夏の日、白い部屋の


 事の始まりは半年の前のこの祖母の入院か、あるいは三年前、まだ中学生だったクリスマスに母に連れられてやらされた地域の子供相手の朗読会か。もしかしたら、もっと幼い頃にしてもらった母や祖母にしてもらった読み聞かせかもしれない。

 いずれにしても、直接の切っ掛けは彼女が倒れたことだった。




     * * *




 全くの寝耳に水だった。

 程よく集中力の高まる三限。教室の後ろからそっと入ってきた担任が授業をしている先生に耳打ちをし、私を呼び出して「御婆様が倒れた」と告げたのだ。

 聞いてから数拍は内容が分からず立ち尽くしたし、言葉の意味を飲み込んでからは制止も脳裏に掠めた手続きも振り払って病院に駆け出した。とはいえ、学校からはちょっとした小言を貰っただけでお咎めはなかったが。

 走りながらスマホで家族用に作ってあるグループチャットを開く。案の定何号室に居るかが書いてあった。私のそそっかしさを見通してか、窓口での手続きを飛ばさないようにというメッセージ付きで。

 その文を見て少し心を落ち着かせ、大急ぎだったからか十分ほどで掛かりつけの病院に辿り着いた。この街で運び込まれるような病院といえばここしかない。息が切れているのもそのまま、窓口に向かえば私が何も言わないうちに「奏ちゃん」と声を掛けてきて、親戚の事務のお姉さんが受付札を渡してくれた。


「大丈夫だから、人とぶつからないようにね。部屋番号は分かる?」

「――っはい、分かってます」


 言いながらスマホを持ち上げると「あぁ」と首肯される。もう一度「走らないでね」と念を押されて、お礼もそこそこに人通りの多いエントランスを早足で抜けた。


「おばあちゃん!?」


 いくつか棟を渡り、階段を上がって部屋に入ってまず目に入ったのは白だった。

 白いシーツと、それと同じ位白く感じる祖母の顔。ベッドの脇の椅子に座ったスーツ姿の母が私に気付き、「しー」と指を立てた。


「静かに。ただ寝てるだけだから」

「でもっ」

「でも、じゃない。術中でもないし、面会謝絶じゃないってことからも分かるでしょ」

「……」


 そこまで言われてやっと茹だった思考が落ち着いた。「……うん」と小さく首肯して、タイを整えつつ緩めながら母の横に座る。


「それで、なんでおばあちゃんはこうなったの?」

「……あなた、先生に何も聞いてないの?」

「うん、倒れたって聞いてそのまま走ってきたから……」


 頭が痛い、とでも言わんばかりに手の甲を額に当てる母。「あとで連絡しないと」と零しながら溜め息をつく。


「ご、ごめんなさい」

「……いや、まぁ怒るに怒れることではないから。そういうところは、奏らしい美点でもあるのだし」


 流石に迷惑を掛けた自覚から謝れば、褒めるとは形容しがたい語調で許された。


「家の階段から落ちたのよ。それで足と頭を強く打ったんだけど、どちらも大きな問題はないって。足は折れたけど安静にしてさえいれば十分治るし、頭も今のところ大丈夫。現場には何冊も本が散らばっていたそうだし、運ぼうとして足を滑らしたんでしょうって、救急の方が。問題は加齢による筋力の低下でしょうねって」

「…………。そ、っか……」


 消沈しながら頷く。それから、二人してぼんやりとおばあちゃんの顔を見つめていた。


「――ぅ……」


 微妙な空気の二人の間に通ったのは、小さな声。


「――――!」

「おばあちゃん!」 


 弾かれたように声を上げれば、祖母は一拍厳しい表情をして瞼を上げた。そのままゆるゆるとこちらに顔を向ける。


「華、奏……?」


 母と私の名を呼ぶ彼女。動き出そうとして辛そうに顔を歪めた。


「母さん、無理に動かないで。階段から落ちたのよ、大丈夫? 覚えてる?」


 慌てて諌める母。それを見てようやく気付いた。母も年の功で取り繕っていたいただけで、心配でたまらないのだ。実の子なのである。当然、心配でない訳がない。だからこそ、仕事中だと言うのにいの一番に駆けつけたのだ。


