Revival of the Breath ──『クラリオンの息吹』外伝──

蒼原悠

先行公開部分



 四月七日、火曜日。

 春爛漫の弾ける青葉の下、国分寺の街には入学のシーズンが訪れていた。

 前日に入学式を終えた弦巻学園国分寺高等学校では、この日、全校生徒を集めての始業式が行われ、新入生の一同が在校生と初対面を済ませることになっている。講堂に揃いつつある在校の二年生や三年生たちの瞳は、まだ見ぬ学校の未来を担う新入生の姿を心待ちにするかのように、きらきらと静かな煌めきを帯びていた。


「──私たちは昨日の時点で見てるけどね、新入生のこと」


 クラリネットのキイをぱたぱたと開閉して遊びながら、隣の青柳あおやぎ花音かのんが浮かれ気味な声で口ずさむ。


「可愛かったなー。一年前の私みたいだった!」

「自尊心強すぎて笑えてくるんだけど」


 白石しろいし舞香まいかの入れた半笑いの突っ込みが明るい。小声で緊張をほぐす仲間たちの姿を横目に、高松たかまつ里緒りおは楽器を持つ脇を引き締めた。いつ、どんな瞬間に姿を見られてもいいように、凛々しい格好を整えねばと思った。それもそのはず、里緒たちクラリネットパートが位置しているのは、ステージの脇にずらりと並ぶ管弦楽部の最前列なのである。


 ──『それでは新入生、入場してください』


 司会進行の教師がマイクに声を落とした。すかさず、指揮棒を握った須磨すま京士郎きょうしろうが部員を見回す。慌ててフルートを構えた舞香の向こうで、滝川たきがわ菊乃きくのが小首で返答を送った。代替わりから三ヶ月が経ち、新部長の肩書きもすっかり板についてきた感がある。

 里緒は自慢のバセットクラリネットを構えた。金メッキの施されたキイが天井の照明を跳ね返し、全長九十センチの威厳ある姿を周囲に誇示してみせた。

 アンブシュアを作って呼気を貯め、指揮棒の切っ先を見つめる。一、二、三、四──。振り抜かれた指揮棒の閃光が、雄壮な入場曲の第一声を力強く打ち付けた。

 久石譲作曲〈Oriental Wind〉。一年前の入学式と始業式でも演奏された、弦国管弦楽部の十八番だ。弦楽器の波打つような主旋律に、茨木いばらき美琴みことのピアノパートが一点、一点、朱の点を打つように華やかな彩りを添えてゆく。主題の演奏には金管楽器も加わり、その“東方の風”たる逞しさには言葉も出ない。聴き手の心根の奥深くにまで反響のエネルギーをもたらし、新たな風の吹き込む春にふさわしい門出を演出してみせる。

 ふと視線を持ち上げると、すでに新入生たちの入場は始まっていた。

 新品のブレザーに身を包み、飛びかかる在校生の拍手の嵐に耐え、新入生は肩を強張らせながら自分の席についてゆく。制服の胸元を飾るパイピングの色は、心地よい新緑の風を思わせる黄緑色だ。一年前、私もあんな風に周りを警戒しながら席についてたっけ──。懐かしい想いが横隔膜を押し上げて、尖らせた唇の先で燃えながら音に変わり、朝顔形のベルをびりびりと震わせる。


(大丈夫だよ。怖がることなんてない)


 マウスピースをくわえる口元を緩め、里緒は笑った。

 新たな世界に飛び込むことは決して怖くない。用心こそすれ、怯えることはない。自分の経験に照らして確かにそう伝えられると、今の里緒は胸を張って言い張れる。ほんのりと口の端に滲んだ熱はたちまち唇全体に行き渡り、管体を飛び出す音の粒も心なしか強く、鮮明になった。



   ◆



 弦国では始業式と同時に部活動の勧誘が解禁され、各部の趣向を凝らした勧誘合戦が始まる。とはいえ、他の部のようにビラを撒いたりポスターを貼るのでは、なかなか差がつかない。管弦楽部の取りうる最強のアピール方法は、やっぱり演奏を行って聴かせることだ。


