第7話 宿屋のオリビエ
情報屋に連れられてやってきたのは、橋の近くにある、レンガ造りの建物が多い一角だった。街の中心部の建物とは違い、このあたりの建物には漆喰が塗られていない。風ばかりの川も近く、建物の傷みも激しかった。
砂っぽい風の中に、色あせた看板がみえる。ベッドとワインの画が描かれた看板のかかるその建物が、情報屋のいう宿屋だった。宿屋の前に黒い塊がうずくまっていた。エリが近づくと、それは立ち上がった。
黒い簡素なドレスを纏い、黒のベールをつけた女性はエリを見ても驚かなかった。手には黒い薔薇の花を持っている。花は布でつくられていた。
「旅の方、かしら?」
しっとりとした美しい声で女性が聞く。
「ええ、そうなんです」
エリがゆっくりと答える。声だけではなく、女性はすべてが美しかった。ベールからのぞく栗色の髪の囲いの中には、大きな瞳と、整った鼻筋を持つ顔がある。幼い双子に、父はよく話したものだ。その人は昔の芸術家がこぞって描いた聖母のようにやわらかで、儚くて、美しいのだと。
「オリビエの宿屋は、ここですか?」
オリビエ、の言葉を聞いて本人はとても驚いたようだった。
「あ、ちがうんです。あやしい者じゃないんです。その、昔ある人に聞いたんです。この街には、あたたかな食事と、ベッドが用意された宿屋があるって。そこのローストチキンは夢みたいにおいしくて、スープを一口飲んだら、荒野を一日中歩きとおせるくらい元気になるんだ、って」
『美しい娘がいてね……』
父の語りの声がする。
『街の人も旅の者も、みんな彼女に夢中になるんだ。だけど残念。彼女はね、王に恋してる。いつだってその人を夢見ているのさ』
これは父がした話の一部だ。オリビエは街の話に繰り返し出てくる女性で、王やソルの冒険を見守る、重要な登場人物のひとりだった。
オリビエはスカートの裾を持ち上げて扉へ近づき、ゆっくりと、優雅にそれを開いた。
「どうぞ、たしかに私はオリビエで、ここは宿屋です」
オリビエに続いてエリも宿屋へ入る。入ってすぐの部屋に卓があり、そこには古びたというよりは、干からびた風情の台帳と羽ペンが置かれていた。
宿屋の受付であろう卓には寄らず、オリビエは奥へと進んでいく。ドアをひとつくぐると、居間と食堂を兼ねているらしい部屋に入る。暖炉のある部屋の隅には、手すり付きの階段があり、その上が旅人が泊まるための部屋なのだとわかった。
「どうぞおかけになって。もうずいぶんと長い間、どなたもお迎えしていませんから、あまり整っているとは言えませんけれど」
「いいえ、じゅうぶん素敵です」
エリはお世辞を言ったわけではない。部屋は木目を出した重厚な古い柱と、上品な柄の壁紙に彩られているし、暖炉も立派なものだった。埃っぽい風が吹くこの地にあって、部屋には埃がひとつも落ちていない。オリビエが整えているからにちがいなかった。
うながされるまま、分厚い布張りの椅子に腰かける。オリビエはテーブルの上に敷かれたクロスを真新しいものに変え、その上を薔薇の花が活けられた小瓶で飾った。
「薔薇は、つくりものなんですね」
エリが言う。花は、さきほど外でオリビエが持っていたものと同じ、布製の黒い薔薇だった。
「ごめんなさい、この街にはもう、生の花はないのよ」
オリビエが申し訳なさそうに肩をすくめた。
「いえ、そういう意味じゃなくて、素敵だなって。あの、この花はあなたが?」
「そうです。布でつくったものでも、ないよりは華やかだと思って」
「ほんとにそうですね、素敵です」
エリが力強く頷くと、オリビエはますます肩を小さくした。
「気をつかってくださってありがとう、もうひとつ申し訳ないのだけれど、ここには水も食べ物もありません。ですからご用意できるのは、テーブルと、ベッドだけなのよ」
「そうなんですか? じゃあ、あなたは何を食べているんですか」
「何も」
オリビエが困ったように微笑んだ。
「何も食べません。お腹も空かないしね。王が去った後は、街の者はみんなそうだと思います。水が絶え、風が吹き、緑も育たなくなりました」
そう言ったオリビエの目が、壁に飾られた一枚の画に向けられる。画に描かれているのは街。美しく弧を描き、青緑色の水をたたえる川と、双子の塔が守る橋。
花や緑に彩られた、美しいかつての街並み。
「王が去った時、この街の命は絶えたのです。そんな街に残る私たちは……」
オリビエの長いまつげが揺れた。
「王の想い出の、残骸のようなものなのかもしれませんわ」
沈黙が続いた。
テーブルの上で、エリは自分の両手をぎゅっと合わせた。画に描かれた街を知る、オリビエや街の人々の嘆きは、エリが思うよりもずっと深いものである気がしてきたからだ。
美しい街、愛する王、それらを失ったあとも街を離れることのできない人々。人々のためいきばかりが、残された街。
やがて立ち上がったのはオリビエだった。
「ベッドの準備をしてきます。何もありませんが、宿の中は自由にご覧になってくださいね」
オリビエは奥の部屋へと姿を消す。シーツを手に取って再び現れると二階の一室へ入っていく。エリはその様子を険しい顔で見つめていた。
「あなたたちは、想い出の残骸なの?」
「わからない」
エリの言葉に情報屋が答える。
少年はオリビエが去ると同時に現れ、エリの向かい側の椅子に腰かけていた。
「あたしは、そうは思いたくない」
情報屋は答えない。
「この街に想い出しか残っていないというのなら、どうしてあたしはここへ来たの? 王が決めたっていうけれど、それだけでパパの想い出に引き込まれてしまうほど、あたしは昔のパパを知らないもの」
お話としてきいた街のことは知っている。でもお話にはなっていなかった街のこと、街にいたころの父のことは想像もつかない。父の『わたしのせかい』をエリは何も知らない。
マリの『わたしのせかい』をエリが知らないように、エリの『わたしのせかい』をマリが傷つけていったように、人には誰しも、その人だけが持つ『わたしのせかい』がある。誰にも渡すことのできない『たからもの』を持っている。
なぜ父が街を出たのか、エリには推測しかできなかった。おそらく、母と出会ったことで、父の世界に変化が起きたのだ。この街の王ではいられない理由ができたのだ。
恋と乙女に魅せられて、父の『わたしのせかい』は変わってしまったのだ。
「あたしにも、そんな時が来るのかな」
エリは机に突っ伏した。恐怖と嫌悪がごちゃまぜになった、憂鬱な感情が、腹の底から湧き上がってくる。
嫌だ、パパはおかしい、変だ、あたしには耐えられない。
そんなのは嫌だ!
