第3話 灰色の騎士
風と遊ぶ鳥のように、アターシャは進んでいく。栗色の髪を二つに分けて結び、くすんではいるが、とりどりの赤をつぎはぎにしてつくった、膝丈のスカートのドレスを着ている。
ドレスの裾をひるがえし、踊るように歩きながら、アターシャは歌い続ける。
エリは大通りを駆けていた。街に人の姿は見えない。
店の扉は釘で打たれ、窓には厚いカーテンがひかれている。花や木は枯れ、物は朽ち、街の時間は止まっているようだ。広場の噴水からは濁った風が吹き出し、街の建物のほとんどに使われている黄土色のレンガは、刻一刻と削られていく。
城が見えてくる、とアターシャは足を止め、こちらを振り返った。大きな嘴をもつ鳥の仮面が、顔の半分を覆っている。舞台に上がったピエロのように大仰な仕草で、アターシャは城を指し示した。跳ね橋が下がったままになっている城に、入れと言っているようだ。深くお辞儀をしたあと、消える。
「どこへ行ったの?」
「彼女ならどこへだって行くさ」
当たり前のように言った情報屋の後ろへと、歌が去っていく。
王はいないの
恋のために
あの日に捨てたの
おもい足かせをえらんで
陽がしずんでも
月夜はこない
人々はでていき
王はもどらない
どこまでいってもいないのよ
なにを望んでもむなしいわ
彼の王はでていった
恋と乙女にみせられて
のこされたのはためいきばかり
のこされたのはためいきばかり……
古い木製の跳ね橋の向こうには城門があった。やはり木製の大きな門扉は、風に壊されて斜めに傾いでいる。城壁は街の建物と同じ黄土色のレンガでつくられていた。
どれだけの風が吹いたのだろう。エリは考える。
川も噴水も今は風に支配され、大通りにも、今こうして立ち尽くすエリの身にも、風は吹き続けている。
目に映る街には、ところどころに黄土色の風の溜まりがあり、その場所には、何かが存在しているのかどうかもわからない。キャンバスにのせられた油絵の具が、ナイフで削り取られた後のようだ。
風に乱される髪をおさえながら、エリは橋を渡った。言い表せない衝動に心が揺れる。
風はいつから吹いているのだろう。
この街は、なぜこんな風になってしまったのだろう。
城は小さかった。エリが通っている学校のほうが大きいだろう。建物は左右対称に建てられており、中庭を中心に、二階建ての回廊がロの字型に設けられている。
中庭の木々は枯れていた。小さな噴水は、やはり水ではなく風を吹き出している。長い間放置されて、誰かを支えることなど忘れてしまったらしい長椅子がふたつ、庭木のそばに転がっていた。
回廊を歩む者もいないのに、エリはこの城を知っている。思い出した、と言ったほうが正しい。はじめて入るこの城を、エリの心と記憶は懐かしんでいる。小さなころによく遊んだ、お気に入りの玩具を手にした時のように。
二階の回廊の手すりからは、色あせた布地が等間隔にぶらさがっていた。どの布にもクローバーとヒバリを図案にした模様が刺繍されている。
『小さな城には、たくさんの声があふれていました……』
懐かしい、語りの声。
「空にはヒバリが舞い、楽師の奏でる音楽に合わせて歌いました。争いはなく、陽の光は豊かで、風が運ぶ幸せを、街中の人が感じていました……」
エリの頭の中に、その声はありやかに蘇る。今でも口をついて出てくるほど、何度も何度も聞いたお話。
回廊にさざめく人々の笑い声、使うはずのない武器を腰に下げた男達。三角帽子をかぶった女官、こどもたちは、噴水での水浴びを許されていて、時々は王も共に足をひたし、冷たい水を跳ね上げた。
ここは、お話に聞いたあの街。
回廊の奥にまだ閉ざされたままの扉がある。エリはその扉の向こうに何があるのかを、もう思い出していた。
「パパの街、なのね」
ぐるりと回廊を見回す。情報屋は両手を背中で合わせて立ち、エリを見守っている。
「あそこは図書室でしょ」
「そうだよ」
エリが指さすほうを情報屋の視線が追う。
「あっちには台所」
「そう」
「噴水は、夕陽に染まるころ、ひときわ高く水を噴き上げるのよ」
「たしかに、そうだった」
情報屋が目を細めた。エリは両手を広げて、目を輝かせた。
「やっぱりここはパパの街よ! パパは若いころ、絵本作家を目指してたの。絵を描くことをやめてしまったあとも、お話だけは、あたしたちにきかせてくれたのよ!」
興奮したエリの声が回廊にこだました。懐かしさに胸を躍らせたあと、はたと、動きを止める。
「だけど、あなたのことはきいてないわ」
両手をおろし、じっと情報屋を見つめる。
「街に情報屋がいるなんて、聞いたことがないと思う。歌う女の子の話も」
風に髪を揺らしながら、情報屋は微笑んでいる。
「なぜなの?」
「ぼくにはわからない」
