ノワール
白川津 中々
■
男の右手には
生まれながらに不幸を呼ぶ男の名はノワールといった。古い言葉で黒を意味するその名は男にとって相応しいものであろう。なにせ、その手で触れた人間は皆、どす黒く変色し事切れてしまうのだ。これ以上おあつらえ向きな名もない。
「あんたなんて、産まなければよかった」
死んだ母の、最期の言葉が男の頭の中で反響する。ノワールが殺した、母の言葉である。
ノワールの母はつまらぬ女であった。誰に聞いたかもしれぬ浅い道徳と倫理を押し付ける、くだらぬ人間だった。
母はノワールを責めた。「お前は悪魔の子だ」と、そんな言葉を毎日浴びせていた。
正義と秩序を重んじる彼女にとって実の息子は許容できぬ存在であり、生涯一度として愛を向けた瞬間はなかったが、ノワールにとってそんな事はどうでもよかった。自分を生んだのは母親の勝手だし、勝手に産んだ子供をどう扱おうが知った事ではなかった。ノワールは自身の与えられた運命を受け入れ、与えられた運命に従う他ないと考えていた。
だが、母親は違った。人を、生を、命を、いともたやすく絶ってしまう我が子を忌んでいた。月並みの教育を受けた母親にとって、
「あんたなんて、産まなければよかった」
狂乱した母親はノワールの寝室に入り、ノワールの首を絞めながらそう言った。目には涙を浮かべ、息は絶え絶えとなり、その形相は鬼か、もしくは、人間そのもので、実に、殺意を感じさせるものでった。
あぁ……そうか。人は、人を当たり前のように殺すのだ。それが例え、親子であっても。
ノワールはそんな事を思った。
それが真理であり、また必然であるようにも思えた。
そうか。なら、俺が殺しても……
ノワールの右手が母親の細い首に伸びた瞬間、彼の目の前にいたものは黒い塊となった。一つの命が消えたのだ。かつて母親だったものが浮かべていた涙は枯れ、口からは腐臭が漂い、ボロボロと落ちていった。
崩れ散り粉塵となった肢体を浴びたノワールは悲しいような、面白いような顔をして自らの手をみた。母親を殺した五指は白く、美しく、細く、輝いているように見えた。
俺が殺したのだ。そうだ。俺は人を殺してもいいのだ。俺だけじゃない。人は、人を殺してもいいのだ。
月が出ていた。窓から射す銀影は狂気を宿していた。
月光に照らされるかつて母親だったものと手を見比べてノワールは一つの覚悟をする。人として産まれた以上、俺は人を殺さなくてはならないと。
そうだ。俺は殺さなくてはならないのだ。人として……人間として!
ノワールが母親だった、頭部だった物を掴むと、それは砂のように崩れサラサラと床に落ちていった。ノワールはそれを命の結末だと確信し祈りを捧げた。母親より聞いた神に対して手を組み、目を閉じて「哀れみたまえ」と天を仰いだのだ。
主よ。私は殺します。人を殺します。人として生きている証として、人を殺すのです。
風が吹いた。それは単なる隙間風だっただろう。しかしノワールはそれを神の祝福だと信じた。生を、死を、殺人を、すべてを肯定する神のご意思だと!
「あんたなんて、産まなければよかった」
反響が続く。ノワールは人を殺す時、いつも母の声を聞く。
目の前には黒く変色した肉が一つ、二つ……。ノワールが殺した。女を殺したのだ。母親と同じように、その手で。
「あんたなんて、産まなければよかった」
違うよ母さん。それは違うんだ。母さんは俺を産んだ事を悔いているんじゃないんだ。俺を、死を肯定できなかった事を悔いているんだ。産んだ事じゃない。殺せなかったことを悔やんでいるんだ!
目の前に転がるかつて人間だったものは粉屑となり何処へと消えていった。
残ったのは女達が身に着けていた衣服とノワールの影だけだった。
あぁ神よ。俺はまた人を殺しました。
ノワールは殺す度に祈りを捧げる。
生と死と命に対して賛美を口にする。
ノワールにとって死は生の証明であり完成であった。人を殺す事によって、己と他者が救われると信じているのだ。
ノワールにとって死とは生きる目的そのものであり、また手段でもあった。ノワールは死をもって自らの生を認識できた。殺すことでしか自らの存在を証明できなかった。それが彼が得た、人としての尊厳であった。
「あんたなんて、産まなければよかった」
死んだ母の、最期の言葉が男の頭の中で反響する。ノワールが殺した、母の言葉である。
目の前には人がいた。生きている、いずれ死ぬ、ノワールの手によって殺される人間がいた。
「あんたなんて、産まなければよかった」
あぁ! 母よ! 死を甘受できなかった哀れな羊よ! 貴女の魂は私の手によって天に召された!
死によって神に認められたのだ! 失った命は輝いた! 人として! 人間として! 命として! 闇夜を照らす太陽が如く! 暗黒の大海に浮かぶ星々の如く!
ノワール、それが男の名であった。
それは古い言葉で黒を意味する。
黒は死の色であり、命の色であると彼は信じている。
彼の目の前にはいつも死があり、神の恩寵が揺蕩っていた。
ノワール 白川津 中々 @taka1212384
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