第8話 盲目の音楽家

 エリは再び、大通りを歩いていた。音楽家を探しながら。

 直感だった。だがおそらく、彼はまだ、ここにいる。盲目の音楽家スドルフスキは、きっとこの街にいる。エリは半ば願うように広場へ向かう。

 マリとふたりで聞いた父のお話には、歌や音楽が欠かせなかった。王宮で、広場で、街のいたるところで音楽は絶えないはずだった。今は風の音しか聞こえないこの街に、もし彼がいるならば、彼は弦を震わせ、音楽を奏で続けているだろう。

『スドルフスキは盲目の音楽家。だけど、彼の奏でる音色は何よりも澄んで美しく、街の四季を描き出しました……』

 父が嬉しそうに語っていた。音楽家の話。

『彼がやってきたのは、彼がまだサーカス団付きの楽師だったころ。彼は王に請われて街に残り、音楽を奏で続けることになりました。春の広場に若者の夢を奏で、夏は川辺で、過ぎし日の恋を。秋には実りの喜びを、冬には……』

「なぐさめといたわりの歌を」

 広場についても、そこには風があるだけで、誰一人いない。エリは情報屋を振り返った。

「スドルフスキは出て行ってしまったの?」

「いいや、彼はまだ街にいる」

「そう」

「会いに行くかい?」

「ううん、だいじょうぶ」

 エリは首をふる。スドルフスキの後を追って、彼にすがることはルール違反だと、エリは知っている。

「彼の音楽はいつだって、本当に必要なときに奏でられる。王がそう言っていたわ」

「ぼくはそれを知らないな」

「そうね、きっとあなたは知らない。知っているのはわたしたちだけ」

 王と、双子だけ。

「ねぇ、情報屋さん」

 エリは噴水の縁に腰掛けた。本来水があるところに溜まった風の中に手を入れる。指に誰かの想い出がまとわりつく。

「あなたの幸せってなに?」

「ぼくの?」

「そう。ためいきが消えるためには、その人が幸せになるしかないでしょう? だからあたし、どうしたらその人が幸せになれるのかを知りたいの」

「ぼくは」

 情報屋は自身のやわらかそうな蜂蜜色の髪をなでた。

「わからない、はナシよ。ちゃんと考えて、思い描いて答えてね」

 エリが釘をさすと少年は困っているようだった。

「想像するの、そうよ、あたしも。思い描く。どうすればいいか、どうしたいのか」

 エリが目を閉じる。

 誰かのためいきを消せば。

 情報屋は言い、アターシャは歌う。

 誰か、ではなくみんなのためいきを消すことはできないのだろうか。この街がどうなればエリや、父や、街の人々は幸せになれるのだろう。

「不思議だわ、あたし、そのことを想像してみるだけで、少し幸せになれるみたい。あんなに悲しいことがあったのに、それが少し、薄れるみたい」

 『わたしのせかい』が輝くのをエリは感じていた。無くしたくない、奪われたくない、傷つけられたくない『わたしのせかい』。その世界が誰かを思うことで広がり、輝いていくような気がする。

 みんなが幸せになるにはどうしたらいいの。

 エリはもう一度、自身に問かける。

 街を出た王は帰らない。彼はたぶん、新しい『わたしのせかい』を見つけてしまったから。消え去らなかったことを思えば『街』はまだ、彼のなかで生きてはいるけれど、色あせてしまったのは真実だ。双子に話して聞かせる、遠い昔話になってしまったのだ。

 しん、と風の音が遠ざかる。

 エリは驚いて立ち上がる。情報屋はおらず、エリの隣には老人が腰掛けていた。大きな古いコントラバスを抱えている。老人はコントラバスに弓を当てた。

「ごらん、彼女が歌っている」


  ひくく ふかく

  ひびくわ ああ!

  きこえるの あの音

  うたうの あの日を

  きえてしまった街のこえ

  いまは鳴かない小鳥たち


  かすかに うつろに

  ひびくわ ねえ!

  きこえていたのよ

  あの日には

  彼のゆびから こぼれる光


  あのすばらしい

  すばらしいうた!

 

 一羽のヒバリが広場の上を旋回している。

「アターシャ」

「ほう、彼女を知っているのかい?」

「もちろん! あなたにも、きこえるのね?」

 ふふふ、と老人は笑った。豊かな髭が白い苔の塊みたいに動いた。

「きこえるとも」

 老人は手と指を動かし、コントラバスを奏で続ける。

 老人の奏でるコントラバスには弦がない。エリの耳に音は聞こえない。聞こえない音が心には、ひくく、ふかく、歌うように響いてくる。

「とても好きだわ、あなたの音楽」

「きこえるのかね、わしの奏でるこの音が」

 ほ、ほ、とスドルフスキが肩を揺らす。音の鳴らない楽器に指を滑らせ続ける。

「きこえるわ」

 エリは両耳に手を当ててみせた。風の音がどんなに大きくなっても、楽器は音を出さなくても、そのメロディは確かに響いている。

「悲しいけど、とても素敵よ」

「そうかい、それはよかった。王は去り、今じゃわしの音楽をきいてくれるのは、彼女だけさ」

「いいえ、きいてるわ。風もレンガも」

 エリは広場をぐるりと見回す。音楽家が現れたあと、街はほんの少しだけ息を吹き返しているようだった。

「みんな、あなたの音楽に合わせて歌っているもの」

 スドルフスキは身体を震わせて笑った。

『よく笑うのが彼の良いところさ』

 父が語ったのを思い出す。

「いつでもききに来るといい。わしはここにいよう」

「王はもどらないのに?」

「時は止まった。だが想い出はある」

「街を出て、新しい弦を張れば、他の人にも聞こえるわ」

「いいや、だめだね。ここでなきゃ」

 スドルフスキの指の動きが激しさを増す。

「大切なものを忘れて何になる。想い出を捨てれば、わしはただの、音出しかしましじいさんさ」

 自分で言って、スドルフスキはまた体を揺らした。

「スドルフスキ、ここはためいきばかりよ」

「ではそれを音楽にしよう」

 風は今、歌っていた。音のならない楽器と、盲目の音楽家と共に。

「あたし、いつか必ず、あなたを描くわ」

 エリは城に向かって歩き出す。


 彼女が来ている。いや、彼女も来た。

 そう風が知らせているのを聞いたから。

 街を包む音楽の中に、大きなためいきが混じるのを、聞いたから。

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