『わたしのせかい』を奪わないで!
「あたしにもいつか、あたしが、あたしじゃなくなっちゃう時がくるのかな」
階段を降りてくる足音がする。オリビエが現れると情報屋は消えた。ついさきほどまで情報屋が座っていた椅子に、オリビエが腰掛ける。
「大丈夫? ずいぶんとお疲れね」
やさしく、オリビエが語りかける。
「準備はできましたから、いつでもお休みになって」
細い指が机に突っ伏したままのエリの髪をすく。エリはゆっくりと顔をあげ、オリビエの瞳をみつめた。
「どうして街を出ないんですか?」
エリが聞くと、オリビエの視線は宙を舞った。火のない暖炉にできた闇に、その視線が留まる。
「どうして、かしらね」
「出て行った人もいるんでしょう?」
「そうね」
長い沈黙があった。
「この街の話をしましょう」
唐突にオリビエが言う。エリを見つめ返した瞳は、もう彷徨ってはいなかった。
「王がいたころの、この街の話。私の恋、私の人生、私のすべて。そうすればきっと、あなたにもわかるわ。私がこの街に留まる理由が」
少し寂しそうに微笑みながら、オリビエは話し出した。
街の人々の話、王宮で起きた微笑ましいトラブル。燃える緑、歌うヒバリ、川をゆく舟、街を訪ねてくる、橋の向こうの世界の人々の話。オリビエの口から語られるそれらの話は、どれも絵画のように整っていて美しかった。
きっとこの街は、父が思い描いた理想の街だったのだ。
オリビエは王が出て行った時のことを話さなかった。物語の終わりはいつまでも語られない。エリがオリビエの気持ちを知るには充分だった。
想い出の残骸になりたいのだ、彼女は。
王の記憶の中で朽ち果ててゆく街と共に、どこまでも在り続けるつもりなのだ。
エリは目を閉じてその声に耳をすました。アターシャの歌とは違う、鮮やかな色の街が瞼の裏に浮かび上がる。オリビエの話は続いた。
どのくらい話をしていただろう。オリビエはふと話をやめて二階を見上げた。
「ずいぶんと長い間お話してしまったわね、もうお休みにならないと」
「いいえ、もう、いいんです」
エリは首をふった。とても眠れる気分ではなかった。今すぐにも走り出して、この街の誰かを、ためいきを見つけなければならない気がしていた。過ぎし日の街を知る人々の肩を抱いて、その話に耳を傾けたい。
「そう、残念ね」
頬に指を当てたオリビエが言う。
「あの、オリビエさん」
エリはオリビエに伝えなければならないことを思い出した。
「この街にはもう、緑はないと言ってましたよね? そんなことありません、あるんです。みんな知らないだけで」
まぁ、とオリビエが驚く。
「双子の塔の上に、一面のシロツメクサが咲いてるんです。クローバーがあるんです。この街にはまだ」
まだ、何かあるのだ。
自分の言葉で、エリの心に光が灯る。
言いたいことの続きは言葉にはならなかった。オリビエが立ち上がり、エリをうながす。
「さあ、行くと決めたのならば、行かなければ」
オリビエは戸口までエリを見送ってくれた。
外の風が宿屋に吹き込む、風にのって歌が聞こえる。
だれもこないわ
旅人もいない
とどまる理由は ないのだもの
ためいきばかりの
この街に
風が吹き
時のいとなみさえけずりとる
なにもかもを奪い去ったら
やがて消えてなくなるわ
みおくりましょう
その日まで
愛さえきえゆく
その日まで
アターシャの歌が風に消えていく。エリがオリビエに問う。
「ここで、王を待っているわけじゃないんでしょう?」
「ええ、待ってはいないわ。あの人はもう、帰らない」
きっぱりとオリビエが言った。
「それなら」
「見送るわ、エリ。決してここにはもどらないで、あなたの道を行きなさい」
オリビエは華奢な手で、エリの頬を包み込んだ。
「旅を続けて、よい旅を。あなたがゆくべき方向へ、あの人があの日、そうしたように。わたしは迎え、送るだけよ。疲れた人を癒して、送り出すことがわたしの望み」
エリはオリビエを抱きしめた。風はふたりを吹き過ぎて、どこかへと消えていく。
「わたしのために、ためいきをつくのはやめてね。あなたがここを出て、あなたの世界を描くなら、きっとわたし、ここにいても幸せよ」
美しい人は、エリの耳元でそっと『あい』を語る。それがオリビエの『わたしのせかい』なのだと知って、エリはその愛を、力いっぱい抱きしめた。
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