第4話 煙突掃除夫
エリは大通りを歩いていた。誰もいない街に自らの足音だけがする。情報屋は常にそばにはいても、気配がない。エリも彼の存在の不思議さに慣れてきていた。
「さっきの話だと、この街にはまだ人がいるのね? ソルみたいに残っている人が」
うしろをついてくる情報屋に確認する。
「いるよ、少なくはなったけれど、橋を渡らずにこの街に留まっている者はいる」
「誰かに会いたいわ」
「それなら」
情報屋はエリの前へ出て、空を指差した。
「あそこに、一人」
視線を上げ、情報屋の指差す先を見つめる。
「煙?」
路地の奥、家々の合間から一筋の煙が上がっていた。エリは迷わず、そちらへ足を向ける。ほぼ同時に、歌がきこえる。
みんなよごれるわ
生きてるかぎり……
「アターシャ」
少女は屋根の上を軽々と渡って、煙が上がるほうへ進んでいく。エリは小走りになってアターシャを追いかけた。
みんなよごれるわ
生きてるかぎり
よごれていいのよ
お掃除してくれるから
暖炉に薪をくべましょう
煙でみんなまっくろにして
かれに仕事をあげましょう
あの子はえんとつそうじふ
かれは好きなのこの街が
煤によごれたものたちが
どんなよごれも消してくれるわ
ためいきだけは消せないけれど
ためいきだけは消えないけれど……
歌い終えたアターシャは、前触れもなく姿を消す。エリがたどり着いたのは、一軒の古びた家の前だった。
街の家々は木とレンガで造らていた。レンガには白い漆喰が塗られている。その漆喰も今では剥がれおちて、レンガがあちこちでむき出しになっていた。どの家も造りは同じにしてあるらしく、もし風がこの街を荒らす前であれば、美しく整った街並みを観ることができただろう。
エリがたどり着いた家の窓には厚いカーテンが引かれていた。軒に出されたプランターには乾いた土があるばかりだ。エリはためらいがちに扉をノックした。返事はない。次にそっと押してみた。木の扉は難なく開いた。静かに、中へ入る。
「あたたかい……」
「なんてこった、お客様か?」
街に不釣り合いな明るい声がした。
「なんだなんだ! ノックなんて信じられないと思ってたら、本当に誰かが来るなんて! しかも」
少年はエリを上から下までまじまじと眺めたあと、満面の笑みを浮かべた。
「変わった格好の、かわいい女の子だ!」
変わった格好、と言われたエリは、自分の着ているものをそっと押えた。学校帰りなのでもちろん制服を着ている。紺色のセーラー服だ。たしかにこの街には似つかわしくないかもしれない。
少年のほうはひどく汚れた薄いシャツの上に、つなぎのズボンをはいていた。枯葉色の髪はきつい巻き毛で、肩まで伸びた髪を首の後ろで束ねている。爪の汚れた手で、先端にブラシのついた長い棒を持ち、ズボンのポケットからは、真っ黒に汚れたタオルをのぞかせていた。
「あの、あたし」
エリはまごつきながら、情報屋に助けを求めようと振り返った。だが情報屋はいない。どうも彼はエリと二人きりの時にしか姿を現さないらしい。
「君はどこから来たんだ? と、まぁ、ともかくこっちへ来いよ! 座ろう」
大きく口を開けて笑う少年につられ、エリも笑顔になる。煤だらけの顔に白い歯が浮かぶのが愛らしかった。エリは少年に勧められるまま、家の奥へと進んだ。
案内された部屋には暖炉があり、脇には薪が積まれていた。暖炉の前にあるソファに、促されるままに座る。
「俺はコルツ。この街の煙突掃除夫さ」
「あたしは、エリ」
「エリ! いい名前だ」
「どうも、ありがと」
これまで出会ってきた街の住人とは全く違うコルツの反応に、少し戸惑う。わかりやすく、好意的。おとぎ話めいたところが無いごく普通の少年だ。
「あの、あなたも座ったら」
にこにこ笑いながら、立ったままでいるコルツをエリが促す。
「ダメだよ。煤で汚れっちまうだろ。おれが掃除すんのは煙突だけさ」
コルツが自分のズボンをつまんで見せる。
「そうね、確かに家を汚すと、後であなたが大変だものね」
「そうさ。とはいっても、この家の持ち主は俺じゃないけどね」
「え?」
エリは思わず聞き返した。
「ここは誰かさんの家さ」
「ああ、頼まれたお客さんの家なのね? よかったのかしらあたし、お邪魔してしまって」
「いいよ。もう誰も住んでいないもの」
「誰も住んでいない、誰かの家?」
「そうさ!」
さも当然とばかりに笑っているコルツを見て、エリの頭の中が余計に混乱する。
「その誰かさんが帰ってくるまで、家を預かってるってこと?」
「違うね」
コルツは薪を一本掴むと、火が燃える暖炉の中に放り込んだ。
「この家の主人を俺は知らないし、そいつはもう、帰ってこない。それでも俺は薪をくべて、煙突を汚すんだ」
「掃除を、するために?」
「そういうこと」
ふふふ、とコルツは嬉しそうに笑った。エリは、笑い返すことができなかった。
「王が街にいたころには、街中の煙突から煙が上がってさ、おれは毎日、あっちへこっちへひっぱりだこの大忙しだった。今は誰にも頼まれないから、こうして自分で汚して、自分で掃除する。この家が終わったら右隣の家、その家も終わればさらに右隣、って具合さ」
「どうして、そんなことを」
「俺が煙突掃除夫だからさ!」
胸を張るコルツを見つめながら、エリは心の中で自問する。
それがあなたの幸せ?
