第5話 情報屋の知らないもの

 コルツと別れたエリは街を歩いた。狭い小道を当てもなく縫い歩いていく。気持ちの整理が必要だった。まだ見ぬ街の住人を、見つけなければならない。そこにはためいきがあり、誰かの世界を削り取る強く乾いた風が吹いている。

 灰色の騎士ソル、宿屋の娘オリビエ、盲目の音楽家スドルフスキ。エリが父から聞いた話はいくつかあるが、その中にコルツの名前はなかった。

「まだお話にしてなかったのかも」

 独りつぶやく。父の中に生まれた『街』という世界。その中にはまだ形にならない、明るい霧のようなぼんやりとした物語が、たくさんあったのかもしれない。エリは想像する。

 ここには、双子の知らない父が確かにいる。


 14年前の新緑のころ、エリとマリは生まれてきた。エリのほうが少しだけ早く世界を観た。ふたりは女の子で、同じ顔をしていた。

 エリの想い出の中にあるのは、柔らかな光の中にある穏やかな時間ばかりだった。ふたりで過ごした毛布の上のことや、雷を怖がって肩を寄せ合っていた夏の夕暮れのこと。畳の上に並べた色鉛筆でお絵かきをして、そのまま眠ってしまったこと。ふたりは、お互いのそばをはなれずに過ごしていた。ほかの誰といるよりも、マリとふたりでいるほうが心地よかった。

 小さなころのエリが独りの世界に沈むのは、絵筆をとるときだけだった。描き疲れて顔を上げると、マリもやはり顔をあげ、できた絵をふたりで父に見せにいった。

 中学生になって、クラスも離れ、ふたりには別々の友人も出来たけれど、美術室に入ればキャンバスを並べて画を描いた。エリはマリが自分自身の一部のように思って暮らしていた。


 夏休みの間、ふたりは美術室ではなく、自宅で画を描いた。マリが誘ったからだった。

「いつもと違う環境で描いたら、もっといい画が描けるかも。ね、エリもそうしようよ」

 マリの誘いをエリは拒まなかった。嬉しくさえ、思った。

 古い木造家屋の一室で、畳の上にキャンバスをたてて、絵の具の匂いにまみれながら、ふたりきりで過ごす時間はエリにとっては心地の良いものだった。「たしかに、いい画が描けそうだよ」なんて言いながら飲んだ、ミルクティーの冷たい甘さが喉を走る。

 あの時、エリには何の疑いもなかった。

 マリが何かを企んでいるなんて、思いもしなかった。

 夏休みの終わり近く、ふたりの画が出来上がったころ、マリがいつもと変わらぬ調子で言った。

「今日学校寄るし、エリの画もついでに出してきてあげるよ」

 コンクールに出品する絵の提出期限は、夏休みの末日だった。エリはその提案に乗った。

「タイトル教えて」

 マリはエリの告げた画のタイトルをメモにとり、二枚のキャンバスを抱えて学校へ行った。その日、手の空いたエリはひとりで映画を観に行った。マリが「そんなこどもっぽいのは卒業しなよ」と笑った、アニメーション映画だった。

 エリがその、こどもっぽい映画を観ている間にマリは学校へ行き、出品表に作品名と名前を記入してキャンバスに貼り付けて提出したのだ。

 マリのキャンバスにはエリの名前が、エリのキャンバスにはマリの名前が貼られた状態で。


 涙が零れないようにすると、自然空を見上げることになる。空には何もない。太陽は沈み、月は昇らない街なのだ。夕焼けの残光に染められた赤い空を黄色い風が覆っている。

 エリがひとり涙を堪えている間、情報屋はただそばにいた。理由を尋ねもしない。ただそこにいることだけが、自分の役割だとでもいうように、そっと、静かにそばにいる。

 彼は訊ねられない限り答えない。彼は言葉を紡がない。彼は嘘をつかない。彼は風に吹かれるまま。彼は、ただ、開拓者であるエリを見守っている……。

「ちがうな、あなたはためいきに満ちた、この街を見守っている。そうよね?」

 エリが問うと、情報屋が何度か瞬きをする。

 彼は知らない、彼自身を。

「あなたの力が必要なの」

 エリが手を差し出すと、情報屋が不思議そうな顔をする。

「こういうときはね、あなたも手を出して、いっしょに握り合うの、握手っていうのよ」

 ためらいがちに差し出された情報屋の手を握る。エリがぎゅっと力をこめると、情報屋もそっと、握り返した。情報屋の手は雨上がりの土のようにしっとりとして、冷たかった。

「ありがとう。あたし、がんばってみるね。最初は戸惑ったけど、コルツに出会って決めたの。この街のためいきを消してみよう、って。できるかはわからないけど」

 今度こそ、情報屋は表情を和らげた。街の行く末に、彼はその心を痛めている。知っているだけで、何をしていいのかわからない故に。

 純粋さが彼の色だ。エリの瞳に、情報屋が映る。彼はこの風ばかりの街に灯る、一点の光。

「ねぇ、そういえばあたし、あなたの名前を知らないわ」

「ぼくは」

 情報の声が沈む。

「ぼくの名前を知らないんだ」

「そう、名前すら知らないのね。パパは、王様は、あなたに名前をつけなかったのかしら」

「王はぼくを知らない」

 風が音をたてて吹き過ぎていく。

「街の人も」

「知っているのはあたしと……アターシャだけ?」

 こくり、と情報屋がうなずく。

「なるほど、それで他の人の前では、姿を消してしまうのね」

 エリのつぶやきを掻き消すように、歌がきこえる。

 ほどなくして、彼女は姿を現した。

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