エリが予想した通りの答えが返ってくる。
双子には話していない、パパだけの街があるのかしら、とエリは考える。
そうだとしてもおかしくはない。エリが、自らのすべての想いを画にはできないように、父にもまだ、誰かには伝えることができない想いがあったのかもしれない。
「王の名前はセイジ、そうでしょ?」
「王に名前はないよ」
「じゃあ細身で、目が少し垂れていて、眼鏡をかけていたでしょ?」
「いいや、王は若く、たくましかった」
「……そう。パパの街だもの。パパのありたい姿であったとしても、おかしくはないよね」
エリは踵を返した。閉ざされたままの扉に手をかける。扉はくたびれた音をたてはしたが、来訪者を拒まなかった。
アーチ型の屋根を持つ王の間は、一枚の絵画だった。玉座には誰もいない。
壁一面に描かれた街の画。天井には青かったであろう、空。それらは窓を通して吹き込んだ風に削られ、砂にまみれ、かつての姿を失っていた。それでも、美しかった。
「これがパパのみた世界なのね。パパはここに、自分の世界を描いた……」
エリがキャンバスに自分の世界を描くように、そのことで幸せを感じるように、父もそうしていたのだ。
エリは拳を握った。父の街をみつけたことは喜びであり、謎だった。
「どうしてパパはこの街を出て行ったの?」
振り向いた先に立っている情報屋は、瞬きをするだけだ。
彼はそこに立つだけで、こちらが質問をしなければ答えもしないし、自分から、何かをしてくれるわけではない。質問にしても、見たことや起こったことには答えてくれるが、『自ら導き出さなければならない答え』には答えてくれない。
「王が街を出たのはいつ?」
「ずっと昔」
「恋と乙女に魅せられて? 乙女とはどうやって出会ったんだろう」
「王は旅の先でひとりの乙女を見つけ、恋に落ちた。ある日の夕暮れ、王は乙女を追って街を出た」
「どうしてママを、ううん、乙女をこの街へ連れてこなかったの。そうすればいっしょに暮せたのに」
「わからない。ぼくが知っているのは、乙女はこの街へ来たことがない、それだけだ」
エリは再び、空の玉座を見つめた。
父は今、祖父の代からはじめた画材屋を営んでいる。エリもマリも、父から画を描くことを教えてもらった。
双子が画を描くと父は喜んだ。それでいて、父が自分自身の画を描くことはなかった。昔の画も見せてくれはしなかった。「もう捨ててしまったよ」と少し寂しそうに言っていた。
たった一枚残った『街』の画を、玄関に飾ったのは母だった。
「わからない」
エリがつぶやく。
「どうして、出ていけるの。なぜ、自分の画を人の画と取り換えられるの。どうして……」
肩が震えるのは、涙を堪えていたからだ。『どうして』がエリの頭の中を侵食していく。
目に映る世界を『わたしのせかい』と意識したことが、これまでのエリにはなかった。あの時、マリの名前が自分の描いた画につけられているのを見た時、はじめて『わたしのせかい』が誰かに奪われたような気がしておそろしくなった。
これまでとはもう、違うのだ。
みんなが同じ世界に生きていて、同じように幸せを感じていると思っていた昨日までとは、何もかもが違うのだ。
堪えきれず、涙があふれた。
マリも、父も、エリの『わたしのせかい』とは違う世界をみていて、その中に生きている。その中で、何を感じているのかを、エリには知ることさえできない。
マリはあたしを傷つけたかったのかもしれない……。
エリの頬を涙が伝っていく。
マリにそう思わせるほど、自分は、マリを傷つけていたのかもしれない。
双子であることを他人は求める。一卵性で、姿形がそっくりであればなおさらだ。そのことはエリにも感じられる、違和感だった。
双子はかわいいわね、お揃いって素敵ね、いつもいっしょなのね。
世間はふたりが『そうである』ことを求めている。賢くて、人の気持ちに敏感なマリは、エリ以上にその求めを感じ取っていただろう。
エリはそれでも、違和感ほどに嫌な気持ちがしているわけではなかった。だって、ふたりはいつもいっしょだと、エリ自身も思っていたから。マリといっしょでかまわなかったのだ。
姉とそっくりな画を描きながら、マリは全く違う世界をみていて、本当はその世界を描きたかったのかもしれない。
何も知らずに『わたしのせかい』を『わたしたちのせかい』と信じて描き続ける姉を、心の中では、苦々しく思っていたのかもしれない。
思いながら、エリが気づき、本当のマリを見る日が来るのを待っていたのかもしれない。
いつになったら、気づくのかしら。
そんな風に思っていて、とうとうマリは、馬鹿な姉に最後の一撃を繰り出して、画を取り換えたのかもしれない。
マリは、あたしを嫌っていたのかもしれない……。
推測ばかりが頭を駆け巡る。
