社会問題を考える

tide

はじめに

 一年ほど前から東浩紀の著作を少しずつ読んでおり、なにやら思想めいたものを書きたいと思うに至った。とはいえ、今は「思想」という言葉の意味もよく理解できていない。当然、自分に何が書けるか、何を書きたいのかもイマイチよくわかってはいない。となると、考えをまとめるための文章、「思想」を書くための準備としての文章を書く必要がある……、これがこの作品の出発点だ。そして目標は、ひとまず分かり易い社会問題を題材として自身の思考を言語化し、思想めいたものを引き出すことだ。

 もう少し背景を書いておく。ぼくは大学時代以来、オタクを自負している(いた)のだが、近頃アニメを見てもつまらないと感じることが増えてきた。いっそのこと、自分でアニメを作ろうと考え、アニメ脚本の執筆を始めた。2019年9月ごろの話だ。(成果として、処女作を提出した某脚本コンクールからお祈りメールを一通いただいている)。さて、「昨今のアニメがつまらない」という動機から出発してアニメ脚本を書くという行為に至るのは、一見奇妙な話だ。オタクを辞めればよいではないか。脚本執筆前に、ぼくはとある理念を掲げていた。「反エンターテイメント帝国主義運動」という理念だ。

 反エンターテイメント帝国運動とはなにか。アニメそのものに問題があるわけではない(アニメはただの表現手段なので当然だ)。そうではなく、過度にエンターテイメントを重視する風潮、すなわちエンターテイメント帝国主義が問題なのだ。こういう前提に立ち、エンターテイメントへの信仰に疑義を投げかける運動、エンターテイメント帝国からアニメを取り戻す運動、それが反エンターテイメント帝国主義運動である。

 では、いったい反エンターテイメント帝国主義運動とは、具体的にどのような運動なのであろうか。様々な形態が考えられるが、ぼくが実践しようとしているのは、「思想」を「エンターテイメント」でパッケージングし視聴者に送り込む、「思想ウィルス」としてアニメを構成する、というものである。なお、この辺りから、僕自身考えがまとまっていない。というより、自身の考えをまとめるために、今こうして言語化している。混乱がみられるかもしれないが、ご容赦願いたい。

 さて、「具体的に」と書いたにもかかわらず、全く具体的ではない。具体的には「思想」という語が具体的でない。これはいったいなんだろう。現状のぼくの認識では、「現実の問題に対処するための論理武器」ポイントは「現実の問題」と「論理」だ。まず、後者について簡単に触れよう。ぼくは論理を、エンターテイメントの対立概念として捉えている。ほとんどのシナリオ制作に関する書籍で言及されていることと思うが、エンターテイメントとは「感情」を動員するための装置である。感情とは(乱暴な表現かもしれないが)非理性的・非論理的なものである。ざっくりこう捉えると、論理(=思想)と感情(=エンターテイメント)を対置し、それらを繋ぐものとしてアニメを構成する、といったヴィジョンがみえてくる。

 次に「現実の問題」について。ぼくは、思想はあくまで現実と向き合うためのツールであるべきだと思っている。決して、現実になんの影響も与えない抽象的な思考のことを思想と呼ぶのではない。と、特に根拠なく信じている。

 まだ「思想」を説明したとは言い難い。が、これ以上は本当に具体的な話題となるので、次回以降に持ち越したい。取り敢えずは、エンターテイメント的要請から生まれるプロットに思想の論理展開を同居させるようなアニメを作りたい、ということが確認できればよいことにしよう。そもそも論だが、この作品(?)は創作論について記すために書き始めたのではない。思想の断片を言語化するために書き始めたものだ。のっけから道を踏み外してしまっている。そのうち推敲することとして、ひとまず序文はこれまでとする。以降はひたすら、(真に)具体的な思想を言語化することに徹しよう。

 

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社会問題を考える tide @TideTajdo

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