第5話 図書

 誤字訂正が寿命を増やす?そんな馬鹿げた話があるわけない。しかし、たしかに今この瞬間数字は変化したのだ。12時間分だけ。

「何かの間違いだ、道理に合わない」

 もう一度シャープペンを手に持ち「一同に会する」という誤った文をノートに正しく書き改める。すると掌の数はやはり先ほどと寸分違わず同じ動作をして12時間分の延長をするのだ。何度見てもその光景が、自分の誤字訂正により引き起こされた変化だとは思えなくて。

「だめだ、どうしても理解できない」

 ふらついた足取りで席を立ち、何かにつまずくようにしてベッドに倒れ込んだ。暖房のタイマーもセットすることなく、眼鏡を外して眠りに落ちた。


 ――――――――――――


 朝になった。時刻は6時10分。「5:22:54」は掌の数だ。まだ悪夢の中にいる感覚で朝ごはんを摂りシャワーを浴びて学校に向かった。

 いつもより冴えない顔をしているのはわかる。通学路も、学校も、どこにいるときでもなんだか現実味を帯びていない。頬をつねるなどの古典的なことはもうしたが、現実である証明がまるで自分の腑に落ちてこない。世界五分前仮説さえも今なら信じられる。頭の中で生と死が実態をもたず回転している。自分がこの瞬間を連続して生きてきた実感も、この瞬間自分がここに存在している感覚もなかった。

 帰ってからご飯を食べているとき、母には心配された。もちろん大丈夫とぼんやり答えても信じる由もなく体温を測られ、挙句の果てに病院に連れていかれそうになった。それは止めた。

 部屋に帰ると、今日一日俺を茫然自失にした元凶が机の上に放置されていた。やはり何度見ても掌の数は実態を持って「5:10:03」を示す。それらを横目にベッドにうつ伏せで倒れた。ため息交じりの呼吸が口から漏れる。そんな数分の無音を経た後俺は不意に立ち上がり自分の頬を叩き、奮い立たせた。

「よし、やるぞ」

 堂々とした足取りで席に着き、例の本を一ページ一ページ査読する。スマホを片手に怪しければ調べ、検査し、間違いがあれば修正する。だが、俺は別に校閲を生業としているわけではないから訂正と言えども限度がある。読み終えたとき、誤字の数は総計で26個だった。21時51分。掌の数字は「8:19:13」。3日と12時間分の貢献だ。

 1(訂正)=1/2(日の寿命)。12時間は確かに長くはないが、塵も積もれば。俺は閉じた本とノートをまた開き、また初めから読み始めた。


 ――――――――――――


 寝て起きて学校に行って家に帰れば、本とスマホとにらめっこをする。そんな生活を約一週間続け水曜日になった。誤字脱字カウントは29にまで増えた水曜日の早朝、時刻は6時10分。掌の数は「5:02:52」になっている。

 あと5日と02時間と52分。数は残酷にもそう示す。寿命の譲渡は、なんて考えて頭に手を置いたりしてみたが変化はなかった。ベッドから這い出て、リビングへ向かった。



 授業が終わり「4:17:03」に変わった掌の数。6時間目の美術が長引いた。丸橋さんはもういるはずだ。深呼吸をして、俺は図書室の扉を開ける。予想は的中した。

「…こんにちは」

挨拶すべきかどうか、一瞬の迷いが頭をよぎってしまったせいで小声になってしまった。丸橋さんは集中した顔で蔵書リストと本棚を照合している。きっと、聞こえなかっただろう。そう思った矢先、

「こんにちは」

返事が返ってきた。意外なその声に俺は呆気にとられる。頭に様々な可能性がよぎり、最終的に「美人局」という単語までたどり着いたときに我に返った。自分の任務を思い出した俺は蔵書リストを手に取り、点検を始める。

しかし確実に関係性が良くなっているのは確かだ。昔の自分に対する態度を思い出すと挨拶をしてくれるなんて考えられない。やはり何かの新興宗教団体に勧誘されたり言葉巧みに高い絵画や壺を買わされたりするのだろうか。いや、もちろんそうだ。なんて正常な思考と論理性を欠いた頭で思う。



何かに没頭しているときは時間が経つのが早く感じるものだ。点検中は常に頭を動かしていたうえにそのあとは例の本を持ち込んで誤字の訂正をしていたので、集中する先が絶えずあったから下校時間になるのも早く感じた。図書室の照明を消し、職員室から取ってきた鍵で施錠し、鍵を元に戻す。この一連の作業を終えることで図書委員の仕事は終わる。

帰り道は二人きりになることを恐れ、いつも俺が早歩きで距離をとる。だから話すことはない。異性と一対一になるという状況はおぞましく恐怖に満ちたものである。例えば路地に入ったケースを考えよう。警察を呼ばれたりもしくは異性の味方かつ俺の敵に囲まれたりするかもしれない。そうなれば形はどうであれ俺の人生は終わる。これは良くない。だから、もし相手がスマホを出したときはスタンディングスタートの姿勢になる必要がある。俺の敵を呼ぶことが確定しているならばクラウチングスタートが望ましい。なぜなら、初速という観点だけからみると前者より後者のほうが優れているからだ。初速が早ければ敵が来るまでに大きく距離をとることができる。トップスピードがいくら早くても、初速が遅く距離がとれないうちに敵が来てしまえば無意味だ。そう考えるとタクシーを含む自動車や自転車はよほどの条件が完全にそろっていない限り逃走法の候補から除外すべきだろう。

話を元に戻す。鍵を返したあと、俺はいつも通りに校門から早歩きで逃げようとした。しかし、その退路は断たれた。

「ねぇねぇ」

肩をぽんぽんと叩かれる。ヒッというひきつるような音が喉から出る。後ろを恐る恐る振り向くと、そこには頭上に「5:01:38」の数を持った丸橋さんがいた。残留した思考中の「美人局」という単語がより一層克明な輪郭をもって主張してくる。落ち着いて全神経を尖らせて痙攣する口角を上げて応答する。

「何でございましょうか」

「その喋り方変だよ」

俺の話し方で笑えるらしい。彼女は少し笑顔になった。

「用件はそれだけでしょうか」

「あっ、いやいやそうじゃないの!聞いて!」

「はい。お伺いします」

「えっと、その、ぁの…」

手を後ろにしたり前にしたり、そのたびに黒髪が揺れる。そういえば頭にできる円形の艶は天使のリングとも呼ばれているらしい。

「ぇっと、デート、しない?」

「…はい?」

耳を疑うその言葉に、俺は目をぱちくりさせた。

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