「どうー、今年の始業式の演奏の感触は?」


 ホームルームを終えて音楽室に向かうと、一足先に着いていた菊乃たち三年生が尋ねてきた。里緒が答えるよりも早く、隣の花音が「いい感じです!」と胸を張った。


「去年より断然かっこいいってクラスメートに言われました。二年の子たちにも好感触だと思いますっ」

「だよねだよね! うちらも言われた!」

「今年は校歌と入場曲の練習も相当やったもんなぁ」


 口々に応じる三年の部員たちも、その表情は総じて晴れやかだ。菊乃の率いる現体制になってからというもの、管弦楽部は練習の体制を一から見直し、同じ時間で質の高い進歩を産み出せるように努力を積んできた。練習法やスケジュールの参考にと、例によってライバル校・芸文附属の吹奏楽部も見学に行ったらしい。


「春季定演が二十六日で、そこから入部届けの受理が始まるから、勧誘に使えるのは二十日間か」


 手帳を伺った藤枝ふじえだ緋菜ひなが難しい顔をする。


「頑張らないとなぁ、勧誘」

「そんな気張ることないよ、今年は去年より苦戦しないって。文化祭でやった体験演奏会も大盛況だったしさ」


 のんきに笑ったのは、緋菜と同じファゴットパートの八代やつしろ智秋ともあきだ。諌め役だった元三年の本庄ほんじょううたが卒業してからというもの、彼の緋菜に対する言動も心なしか大人びた気がする。彼の背後を通り過ぎたチェロの戸田とだ宗輔そうすけが「お前が『入部してください!』って土下座したら入部者も稼げるな」と皮肉を吐いて、賑やかな笑い声が音楽室を満たした。

 この雰囲気も、距離感も、一年という時間を経て里緒の肌に穏やかに馴染みつつある。

 いつか花音が口にしていた通り、新入生が入部すれば今の空気も変貌してしまうのだろうか。現状の平穏を惜しむ思いと、新鮮な空気で肺を満たす希望の間で、里緒の心は今も不器用に揺れている。不安でないかと言われれば、嘘になる。

 部員たちの大半は新入生を純粋に心待ちにしているようだ。なんとなく気後れがして、音楽室の隅の方に寄っていくと、グランドピアノの前に腰かけていた美琴と目が合った。「何?」と尋ねられたので、首を振った。


「……ま、あんまり浮かれる気持ちになれないのは私も同じだけど」


 頬杖をつきながら美琴はぼやいた。さすがは心を通わせる仲の先輩だ、里緒の不安はしっかり見抜かれている。


「なんにしても過度に心配することはないでしょ。新入部員が多いとか少ないとか、そんな並大抵のことじゃ動揺しないで済むくらい、去年、私たちは色んな困難を越えてきたんだ」


 相変わらず美琴の言い切りは小気味よくて、どんな不安も超克して酔いしれそうになる。「そうですよね」と笑ってみたら、新入生たちと向き合う覚悟のカタチがまた一つ、定まったような気がした。

 そうとも。

 もはや里緒は上級生。

 今年も一年前の里緒のように、ひっそりと重石を引きずりながら入部してくる子がいるかもしれない。そのとき少しでも傍らに寄り添い、力を貸し、いとおしい居場所を用意してやることが、上級生たる里緒の責務なのだから。




 ふたを開けてみると案の定──否、思っていた以上に大量の新入生が、管弦楽部の見学に訪れた。

 練習を始めて早々、黄緑色のパイピングのブレザーを着た子が何人も音楽室のドアを開け、そのたびに菊乃や副部長の松戸まつど佐和さわが対応に追われて席を立った。吹奏楽部の経験者に加え、入学式や始業式の演奏を聴いて関心を持った子も多かったようで、菊乃は終始、満悦の表情を隠しもせずに「こちらが音楽準備室だよー!」などと新入生を連れ回していた。

 予想外だったのは、里緒目当ての子が何人もいたことだ。


「クラリネットのめちゃくちゃ上手な先輩がいるって聞いたんですけど!」

「わたし中学でも吹部でクラ吹いてたんですよ! 弦国には天才ソリストがいるって、うちの吹部でも噂になってました」

「コンクールでソロやってたんですよね? 私、あのコンクール聴きに行ってたんですよ!」


 ──などという言葉が新入生の口から飛び出すたび、菊乃や佐和はその子を里緒のもとに連行してきた。里緒にしてみれば面識のない子ばかりだが、萎縮しているわけにもいかず、仕方なく自己紹介と簡単なソロ曲の演奏を何度も披露した。「吹いてみてください!」と言われた曲をみんな演奏していたら、次第に他の新入生たちの注目も集め始め、しまいには里緒の周りに十数人もの新入生が輪を描く有り様になってしまった。

