかった。日頃の行いが良かったことを自分に感謝する。夕飯を食べたあとは自室に行って今日のことに思いをはせた。きっと彼女の言葉に噓偽りはない。寿命の数字は俺以外知りえることのないし、嘘をついてるような雰囲気もなかった。

だが、俺は何をすればいいのか。あの本を何度だって見直した。もう何も間違いは見つからないだろう。

俺は非力だ。もし俺がおとぎ話の主人公なら、彼女を救えたのに。ただ傍観することしかできない。誰も救うことができない。

机の上にある本に目をやった。興ざめな表紙のそれが俺は憎く思えた。掌の数字は「2:21:23」になっている。

無力感、絶望感、脱力感。何の始まりさえ予感させない電灯が見える。暗い絶望に俺は打ちひしがれていた。

そんなとき、ふと俺の頭に今日がフラッシュバックする。彼女のおどけて見せた笑顔、魚を見て輝く目、初めて見せた弱音、そして生きたいという力強さ。

あんなか弱く小さく愛おしい彼女に人生さえも預けられたというのに何もしてやれないのか。いや、違う。

俺はおとぎ話の主人公じゃない、非力な人間だ。ただそれでも確かに守れるものはある。俺は勢いよく自分の頬を叩き、確認する。

「よかった、現実だ」

机に向かいペンを手に取る。ノートと本を開き、一文字一文字に印をつける。語句や文脈上の誤りだけでなく、印刷のミスでさえ気を配る。見つからなければもう一周だ。何回でも何十回でも何百回でも繰り返す。彼女の想いに恥じないように。彼女の積み重ねた年月に打ち勝つほどに。何度でも反復し、何度でも噛み締めて、何度でも反芻して。そうして自分を鼓舞して、誤字訂正をしつづけた。


 ――――――――――――


日・月曜日をまたぎ、火曜日となった。ミスもあれから2個しか見つけられていないし、今朝は2時間しか寝られなかった。おかげで今日の小テストは散々だった。ひょっとすると充分な休息を取ったほうが良いのかもしれないが、今は効率を全て度外視して探すべきだ。

「枝葉末節…これは細かい部分という意味ではなく本質から離れた箇所を指す…雨模様…雨が降り出しそうなときに使う言葉…王道…これは容易な方法を指し正攻法と区別して使う…」

ぶつくさと独り言を言いながら帰りの電車内でノートと本を照らし合わせ確認する。

掌の数字は「1:02:48」を示す。すなわち、残された時間はたったの26時間48分だ。

時間がない。はやる気持ちと裏腹に結果は出ない。脳内には克明に最悪の結果が予想される。だめだ、だめだ。プラスの思考に変えないと。

車内アナウンスは次が降りるべき駅であることを教えてくれる。いつも通りのさびれた駅だ。それをおれは聞き逃さず、電車の完全停止直前まで例の本から目を離すことなく電車を降りた。

ドアが閉まる音を無視し本を片手に歩き始める。ホームから改札口まで動くエスカレーターに足をのせようとした。その瞬間、後ろから甘く聞きなれた声で

「せーんぱい!」

と呼ぶ声が聞こえた。まさか、と思いつつ後ろを振り向くとそこには丸橋さんがいた。

「俺は先輩ではありませんよ」

「肇くんが敬語を使うのをやめるまで私はずっとこう呼ぶよ」

「やめてください」

幾分の沈黙を経る。なんて言えばわからない。ただ今はこの時間さえ惜しい。一刻も早く本のミスを見つけ修正しなければならないのだ。そんなことを考えていると、彼女は俺の顔を覗き込んで不安そうな声で言った。

「怖い顔してるよ、どうしたの?」

「…っ!」

顔には出してないつもりだったが、どうしても見透かされてしまう。死まで27時間を切ったとは思えないのんきさ。そんな姿に俺はやりきれない思いを感じた。

「どうして、どうして丸橋さんは―――」

俺が声を荒げようとしたが、口を人差し指で止められる。

「公共の場、だよ?」

その瞬間、言葉にならない声が口から漏れた。涙があふれて、止まらない。どうしようもないことを丸橋さんにぶつけようとした自分の虚しさが悲しくて。嗚咽が止められない。どうすることもできないまま、にじんだ視界で彼女のほうを見た。

「いいんだよ。肇くん。私のことは気にしないで」

温かく包み込む声で彼女は言う。彼女も苦しいはずなのに。怖いはずなのに。

俺はそのまま涙を止めることができずにいた。



涙が止まるころに彼女はいなくなっていた。掌の数は「1:02:26」に変わっていた。

明日は祝日だ。きっと彼女に会うことはない。最後の別れだ。まださよならさえも言えていないのに。考えろ、俺。今まで本を読んできた時間を、積み重ねてきた知識を今使わずしていつ使えるのだ。考えろ、考えろ、考えろ…。


 ――――――――――――


帰路や夕食中もずっと考え続けた。帰りのコンビニに買ったエナジードリンクを飲み、夜が更けても彼女を救う方法を考えつづけた。本からはもう誤りは見つからない。運命は決まっていないものだ。変えられるはずだと信じて頭を回し続ける。

しかし時は残酷にも針を進める。掌の数字は「0:02:17」を示す。時刻は16時21分。すなわちタイムリミットは18時39分だ。

後悔しない選択のために施行を重ねる。決断は可能性を否定した先のものだと読んだことがある。考えうる可能性を一つ一つ否定し、ほとんどの可能性が消えたのちに最後に残った可能性、正しいかどうかはわからないがそれこそが後悔しない選択であり決断になる、と。つまり可能性がまだ残っている限り決断してはならないのだ。

彼女の顔が脳裏に何度も浮かぶ。本に視線をやった。その瞬間、

「あっ!」

頭に一つの仮説が立つ。この仮説がもし成り立つならば—――

「―――彼女を救える」

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