第7話 本論
喫茶店の扉を開け、外へと出た。初めはもちろん任意の用事を思い出させようと直近の行事や祝日、家族間でありえそうな予定や習慣を話の折節に織り込んだ。最終的には芸能人の誕生日まで話は及んだ。だが、それでもいつも彼女は決まって全ての思惑を見透かした目で
「でも今日は予定なんてないよ!」
と言うのだ。
扉を開けると彼女の装いは変わった。赤を基調とした控え目なチェック柄のマフラーと明るいクリーム色のジャンバー。明暗や彩度での対比はさまざまに印象を変えるという話を身に染みて実感する。
そういえば、店を後にしてからずっと
「ちなみに、どちらに行かれるんですか」
「えっ!?」
えっ。彼女は鳩が豆鉄砲を食ったような顔とそれに見合った声量で衝撃を受けている。俺もそこまで驚かれるとは思いもよらず、少し動揺する。微かな時間の沈黙を経て、彼女は口を開く。
「まさか聞いてなかったの!?」
「いや、まぁ、強いて言えば」
問いただされている感覚は皆無だが、その驚き様に口を割ってしまう。全く聞いていない。
「心外だなぁ、まさか肇くんがそんな人だったなんて…」少しふくれっ面で言う。
「…」倒置法を用いた彼女の言葉にぐうの音も出ない。
「ふふっ、嘘だよ!」
不敵に笑みを顔に浮かべて彼女は言う。太陽の光が
――――――――――――
「今からどこへ?」
「いいから、私についてきて!」
目的の駅に着いたのだからもうそろそろ目的地くらい教えてほしいという純な願いも持ちつつ彼女の後ろに追従する。もちろん周囲に対する集中は絶やさない。
8分ほどしただろうか、不意に彼女が振り向いた。
「着いたよ!」
「ここは…」
彼女の明るい声に顔を見上げてみる。そこには、水族館の看板があった。
水族館。なぜ、と彼女に聞こうとこちらを向いて何かをうかがうように不安げな表情をしていた。俺は出そうとした言葉を喉奥にしまった。
「いいですね」
俺がそう言うと一転して喜びの表情に変わった。彼女の笑顔を見ると俺も悪い気がしなくもないのだった。
「わぁっ…」彼女の口から感嘆の声が漏れる。
眼前に広がる一面の幻想的な風景。水面よりいくつかの光が差し込み揺らぐ。数えきれない小魚の群れがうろこでそれを反射し、星空のような輝きを見せる。あいにく俺の住む地域は海と縁がなく、海洋生物を見る機会もないし、水族館だって子供のころに2、3回来ただけだ。そんな俺の目にはその情景がより一層夢のように映った。
まぁ、俺はそれを見て維持費や光熱費に思いをはせるのだが。無粋だと自覚してはいるがこれはもう天性のものなので変えられない。
「ねっ、どう思う?」
すこし興奮した口調で彼女は聞く。水族館特有の青白く暗い光が彼女の顔に差している。
「素敵だと思いますよ」
俺は率直な賛辞を呈した。
「そっかー」
うんうん、と噛み締めるように彼女はうなずく。人は本心を言うときは体が前後に揺れるらしい。
「君の話も聞きたいな!」
突拍子のないことを言われる。本当に質問の意図がわからない。少しの恐怖と一瞬の逡巡が頭で一回転したのちに俺は口を開いてみる。
「あーっと、水族館ってなんだか暗いですよね。あれって魚たちを安心させるためらしいですよ。ほら、人の目に常時
相当な長さでつまらないことを話してしまった。まぁ面白くない奴と評価されるという目標には近づけたはずだ。彼女のほうに目をやる。
彼女はきょとんとした顔をちらりと見せたがすぐにニヤリとした笑みに変える。
「楽しんでくれてるみたいでなにより!」
ら抜き言葉で飛躍した論理で感想を言われる。どういう思考のもとにその発想が出たのだろうか。彼女はくるりと方向を変え、通路を進んでいく。俺はそれについていこうとした。その途端、
「えっ?」
目を少し左に向けた彼女は藪から棒に吃驚する。俺は不審に思いながらも彼女の視線に合わせてみる。その先には「イルカショー 本日休止」の立て札があった。俺はといえばそもそもイルカショーがあることさえ知らなかったから特に反応することはなかった。だが、彼女はそれを心から楽しみにしていたようで、空言のように何かをぶつぶつとつぶやいていた。
「次がありますよ。大丈夫です」心にもない激励を送る。
「でも…いや、それならいいか」
視線をそれから離して人の流れに沿って歩き始める。俺も少し安心して彼女の後ろについた。
――――――――――――
それからして、通路を回ったりフードコートで何か食べたりといろいろと振り回された。書店やコンビニくらいしか行かない俺にとってそれらは新鮮かつ不思議な体験だった。彼女は不気味なほどに終始笑顔で俺はその理由がわからなかった。
光陰矢の如し。時刻は17時21分。「3:01:17」の数をみるとそれがわかる。太陽は西に傾き始めた。日が暮れるのはこんなに早いのかと少ししみじみとした感じがする。
水族館を後にした俺たちは今日の感想戦をしていた。傾聴しているだけならいざ知らずこちらにまで感想を求めてくる。体中が許容範囲を超えた疲労に悲鳴を上げる。でもまぁ十分に楽しかったのは事実であるし口から出る言葉に嘘はない。彼女にもそのことが伝わっているのかうなずきながら興味深そうに聞いてくれる。そんな彼女を見ると来てよかったとも思えた。警戒は未だ解けないが。
興奮も冷めやらぬうちに先ほど降り立った駅に戻ってきた。その雑踏の一部として入り込む。だが、どうも様子がおかしい。往路の人混みとはまた違った人だかり。彼女もそれに気づいたようで、二人して電光掲示板を見上げる。そこには「人身事故のため運行に遅れが生じております。運行の再開は…」とあった。
「どうやら、人身事故みたいですね。少し待ちましょう—――」
そう声をかけようと彼女のほうを見ると、彼女の頰は涙が伝っていた。ツーっと涙粒が顔から滴る。そのまま彼女は俺の手を取って駆けだした。俺の声さえも置き去りにして。
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