 注目を浴びるのには慣れていない。緊張と不安で今にも吐きそうで、自力で自己紹介できたのは苗字くらいのものだった。他のことは花音が勝手に補足してくれた。


「小五からクラ吹いててね、めちゃくちゃ上手いんだよ! もうアレ、天才! コンクールで金賞取ったのも里緒ちゃんのソロが褒められたからだし! 五十年に一度の逸材だよ!」

「ちょ、ちょっと、話の盛りすぎだから……」


 あまりに好き放題に花音が尾ひれのついた武勇伝を語るので、里緒は何度も慌てて止めに入り、そのたびに新入生に「夫婦漫才みたいですね」といって笑われた。しまいには、わざとらしく険しい顔をした美琴が「私を忘れてもらったら困るんだけど」と乱入してきて、クラリネットパートの一角はいっそうの喧騒に包まれた。美琴自身もピアノの腕前を多くの新入生に褒められ、気分がよくなっていたらしい。

 弦国では四月中、新入生は必ず午後五時までに下校することと定められている。時計の短針が五を指すまでの数時間、いったい何曲のリクエストを受けてソロを披露し続けただろう。正確な数など覚えているはずもないが、吹いて聴かせるたびに新入生たちは目を丸くし、拍手や称賛の言葉を腕いっぱいに届けてくれる。赤らんだ頬が熱くて、地面から浮き上がるような心地がして、キイにかかる指にもいっそう力が入ったものだった。


(こんなにたくさんの子が、私の音を求めてくれる)


 らしくもない自己肯定の感情が膨らむたび、西陽の差し始めた音楽室の世界が柔らかに華やいで、なんだか里緒も嬉しくなった。後輩ができるという当然の事実を、生まれて初めて“嬉しい”と思った。



   ◆



 長い春休みが終わると、三人で下校するのも久しぶりのことに思えて、なんとなく身体が落ち着かない。先を歩く二人の会話に耳を傾けつつ、里緒も肩にカバンを提げて校舎の扉を出た。甘い春の夜の匂いが鼻腔を満たして、足や腕に染みる乳酸をほんのりと浄化してゆく。


「へー、A組ってキラキラタイプの子が多いんだね。うちはオタク気質の子が中心かも」


 先をゆく花音が楽しげに相づちを打っている。「そんな感じ」と応じながら、西元にしもと紅良くららはカバンを持たない方の手で長い髪を鬱陶しげに掻き上げた。


「私の肌には合わないな、正直。前のD組の方が気が楽だった」

「西元でも苦手なタイプの子っているんだねぇ」

「誰だって合わないタイプの一つや二つ持ってるものでしょ。花音はまぁ、誰とでも割と上手くやりそうだけど」

「ふふーん、だって花音様だから! ……そっか、いいこと知った。これからは西元にムカついたらA組のキラキラしてる子をけしかければいいんだな」

「相変わらず悪知恵の働くスピードだけはピカイチよね」


 紅良は大袈裟に嘆息してみせる。「じゃないもん!」と憤慨した花音が、彼女の尻にカバンをぶつけた。

 弦国では進級のたびにクラス替えが行われる。一年次には同じD組のクラスメートだった里緒たち三人も、今年は里緒がC組、花音がD組、紅良がA組と、完全に別々のクラスに分けられてしまった。もっとも、管弦楽部の子や一年D組で仲良くなった子は今のクラスにもいるので、目下のところ話し相手に困る気配はなさそうだ。一から知り合いを作り直す方が何倍も難しいことだと、去年、人間関係をリセットして新学期に臨んだ里緒はとみに思う。


「その、国立WOウインドオケの団員勧誘はどう? 上手くいってる?」


 隣に追い付いて尋ねると、紅良は尻を押さえながら「そこそこ」と顔をしかめた。いい角度でカバンを食らったらしい。


「もう五、六人は団員が増えてる。2ndセカンドクラにはまだ誰も入って来てないけど、ま、そのうち一人か二人は増えるかなって」


 紅良の所属する国立WOウインドオケは、毎年のように多数の入団希望が殺到する、人気の高い市民吹奏楽団だ。勧誘の容易さは弦国管弦楽部の比ではあるまい。安堵を覚えた里緒の向こうで、「人気楽団はいいなー」と花音が羨ましげに天を仰ぐ。


