第10話 変わりゆく街
城を出て、大通りを塔へと戻る。ひとりになっても情報屋は現れない。
風はあきらかに勢いを増し、招かれざる王に抗議するように城へ向かって吹き荒んでいる。
「スドルフスキ!」
広場へ戻ると、老人はまだコントラバスを弾いていた。
「何かあったんじゃな」
「そうなの、でも心配しないで、この街はあたしが守るから」
「昔、王もそう言ったもんさね」
「スドルフスキ……」
「わしはどこへもいかんよ」
スドルフスキの見えない目が、空を見上げた。空にはヒバリが舞い続けている。
「この街を奏でる、それがわしの人生じゃ」
「わかった」
エリはスドルフスキをおいて歩き出した。風が唸るのとは違う大きな音が聞こえ、路地からコルツが走り出てくる。
「大変だよエリ! 街が崩れっちまう!」
「塔へ!」
エリは双子の塔を指さした。
「塔へ逃げて、学校にいるウォルシュタインと宿屋のオリビエもつれて。他にも人がいるならみんな塔に集めて! おねがいよ!」
「よしきた!」
コルツが再び路地へと消える。風の抵抗を受けながらエリは進んだ。目指しているのは彼の元だった。
塔の屋上に吹く風は、街に吹き荒れる凶暴な風とは違っていた。一面のシロツメクサが揺れている。彼はそこから、変わりゆく街を見つめていた。
「新しい王が、街を変えていく」
情報屋は茫然と街を見下ろしていた。
彼の言う通り、街はその姿を刻一刻と変えてゆく。マリは父の描いた街の画を塗り替えていた。マリの街に。
本当は、エリが描いたあの画の街に。
夜空に星が瞬き、二つの月が地面を照らす。薄青い空気の中に、瑠璃色の街が浮かび上がる。宝石が煌くようにこぼれる家々の灯り。わずかに漏れる人々の吐息。
画の名前は『宝石の都市』。それが今回のコンクールのためにエリが描いた画だった。
マリはその画をそのまま描いている。違うものといえば、蒼黒い影達が何かを探すように街をはい回っていることだけだ。
「みんなが望む世界を描けばいいんでしょ!」
王の間でマリはそう言った。マリは、エリの『わたしのせかい』こそが、みんなの望む世界だと思っている。
「こんな街、ぼくは知らない」
情報屋は両手で顔を覆って嘆いた。エリはその傍らに立って、共に街を見下ろした。
マリ!
エリの心が叫ぶ。
誰かの世界を、自分の物にするのはやめて!
マリにはマリの、街があるはずなのよ!
エリの叫びはマリには届かない。
「答えを聞いてなかったわ」
エリが言った。情報屋がエリのほうをむく。
「あの時の答え、あなたの幸せ」
風の川が静かに流れる。塗り替えられてしまった街に寄り添ったまま、怒りの行き場をなくしたように、しんと静まり、なりを潜めている。
情報屋の顔は絶望に満ちていて、エリに答えをくれそうにはなかった。エリはずっと考えていたことを彼に告げた。
「もし、あなたが自分自身を知りたいのなら、あたしはあなたを知ってるわ。あなたの名前はクローバー」
驚きに満ちた情報屋の目が見開かれる。
「幸せを呼ぶ者、街の希望。それがあなたよ、クローバー」
蜂蜜色の髪を揺らしながら、クローバーは自分の身体を抱きしめる。瞳がきらきらと輝きはじめる。
「クローバー、それがぼくの名前?」
「そうよ」
エリはクローバーの額にかかった髪をそっとかき上げ、額にキスをした。
「ありがとう、クローバー。この場所からずっと、街を見守っていてくれて」
エリとクローバーは手を取り合って塔の階段をおりた。塔の入り口にはコルツと、街にいた他の人々の姿があった。自分自身を知った情報屋は、みんなの前に出ても姿を消すことはなかった。彼はこの街を見守る者としてこれまでもこれからも生きていく。
「どうなってんだか、まったく。新しい家には煙突が一本もない!」
コルツが嘆く。
「学校も、なさそうだよ」
ウォルシュタインは分厚い本を大事そうに抱えたまま、座り込んでいた。
「大丈夫よ、みんな全部変わるから」
「もう変わっちまったよ!」
コルツがためいきをつく。オリビエがそっと近づいてくる。
「行くのね」
エリはオリビエの問いに自信をもって答える。
「行くわ」
「そう、気をつけて」
オリビエが心配そうにエリの手を握る。エリはその手を力強く握り返した。
「ええ、もう少し待っていてね」
ゆうぐれの街
川に抱かれ……
「アターシャ?」
姿は見えないが確かに彼女の歌が聞こえてくる。
ゆうぐれの街
川に抱かれ
さざめく人々の
声は絶えない
緑は燃え
風が歌う
ゆうぐれの街
おわりの街
明日を待つ
やわらかな希望
アターシャの歌う声に、街の人々の声が重なっていく。
「どうしたの? なぜみんなこの歌を知っているの?」
エリの戸惑いに、ウォルシュタインが答える。
「ヴェルディグリの唄、王がこの街のために作ったんだ。街の人なら、誰でも知っているよ」
言い終わると、ウォルシュタインも歌い出す。
月夜がくれば
星の歌を聴き
朝日がのぼれば
共に歌おう
やさしい風と
母なる川と
ぼくらを生かす
大地の上で
ゆうぐれの街
川に抱かれ
うつろう人々の
心をつつむ
緑は燃え
風が歌う
ゆうぐれの街
おわりの街
明日を待つ
やわらかな希望……
歌は止まない。アターシャの声が消えてしまっても、人々はその歌を歌い続けていた。街に残った人々の歌声を背に、エリとクローバーは駆けだした。
白と青灰色の石が敷かれた立派な大通りを城へと駆ける。街の中にいた蒼黒い影たちが『出ていけ!』とでも言うように、二人に襲い掛かってくる。どの影にも、顔はない。
いくらも進まないうちに二人は影に囲まれてしまった。影はその深みに二人を引きずり込もうと試みた。それを救ったのは、灰色の騎士だった。
蹄の音と共に、一閃、二閃と光が弧を描く。騎士が影を切り払ったのだ。
「ソル! 来てくれたんだ!」
「早く乗れ」
黒毛の馬に跨ったソルが言う。長いマントが翻る。
馬上に二人を引き上げると、ソルは鞭を振るった。影を踏みつぶしながら馬は城へと向かう。
「ありがとう」
「しゃべるな、舌を噛むぞ」
ソルの瞳はまっすぐ城を向いている。
「王を救ってくれ、新しい王は苦しそうだ。彼女は、ためいきに満ちている」
騎士はそれきり、何も言わなかった。
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