第6話 静かな学び舎

  風をきこう

  風のはなしを


  黒板をうめよう

  まっしろな文字で

  先生はいない

  ぼくはひとりぼっち

  先生はいらない

  ぼくはひとりでよくわかる


  風をきこう

  昔のはなしを


  勉強するなら

  昔のことがいちばんだって

  言ってたんだよ あのひとが

  とおい昔に いたひとが

 

 アターシャを追ってついたのは、家々よりは大きな、飾り気のない建物だった。門をくぐると廊下があり、扉のない四角い建物が三つ並んでいる。情報屋はここを『学校』だと教えてくれた。

 エリが進んでいくと、一番奥の部屋から幼い声が聞こえてきた。

「そして、街には大きな広場が設けられた。毎年春になると、広場の噴水を囲んで娘たちが踊りだす……」

 足音をたてずに部屋へと入る。

 部屋には木で造られた長机が八つ、等間隔に並べられていた。机の前には背もたれのない椅子が三つずつ置かれている。幼い少年はエリに背を向けたまま、黒板に文字を書き続ける。黒い板を、見たことのない形の白い文字が埋めていく。

「春にこの祭りを行うのは、秋の収穫を願うため。王が、その座についた年からはじまった。この祭りは過去十四回、王が街を去るまで続いた」

「そうなんだ」

 一番前の席に座っていたエリが言うと、少年はやっと振り向いた。黒い髪を行儀よく撫でつけ、よく糊のきいたシャツと、膝丈のズボンを履いている。サスペンダーは古めかしいデザインのもので、古風な顔立ちの少年によく似あっていた。

 少年はしばし、エリを睨みつけた。右手には白のチョークを、左手には分厚い本を握っている。

「君は開拓者だな」

 少年が言ったので、エリは驚いた。

「そうよ! なぜわかったの?」

「わかるさ。王の命令で編纂された、ヴェルディグリの書の五冊目に書かれているからね。『王の不在に、街に危機が訪れた時は、他の国より開拓者が現れ、街を救うことになるだろう』ってさ。これは王が決めたことさ。ヴェルディグリ、すなわち街の書をつくったのは彼なんだから」

「その本、どこにあるの」

 エリは立ち上がって身を乗り出した。街について書かれた本があるのなら、読んでみたい。

「ないよ」

「え?」

「王が持ち去ったから」

「どうして!」

「街に帰る気がなかったからだろ」

 素っ気なく言って少年は黒板に向き直った。再び文字を書き始める。エリは強張った、小さな背中に話しかける。

「あたしはエリ、あなたは?」

「ぼくはウォルシュタイン」

 ウォルシュタインは背を向けたまま答えた。その間も、黒板には真っ白な文字が増えていく。

「先生やほかの生徒はいないの?」

「みんな街を出ていった。残ったのはぼくだけさ」

「どうして残ったの?」

 カタン、と音を立ててウォルシュタインはチョークを置く。大人がするように、教卓に本を叩きつける。大きな音がして、エリは目をぎゅっとつむった。

「ぼくは勉強をしているんだ、邪魔をしないでくれないか!」

「ごめんさない」

 エリが謝るとウォルシュタインは再び本を手に取り、ぱらぱらとページをめくる。そのこと以外に興味を割く時間はないのだと、エリに向けられた彼の背中が語る。

 寂しい、と背中が言う。もちろんウォルシュタインは口にしないが、エリには聞こえてしまった。勉強することで、寂しさを忘れようとしている少年のためいきが。

「あなた、とっても物知りなのね」

 エリが言う。ウォルシュタインはエリに背を向け、黒板を相手にしながら答えた。

「勉強しているからね」

「ずっと勉強しているの?」

「勉強は続けないと、忘れてしまうからね」

「これからどうするの」

「どうするって、何が」

「勉強してどうするの」

「君は馬鹿だな。どうかするために勉強なんてしないよ」

 邪魔になる、と言いながら、エリの質問を無視したりはしない。少年のためいきを消すためには、どうすればいいのだろうか。エリは考える。

「そういうものかな」

「そうだよ、君は何も知らないな」

「あたしには、そうは思えないな」

 エリは痛みの激しい木製の長机を、指でなぞった。この机を使って、何人の生徒が勉強をしたのだろう。王がいたころ、街に黄色い風が吹く前、生徒たちは何を夢見ていたのだろう。