「ま、でも今年はうちの勧誘も上手くいってるし、心配することなさそうだよね。ねっ、里緒ちゃん」


 伸びやかな花音の声が夕闇色の空いっぱいに広がる。「うん」と生返事を発しながら、里緒は通路に沿って建つ一号館の壁を見上げた。まだ三年生の一部が残っているようで、音楽室の窓からは蛍光灯の光がささやかに漏れている。

 勧誘は順調だ。それは新入生の訪問数が多いこととともに、人見知りの里緒が新入生を前にして挙動不審にならずに済んでいることも意味している。

 このまま何事もなく勧誘が、いや、二年生の部活生活が進んでくれるといいのだけれど。

 淡い期待に胸を押されて一歩先の舗装を踏みしめた里緒は、──不意に目の前の花音が立ち止まったのに釣られ、慌てて足にブレーキをかけた。


「あれ。一年の子だよね?」


 花音が尋ねた。

 花音と紅良の間から前を伺うと、そこには二人の前に立ちはだかる弦国生の女子の姿があった。胸元のブレザーのパイピングが、彼女が新入生であることを如実に語っている。


「一年は五時までに下校よ。早く帰らないと怒られる」


 警備員の目を気にしながら紅良が忠告を発したが、無視して彼女は一歩を踏み出した。彼女の視線は花音でも、紅良でもなく、その後ろに立つ里緒を一直線に射抜いている。

 里緒はとっさに、不穏なざわめきで背骨が凍るのを覚えた。

 なぜだか分からないが嫌な予感がした。

 そんなこととは伝わっているはずもないのに、里緒の目と目が合った途端、少女は「あの」と口を開いた。


「高松先輩ですよね」

「そ、そうです、けど」

「よかった。絶対ここ通ると思って、待ってました」

「え、今まで? もう六時なのに?」


 花音が仰天の声を上げたが、少女は耳に入れることさえしなかった。ただ、底冷えのするほど静かな眼差しで、里緒ひとりを淡々と見つめ続ける。

 花音よりわずかに背丈の高い子だ。眉毛の高さで切り揃えられ、くるりと器用に巻かれた前髪。長いサイドテールを左肩に流したそのシルエットに、里緒の脳裏には次第に既視感がよみがえってきた。そうだ、確かフルートパートを見学していた新入生の中に、こんな髪型の子がいた。クラリネットパートの方も何度か伺っていた気がする。


「あ、あの、ごめんね。私まだ、部に来てくれた新入生の子たちの名前、ぜんぜん覚えられてなくて……」


 不興を買わないうちにと思って頭を下げると、「いえ」と彼女は首を振る。


「わたしも名乗ってませんから」

「そ、そっか……。それならいいんだけど」

「それに、わたしの名前より姉の名前を言った方が、先輩も覚えが早いんじゃないかと思うので」


 言うが早いか、居住まいをただした少女は一歩、二歩と里緒に詰め寄ってきた。急な展開に呆気に取られているのか、花音も紅良も立ち尽くすばかりで動く気配はない。少女と里緒の間を埋め、塞ぐものは、何もない。

 腕に鳥肌が立った。里緒が腕を触ることもできずにいるうちに、少女は続きを口にした。



「忘れてなんかいませんよね。──わたしの姉、山形やまがた三絵みえって言うんですけど」



 彼女の口にした名前は、がんじがらめに閉じ込めていたはずの里緒の記憶の檻を、あまりにも早業の一撃でこじ開けてしまった。脳天を撃たれたような感覚が走って、里緒はよろめきながら目を見開いた。

 山形三絵。

 その名前を、里緒は知っている。

 二度と忘れることもできないほど、頭の隅に焼き付いている。


「里緒ちゃん……?」


 眉をひそめた花音が、すかさず里緒の隣に寄り添った。紅良も何事かを察して里緒と少女の間に割り込もうとしたが、少女が「忘れてませんよね!」と大声で催促する方が早かった。

 いつの間にか少女の容貌は険しく一変していた。返答もできずにいる里緒に向かって、薄笑いを浮かべた彼女はさらに一歩、一歩、にじり寄って来る。


「そんでもって知りませんよね。三絵ちゃんが今、どんな日々を過ごしてるか。どんな苦しい目に遭ってきたのか。先輩は少しも知らないはずですよ」

「あ……あの、その……っ」

「三絵ちゃんを傷つけたのは先輩です。わたしの家族の幸せをめちゃくちゃにしたのも、先輩です。どうせ自覚なんてないでしょう? 先輩が自覚を持って謝りに来ない限り、わたしは先輩のことを一生かけて恨み続ける。今も、昔も、これからも、ずっと」