「――覚えてるわ。二階に本を運ぼうとして、階段で足を踏み外して――。…………迷惑を掛けたねぇ」


 寝心地が悪いのか、しきりに体を揺らす祖母。そんな彼女を見て、母と目配せし二人がかりで腕を差し込んで整える。


「そんなことないよ」


 服の背中側を伸ばしながら即座に答える。


「でも、仕事中で、学校もあっただろう?」


 ベッド脇のボードの上のデジタル時計を見ながら言う。


「大丈夫よ、これくらい」

「そうそう、いつもの積み重ねがあるし」


 少しのずるさに冗談めかして舌を出せば、しのも楽しげに小さく笑った。


「――ばあちゃん?」


 そこに顔を出した癖っ毛の青年が一人。

 宇山日向、私の従兄弟だった。一昨年の大学進学と同時に祖母の家に同居している。膨らんだ鞄はきっと家から持ち出した入院に必要なあれこれだろう。


「日向くん」


 私が名を呼べば、会釈しながら病室に入ってくる。


「大丈夫……そうだね。良かった」


 朗らかに声を掛ける彼は、小綺麗な白いシャツとチノパンという出で立ちだった。胸を撫で下ろすかのように息をつき、ベッドの向こう側に歩いていく。


「ほんとに悪いねぇ日向。ありがとう」

「なんもだよ、ばあちゃん。はい、これ着替え」

「あ、そこの棚に入れておいて。ありがとね」

「分かりました、華さん」

 鞄から出した服を詰め直していく彼。それが終わるのを待って声を掛けた。


「日向くん、大学は?」

「んー? 今の時間はもともとコマはないから大丈夫」


 そんなことより、と続ける。


「で、ばあちゃん。なにがあったの」

「あー、本を八冊ばかり二階にあげようとしてね、それで――」

「――無理して落ちた、とか?」

「はい」

「はいじゃなくて。無茶しないでよ、ばあちゃん」

「……ほんとごめんねぇ」


 しおしおと答える彼女に「そうじゃなくて、怒りたいんじゃなくて。……心配、なんだよ」と口籠る彼。

 しんみりとした空気を壊すように、母が手を叩いた。


「はい、この話はこれで終わり! で、母さんは欲しい物はある? 食べ物も飲み物も特に制限はないから、何かあるなら買ってくるよ」


 言いながら「とりあえずこれ」とハンドバッグの横に置いてあったポリ袋からペットボトルのお茶を手渡す。それを「特にないわねぇ」と思案しながら祖母は受け取った。


「そう、なにかあったら連絡して。ちょっとしたことでもね」


 ベッドサイドのスマホを指差しながら自分のバッグを取り上げる母さん。肩に掛けながら「じゃ、私は戻るから」と言いおいて病室を後にした。


「……ばあちゃん。俺も次の講義が入ってるから、行くよ。……無理はしないでよ、絶対」


 そう告げて彼女の手を取り、軽くハグをして日向くんも出ていった。

 取り残された私はぼんやり母の指差したスマホを眺めていた。そういえばこの歳でこういうものを普通に使えるのもすごいよなぁなどとつらつら思いながら。

 そんな漫然とした思考を崩すように声を掛けられる。合わせた視線はひたすら真摯だ。


「奏。……心配、掛けたねぇ……」

「ううん、全然。本当に大丈夫だよ」


 でも、と続ける。


「やっぱり、心配だから。だから、無理は、しないでね」


 結局、涙声だ。祖母に体を寄せて、皺だらけの白い手を握る。そんな私の背を、彼女は空いた片方の手でずっと撫でていた。

 空いた窓からは来る盛夏を思わせる燦々とした光と、濃い青を孕む温い風が吹き込んでいた。


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