暖かい部屋、安らいで
「あ、カナちゃん。終わったんだ」
「うん。楽しんでもらえたよ。……たぶん」
一時間と少しばかりの祖母への朗読を終えて階下に降りると、どこかふわりと良い匂いの漂うリビングで文庫本を開いていた従兄弟に尋ねられた。何を読んでいるのだろうと目を凝らすが、残念ながらその手元の本にはお手製のブックカバーカバーが掛かっていて分からない。代わりにその脇には殆ど空になったティーカップが置かれているのが見えた。
興味本位の視線を切って自信なく答えれば、「たぶんってなにさ、きっと大丈夫だよ」と頬を緩ませて励まされる。俯きがちにも「うん」と頷きながらソファに近づいて下ろしてきたハンドバッグをテーブルに置くと、それと入れ替わりのように立ち上がって「何を飲みたい?」と訊かれた。思案している間に彼は冷蔵庫から何やら取り出している。結局は漂う匂いのものと同じものにした。
「じゃあ、紅茶。甘くないやつ。喉疲れちゃった」
「はいはい。――っん、とりあえず先にこれどうぞ」
電気ケトルをつけてから、軽やかな音を鳴らして冷たい麦茶の入った小さなグラスを渡される。受け取って「ありがと」とお礼を言うと、「どういたしまして」と軽く芝居がかった返事をされた。それに揶揄の空気を感じて小突く素振りを見せれば、猫のように目を細めてキッチンの奥の方に逃げていく。
定位置のキッチンの遠い側のソファに腰を落ち着ける。瞼を下ろして一息に呷り、鼻に抜ける香ばしさを楽しんだ。嚥下した状態のまま少し目を休めると、まもなく正面に気配が近づいたのを感じてゆっくりと目を開けた。
「どうぞ、お嬢様」
「お嬢様って、ずいぶん引っ張るね? 日向くん」
だって、このセットじゃねぇ……と、含むように笑いながらカタリと硬質な音を響かせて白の陶器のソーサーとカップを並べる彼。透明なガラスポットもそうだけど、どの茶器もこの家の雰囲気に合う上品で控えめな美しさを持っていて、見ているだけでも楽しい。
そのまま流れるようにポットから煌めく赤い液体が注がれる。湯気と一緒にくゆる薫りはなんとも芳しく、甘やかだ。
「それで、今日は何を読んだの?」
返したグラスを受け取りながら私の物言いをさらりと流して聞いてくる彼がちょっとだけ腹立たしい。それもこちらを見遣る朗らかな顔を見れば、あっさりと雲散霧消してしまうようなものではあるけれど。
「ほら最近新刊の出た――」
「――あぁ、それね。……あれを選ぶカナちゃんも凄いし、でもそれを楽しめそうなばあちゃんはもっと凄いな」
「む、悪かった?」
言いながら手にとった本を下げて唇を尖らせると、落ち着いた様子のまま「そうじゃなくて」と微笑みながら返される。
「うちのばあちゃんが凄いって話。良いセレクトだと思うよ」
「……なら、いいけど」
やっぱり、この笑顔には弱い。「ずるいなぁ」と独りごちて頃合いの温度に落ち着いたカップを傾ければ、ひときわ強い薫りが口いっぱいに広がった。その色づいてすらいるように思える香気を、そっと吐き出す。
「ん、美味しい」
「そう? 良かったー……」
ふぅと息をつく日向くん。その様子が妙に可笑しくて笑いを零せば、「何?」と怪訝そうに尋ねられた。
「ううん、なんでもない。強いて言うならなんか私達がそっくりだなーてお話」
「なにそれ」
リクエスト通りのものを持ってきて、でもそれが合うかは自信がないってことだ。
――とは口に出さず、そっと件の本を手にとって撫でる。
このシリーズだっておばあちゃんに「奏が好きなお話を」って言われたから持ってきたのだ。もちろん、この人なら楽しんでもらえるだろうという計算はあるにはあったけど、それよりも「楽しんでもらいたい」と思ったからこそ選んだものだったのだ。
まぁ、実際楽しんでもらえたのだろう。祖母は終始私の思った通りに息を飲んだり、笑ったり、安堵したりなどの反応をしてくれたし、読み終わってから「次が待ち遠しいねぇ」なんて、それこそ少女じみた様子で漏らしたのだから。
それきり、なんとなく音は絶えて。紅茶の薫りと、奥に掛けられてる立派な古時計が刻む秒針の音だけでリビングは満たされた。
小さくかぶりを振って撫でていた本をしまい、古時計の横にある書架から洋書を一冊引き抜き、座り直してそのまま読み始める。ちらと一瞥すると、彼も向かい側に座って新しい一杯と共に続きを読んでいるようだった。
……小一時間もなかっただろうか。紅茶をお代わりしようかとポッドを見遣り、ふと顔を上げると同時に先程から秒針の音を響かせていた壁時計がタイミングよく正午を知らせる重低音を鳴らした。ぱさり、と向かい側から本を閉じる軽い音も聞こえる。
「――良い時間だし、お昼にしよっか」
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