「ま……待って……」

「わたしたちがどんな痛い目に遭ったか、先輩も少しは自分の身をもって実感すればいいんだ。……覚悟しててくださいよ」


 口角の上がった唇をひくつかせ、なおも頑なに笑顔を保ちながら、彼女は静かにつばを飛ばして言い切った。足が震え、腰の安定さえ覚束なくて、里緒はとうとうまともな返答を一言も口にできなかった。

 山形三絵の妹が、自分を脅しに来ている──。

 一昔前の弱かった里緒なら、その事実に直面しただけでたちまち過呼吸を起こしただろう。


「待ってよ、何のつもり? 里緒ちゃんに用があるならはっきり言いなよ!」


 花音が少女の前に立ち塞がった。ただならぬ不審な展開に、今や紅良も警戒感をむき出しにして少女を睨んでいる。分が悪いのを悟ったか、はたまた用件を終えて溜飲を下げたのか、少女は花音の言葉を無視してきびすを返した。すたすたと坂道を下ってゆく足取りに迷いはなく、やけに甲高い靴音が里緒の耳介を踏み荒らした。

 不意に身体中から力が抜け、里緒はその場にへたり込んでしまった。「うわ!」と叫んだ花音が、紅良が、すぐさま腰を下ろして里緒を支えてくれた。


「ね、あの子の口にしてたナントカって子、誰なの? 知ってるの?」


 すでに少女の姿は校舎の影に消え、里緒の声の届かない場所に達しようとしている。声のつかえを慎重に取り除き、身の安全を確かめながら、里緒は震える言葉で花音の疑問に応じた。


「私のこと、中学の時に、いじめてた子」

「それじゃ……」


 紅良が叫びかけた。続く台詞が声に出されることはなかったが、紅良の言わんとした真意は里緒にも容易に察することができた。


 ──そう。

 里緒の闇色の過去を知る当事者が、ついに現れたのだ。

 それも、安全圏だったはずの東京に。守る手に囲まれていたはずの弦国に。

 一年間をかけて必死に積み上げ、守ってきたはずの逃げ込み場所が、崩壊の危機に晒されている──。


 里緒はそれからしばらく立ち上がることができなかった。

 花音と紅良の手を借り、辛うじて身体を起こしても、手や足の帯びた動悸は決して安らかにならなかった。



   ◆



 中学二年の夏前から、不登校になるまでの一年間にかけて、里緒の受け続けたいじめはあまりにも多岐にわたっていた。殴る蹴るといった暴力は序の口で、靴や体操着を隠され、教科書を破かれ、ノートを汚され、あげく通学カバンもろとも濁った池に投げ込まれた。人格否定の悪口はもちろん、両親を罵倒され、変えようのない容姿をバカにされ、口答えもできずに里緒が泣き出すとさらなる罵詈雑言を並べ立てられた。財布を奪われて金を盗られたり、スマートフォンを取り上げられて勝手に写真を消されたことさえあった。受けなかったのは性暴力くらいのものだが、それにしたって彼らの言い分は『こんな不細工ヤりたいとも思えない』というものだった。ありとあらゆる事柄がいじめの口実になり、里緒を痛め付ける格好の契機になった。

 そして、それらの行為の実行役の中に必ずと言っていいほど混じっていたのが、山形三絵。──管弦楽部に来ていた子の、姉だ。

 癖っ毛のロングヘアを振りかざし、倒れ伏した里緒を愉悦の表情で見下ろす彼女の影が、今も目を閉じれば網膜に焼き付いて痛み出す。男子と違い、同性の彼女は急所への暴力も容赦がなかった。股間を蹴り上げる足付きに一切の迷いはなく、必死の口答えを試みるたびに蹴り飛ばされて悶絶しながら床へ転がった。痛みと、情けなさと、怒りにもなりきらない冷涼な悲しさが込み上げて、倒れながら何度も泣き崩れたものだ。けれども彼女は決して、一度も、里緒に優しさの片鱗を見せようとはしなかった。

 里緒をしいたげた子の数は、とても十本の指では数えきらない。けれども常に実行役の中にいた三絵の存在は、トラウマを形成する無数の人影のなかで、今もとりわけ強烈な腐臭を放ちながら鮮やかな印象を刻んでいる。