「あたしには君が、勉強をするためだけに、勉強をしているようには思えないな。きっと、君には描きたい何かがあって、勉強をしているんじゃないかな。描きたい、はあたしの言葉だけど。そう、君には何か思い描く未来みたいなものがあって、それを実現するために勉強しいてるんじゃないかな。だって、あたしなら、自分の好きなことや、勉強したことで、誰かが幸せになってくれたら嬉しいもの。きっと君も……」

「……嫌いだ」

 吐き捨てるようにウォルシュタインが言う。チョークを握る手は止まっている。

「ぼく、君が嫌いだ」

「そんな」

「出て行け開拓者!」

 振り返ったウォルシュタインが、エリに本を投げつけた。

「出て行けよ! 王みたいに! ぼくらのために何かをしようなんて思うんじゃない。誰かが幸せになってほしいなんて、簡単に言わないでくれ! いつかはきっと、忘れるくせに。ぼくらをおいて行くくせに」

 噛み締められたウォルシュタインの唇は震えていた。エリは静かに席を離れた。幼い少年にかける言葉を探した。言葉は、見つからなかった。

 エリが教室の出口につくまで、ウォルシュタインはエリの背中を睨みつけていた。今にも泣きそうな顔で。

 後ろ髪を引かれる思いで、エリは教室を後にした。もっと、何か言えることがあったかもしれないのに。そう思うと、ためいきをつかずにはいられない。

 ウォルシュタインのあの寂し気な背中は、少しだけマリに似ていた。いつも勝ち気で明るいマリが、時々見せる怒りとも悲しみとも取れない感情。自分自身の中にないがために、見逃してきた、本当のマリの気持ち。

 もしマリが、エリに『おいて行かれた』と感じていたら? 

 エリにそのつもりがなくても、ふたりを取り巻く人々の中で、マリ自身がそう感じていたとしたら?

 その悲しみが、ウォルシュタインのように怒りとして現れたとしたら?


 エリが学校を後にして道へ出ると、情報屋が現れた。

「彼は何を夢見ているのかな。どうして街に残ったんだろう」

「理由をぼくは知らないけれど、ウォルシュタインには約束がある」

「何の約束?」

「王との約束。彼が大人になった時には、王と共に、この街を守るという約束」

 情報屋の言葉が終わる前に、エリは踵を返して駆け出した。廊下をぬけ、ウォルシュタインのいる教室に駆け込む。

 少年がなぜこの街に残ったのか、今も勉強を続けているのか。そのことを思うと、エリの胸は張り裂けそうに痛んだ。

 たった独り、今はいない人と、もう来ないはずの未来の約束のために勉強を続けている、孤独。

「何しにきたんだ! 出て行けって言っただろ!」

 エリの姿をみたウォルシュタインが眉間に皺を寄せる。

「忘れないわ!」

 エリは精一杯の気持ちを込めて叫ぶ。

「あたしは忘れたりしない。あなたが今もこの街にいることを、守りたい約束があることを、この教室で、ずっと勉強してることを!」

「何を言っているんだ?」

 ウォルシュタインが怪訝な顔をする。

「きっと幸せにするから」

「だから何を言っているんだ君は!」

「あなたも忘れないで」

 ウォルシュタインの肩が強張る。

「あたしたちの出会いを忘れないで。王はいなくても、街は風に削られても、あたしがウォルシュタインのことを想ってるって、あなたも忘れないでいて」

 精一杯の言葉がウォルシュタインに届いたのかどうか、エリにはわからなかった。沈黙が続く中、これ以上かける言葉がなくて、肩を落としたまま出口へと向かう。廊下へ出たエリの背中に、ウォルシュタインは言った。

「忘れないさ」

 エリが振り向くと、ウォルシュタインは黒板に向かってチョークを走らせていた。

「ぼくらの出会いは、勉強じゃないもの」

 エリはそのまま学校を出た。もうふたりの間に言葉は必要ないように思えた。情報屋が現れる。

 エリは疲れていた。

「休めるところを知らない? あたし、少し疲れたの」

「こっちに宿屋がある」

 歩き出した情報屋についていく。

 ウォルシュタインの背中にマリの背中が重なる。

 マリを思うエリの胸が、痛んだ。

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