第8話 譲歩
「ここは…」
たどり着いた場所は小さな公園だった。草木に囲まれて、ベンチやテーブルがある。公園といえるだけの遊具も。彼女はつかんだ手を放し、少しだけ入り口で立ち止まったがすぐに一目散に走り出した。俺はその場に立ち尽くしたまま乱れる呼吸を整える。
「ほら、こっちこっち!」
涙痕を残した笑顔で彼女はブランコに座りながら言う。涙でかすれた空元気な表情だ。俺は彼女の声に従うようにして彼女の横にあるブランコに座った。心の底から出る全ての疑問を押し殺したままに。
「この公園、大好きな場所なんだ」彼女はブランコを漕ぎ始めながら言う。
「子供のころお父さんが水族館に連れてきてくれて。その帰り道にお父さんとここで遊んだんだ」
体を前後ろに揺らしながら彼女は語る。その姿は何か失ったものを取り戻そうとしているようだった。
「それからここは大切な場所になった。誰にも奪わせない、大切な思い出の場所に」
だから、君が初めての人だよ、なんておどけて彼女は言う。夕風に軽い長髪がふわりとたなびく。夕焼けに沈んだこの公園。世界に二人取り残された錯覚さえも引き起こす。
「なぜここに連れてきたのですか」疑問が喉を伝う。
「敬語やめて、下の名前で呼んでよ!同じ委員でしょ?」
彼女は悲しい笑顔で言う。それから、ブランコを止めて立ち上がる。
「覚えてる?小学3年生の時、水族館でのこと」
「いいえ。人違いだと思われます」
「ほら、また敬語!」
ピンとこない。そもそも初めて会ったのは高校生だ。会ったという事実さえないのだから忘れることもできない。彼女は何かを考えるような表情をしたのち、不意に俺の目に視線の照準を合わせる。
「じゃぁ、この数字は見えてる?」
彼女はそう言って頭上を指す。赤白く光るデジタル数字、「3:00:57」。俺は思わずブランコから立ち上がる。
「いつからそれをご存知でしたか」
「なら君の掌の数は?」
質問に答えることなく彼女は次の質問をする。俺が答えに詰まっていると、
「そっか…」
彼女は全てを悟った目でつぶやく。その声で、俺の心からクエスチョンマークが堰を切ってあふれ出る。
「これは丸橋さんのしたこと?」
「まぁ、そうなるのかな」
「なぜこんなことを?」
俺がそう聞くと彼女はせせら笑うようにして言う。
「肇くん、君が好きだからよ」
彼女の目はまっすぐこちらを向いて離さない。予想だにしない答えに唖然としている俺を置いて彼女は大きく息を吸って話し始める。
「肇くんのことだけをずっと想い続けた、一秒たりとも欠かすことなく!君だけのことを、何日も、何年も!
そしたら神様がプレゼントをくれたのよ。朝になったら奇妙な数字が掌に見えたの。最初はそれが何を指すかわからなかったけど、それが何か気づくまで時間はかからなかった。それでも半信半疑だったけど、君がそれを持ってノートに向かう姿を図書室で見てそれは確信に変わった。
初めは君の永遠を奪おうとした。帰り道の電車で自分の思いを伝えて、それから私は目を閉じるの。そうすれば、君は私のことを死ぬまで引きずるの!喫茶に寄ったとき、電車に乗ったとき、水族館に来たとき。君はその度に私を思い出すの。その度に私はよみがえって、あなたともっと深層の生を生きる。君を私一人のものにできるのよ?」
とめどなく想いが濁流のようにあふれる。輝く月を背にして彼女は話を続ける。
「でも、帰り道に人身事故を見たとき、怖くなって」
彼女の声は震えた声に変わった。彼女の目尻に涙が浮かぶ。
「この世にいたくなったの。君ともっと話したい。君の笑顔をもっと見たい。君の呼吸、鼓動、成長を感じたい。君の隣にいたいって、そう思っちゃったの」
数は「3:00:51」を示す。涙をぬぐいながらブランコに座る彼女を見る。俺は自分の感情が混ざり合っているのを感じた。ぐちゃぐちゃに混ざり合って、何が本当の気持ちかわからない。ただ唯一わかることは、俺にはどうすることもできないということだけだ。
俺は、その時にどんな感情を抱いたかわからない。同情、怒り、悲しみ。その全てが正しく、すべてが誤りだろう。俺はポケットからハンカチを取り出し、彼女に差し出そうとした。が、彼女は立ち上がり、公園の外に走り出してしまった。小さい「ごめんなさい」だけを言って。
そして、ここには俺だけが取り残された。
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