エリは両手で顔を覆った。傷ついていることを自覚する。マリの行動はたしかに、エリの持つ『わたしのせかい』を傷つけていった。吹き止まぬ風が、街を削るように、ナイフが絵の具を削ぐように。
「ねぇ、情報屋さん」
ぐしゃぐしゃと顔を両手でかき回し、涙を拭った。
「あたしもっと、この街のことを知りたいの。もしかしたら、この街のためにできることもあるかもしれないし」
この街に満ちるためいきを消すことができれば、そうすれば『わたしのせかい』に満ちるためいきも、少しは消えていくかもしれない。
エリは顔を上げた。
「あなたの知ってること、教えて」
「誰と話をしている?」
答えた声は、情報屋のものよりもずっと低い。静かな、太い声。
問に答えてくれるはずの情報屋はいなかった。かわりに長身の男が扉のそばに立っている。短い髪は
「あなたは、誰」
「それはこちらのセリフだ」
男は大股で寄ってきて、エリの腕を乱暴に掴んだ。
「いたい!」
「出ていけ、ここは王の城だ」
「あたしは王の娘よ!」
「王に娘などいない。俺は騎士だ。この城と王を守る義務がある」
男はエリの腕を引っ張って歩き出した。有無を言わせず、引き摺っていく。
「待って、お願い! あたし、もう少しここにいたいの!」
「でていけ」
「ソル! おねがいよ!」
男の動きが止まる。ソル、と呼ばれた男は不信に満ちた眼差しでエリを見た。
「思い出したの、あなたは灰色の騎士でしょう? 国一番の剣術の使い手、黒い馬に乗って、王と共に世界を旅した勇敢な騎士」
「お前は何者だ?」
騎士の眼差しが鋭さを増す。エリは深呼吸してから口を開いた。
「あたしは、エリ……開拓者よ」
ソルはエリの腕を突き飛ばすように放した。エリの身体がよろめく。
「でていけ」
「あたしは」
「ここには何もない。お前に、ためいきは消せやしない」
話を聞いてくれる気はないようだった。エリは王の間を後にする。扉のそばで、ソルが腕を組んで見張っている。眉間に深い皺を寄せながら。
その様子は明らかに、街への来訪者を拒んでいた。
朽ちかけた中庭を通り、跳ね橋を渡ると、情報屋がいた。
「どこにいたのよ」
情報屋は肩を竦めてみせるだけだ。
「開拓者って、歓迎される存在なわけでもないのね」
「ぼくは歓迎している」
「ソルは歓迎してくれなかったわ。あたしには、ためいきを消すことなんてできないって」
「この街のためいきを消すことができるのは、開拓者だけだ」
「どうかしら、あたしには、自分自身のためいきすら、消せないのに」
目を伏せるエリの正面から、黄色い風は吹いてくる。
「王は乙女を追って街を出た、って言ったわね」
「ああ」
「じゃ、あたしも街を出れば家に帰れるんじゃないの?」
「いいや」
情報屋がきっぱりと否定する。
「なぜ、帰れないの?」
「この街を出るには、橋を渡らなければならない。橋を渡ることができるのは『この街での役目を終えた者』か『橋の向こうでの役目を与えられた者』だけだ。君はそのどちらでもない」
「役目を終えた者か、役目を与えられた者……。難しいことを言うわね。でもそれは誰が決めるの? 誰が役目を与えたり、終えたと判断したりするの?」
「王が」
「王はもういないでしょ?」
「在りし日の王の意思は残っている。それが今の街だ。街は君を選び、連れてきた。開拓者として招き入れ、役目を与えたんだ」
そこまで言うと、情報屋は言葉を止めた。彼からはもう、何も言うべきことはないらしい。
エリは不満げな表情で、おおげさにためいきをついてみせた。
「よくわからないし、ためいきをつきたいのはこっちだよ。そもそも、どうしてあなたは残っているの、情報屋も役目のひとつなの?」
「この街に住む者は皆、王が去ることによってその役目を終えた。そうして去った。王と共に生きることが、彼らの役目だったから。今この街に残っている者は、それでも街にいたいと『自らが願う』者たちだ。ぼくは……」
情報屋が口をつぐむ。
「ぼくは何? 知らないわけじゃないなら教えてよ。あたしにとって大事な情報かもしれないでしょ」
意地悪くエリが急かす。
「ぼくは、ぼくについては何も知らない。情報屋という役目は、ぼくが自分でつくりだしたものだ」
風がひときわ強く吹き、少年の髪を乱れさせた。
情報屋はまっすぐにエリを見つめている。嘘ではなく、彼は『知らない』のだろう。
そんなのアリ!? マリではないが、言いたくもなる。誰もに役目がある街にいて、役目を持たない少年。それなのに街のことは知っている。この街にいて、この街にいない者。
エリは情報屋に背をむけ、彼には聞こえないように、深いためいきをついた。
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