ひどく無駄なこと。なんの役にも立たないこと。
きっと、自分以外の人にとっては、必要のないこと。
頭の中に浮かんでくる問に反して、エリはコルツの行動に愛しさを感じていた。暖炉に薪をくべずにはいられないコルツの気持ちがわかる気がした。その気持ちは、エリの『わたしのせかい』にも満ちているものだったから。
「それが、あなたの世界、なのね……」
ほっと、ひとつ息を吐いてエリはコルツの汚れた右手を取った。真っ黒になった手はまだ、少年らしい柔らかさを残していた。コルツの目が大きくなる。
健気な少年のためいきを、どうすれば消してやることができるのだろう。エリは考える。消してあげられるものならばそうしたいと、心から思えた。
「あたし、絵を描くのが好きだったの。描いてればそれで、幸せ。あなたが煙突を掃除して、幸せなように」
エリの言葉を、コルツはまじめな顔で受け取った。それからほんの少しだけ、視線を落とした。
「幸せ、っていうのかな?」
「ちがうの?」
「わからない、幸せなのかも。だけど俺は……」
コルツは言いよどんだ。くるりと巻いた髪の毛が一筋、額にかかる。
「ためいきをついてしまう?」
「ああ」
はぁ、とコルツの口からためいきが出た。暖炉の中で薪が一本爆ぜ、崩れる。
「薪をくべなきゃ火は消えちまう。王がいたころは誰かが薪をくべてくれたのに、今は……」
「誰もいないのね」
ぱちぱちと火の燃える音がする。王が去るまでは街中で聞こえた音が今は聞こえない。エリはうつむくコルツの顔を覗き込んだ。ぱっと笑顔になってコルツは顔をあげる。
「でもいいんだ、自分でやればできることさ」
「ねぇコルツ」
「なんだい?」
「あなたはどうしたい? どうすれば幸せになれると思う? 何をしたらためいきが消えるのかしら?」
「どうすれば幸せになれるかだって? 変なことを聞くね」
「そうかな。でも、あなたのこと、あたしは知らないから」
ちくり、とエリの胸が痛む。
知らないから、わからないから、教えてほしい。
同じことをマリにも聞くことができるだろうか。
「そうだな。そう、王がいたころは、街中の煙突から煙があがって、たくさんの人が生活していることがわかって、それで……。それで俺は、煙突の下ではみんな、きっと幸せに暮らしてるんだろうな、なんて思ってたっけな」
「そう思うと、幸せになれたのね?」
「そう、かもな」
わかんねぇや、とコルツは困ったように頭をかく。エリはコルツの手を強く握り、そして放した。
その手の温もりをきっと忘れはしない。温もりは、コルツの『わたしのせかい』の欠片だから。
「大丈夫よ」
エリは立ち上がり、薪を一本手にとった。燃える炎の中に乾いた薪を放り込む。はずみで炎は二つに割れる。割れた炎はすぐに合わさり、くべられた薪を包みこんだ。
「火を絶やさないで、コルツ。あなた自身で、くべ続けて」
炎の揺らめきが、エリの瞳に映りこむ。
なんでそんなことをしなくちゃいけないの、という気持ちは、くべた薪といっしょに燃えてなくなっていくだろう。
なぜ、なんて理屈は画にはならない。コルツを通して『わたしのせかい』の欠片に触れたエリは、その気持ちを思い出した。
わからなくてもいい。理屈は通らなくてもいい。何をしたいのか、どうしたいのか、何を描けばいいのか、すべての答えは言葉にならないものだ。そこにある、ものだから。
「今に、忙しくて倒れそうになるわ。あなたの言葉が、あたしの暖炉に薪をくべたから」
「君は何者だい?」
戸惑うコルツに、エリは大きく口を開けて笑って見せた。目の前の少年が、そうやって他所者を迎えてくれたように。
「あたしは開拓者。この街を変える者」
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