 ──『何、その目?』

 ──『そうやってまた逃げるんだ?』

 ──『そんな暗い顔するくらいなら本当に隅っこに居続けてくれない? 目障りだから明るいところに出てこないでもらえる?』

 ──『あーあ、つまんないの。つまんないって犯罪だよ。黒松なんか消えちゃえばいいのに』

 ──『あんたひとりがいなくたって、クラパートの大勢に影響なんか出ないんだからさぁ』

 ──『つか、あんたの味方なんか誰も務めたくないから』

 ──『前もそうやってプレッシャーに押し潰されて失敗したくせに、ちっとも学習しないね』

 ──『お得意の反応しなよ黒松ってばー』

 ──『黒松』

 ──『黒松!』

 ──『黒松!!』

 ──『黒松!!!!』

 ──『黒松!!!!!!!!』




 ──凍り付いた背筋が激痛を跳ね上げた。布団から飛び起きるや否や、溜まっていた無限の声が息に変わって口を漏れ出し、里緒は制御不能になりかけの肺を必死に押さえ込んだ。


「はぁ……はぁ……はぁっ……!」


 殺しても殺しても沸き上がる息が不気味で、気持ち悪い。泣きそうになりながらもうの体で過呼吸を回避した里緒は、ぐったりと布団の中に倒れ込んで、今しがた見てしまった夢の内容を思い返した。かつて生身の三絵にかけられた、とげまみれの台詞の数々が、息をこぼすたびにばらばらと布団の上に散らばった。

 最悪だ。

 また、あの頃の夢を見た。

 かつてコンクールの日に母の瑠璃と和解を果たして以来、乗り越えたと思い込み続けてきた過去の記憶が、ふたたび里緒を飲み込もうとしている。


(あの時、確かに乗り越えられたと思ってたのに、なんで今さら……っ)


 布団に目尻を押し付けると、だらしなく流れ出した涙の粒が瞬く間に弾けて消えた。

 隣で眠る父──大祐だいすけの背中が、滲む視界の向こうに揺れて見える。懸命に泣き声をこらえ、唇を噛んで苦しみを隠しながら、里緒はしばらく布団の中で震え続けた。いじめられていた頃の夢を見るというのは、今の里緒にとって、それだけの衝撃を受けうる大事だった。



   ◆



 始業式が明け、弦国では本格的な授業が始まった。新学期早々、憂鬱な顔で登校してはいられない。念入りに洗顔を済ませ、電車の中で笑顔の練習も積み、装いを整えて教室へ入った。新たな担任は京士郎ほどの変人ではなくて退屈だったが、だからといって特に不自由するわけでもなく、新クラス二日目にして仲良しのクラスメートも生まれた。十一度目の学校生活の春は、思った以上に好調な滑り出しだった。


(これで山形さんの妹さんさえ来なければいいのにな……)


 もはや里緒の胸を賑わしているのは、そんな灰色の警戒心だけだった。

 そして、運命はどこまでも里緒に残酷だった。──放課後、音楽室に集合して自主練を始めるや否や、例の妹が音楽室の扉を開けたのだ。


「すみません。見学いいですか」


 その手には楽器ケースらしきものが握られている。たちまち菊乃が「山形ちゃんたちだ!」と叫び、応対に向かってしまった。彼女は他にも新入生の見学者を引き連れているようで、外の廊下は幼げな喧騒に満ちている。

 身体を固めてしまった里緒の隣で、ひそひそと花音が緋菜に尋ねた。


「ね、あの子って何て名前だっけ」

山形やまがた未姫みきって聞いたよ。中学でフルートやってた経験者だって」


 何も知らない緋菜の返答は実に和やかだ。「へぇ」とつぶやいた花音の声色は対照的に固く、静かで、そこには里緒のそれとは違うカタチの警戒心が色濃く溶け出している。


「……里緒ちゃん」


 花音が囁いてきた。


「無理にあの子の相手しなくていいからね」


 頼まれたって相手したくないし、できるはずもない。里緒は唇を強く結んで、不安の声が漏れるのを必死にこらえた。未姫本人や二年生以上の部員たちはともかく、事情を理解しない新入生の子の前で無様な姿は見せられないと思った。


 大変な勧誘期間になった──。

 油染みのような焦りが、刻一刻と足元から里緒を飲み込んでゆく。








◆ ◆ ◆ ◆ ◆


先行公開分はここまでです。

以降は、『クラリオンの息吹』文庫化記念書き下ろし短編作品「Revival of the Breath」に続きます。


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