先生と火事


「先生」


 名前も知らない物書きさんのことを、ぼくはそう呼ぶ。初めて会った時に「物書きさん」と呼んだら、変な顔をされたから。


「なんですか、A君」


 先生はぼくを「A君」と呼ぶ。紙に書いたぼくの名前を見て、すぐにそう呼んだ。好きな小説の登場人物みたいに呼びたかったからだと言っていた。ぼくはそれを読んだことがないので、よく分からない。


 こたつで蜜柑を剥きながら(ぼくのお金で買った。東京はくだものが高くてびっくりする)、テレビのテロップを読み上げる。

「『度重なる火災。火の用心を』」

「冬ですからね」

「冬だと火事は、多いんですか?」

 振り返ると、物書きさんは机の上の原稿用紙を見ながら煙草をふかしていた。テレビには興味がないらしくて、こちらを見ようともしない。だからぼくは、さらにテレビのテロップを読んだ。

「『しばらくは湿度30%ほどが続くでしょう』」

「ほら、冬は乾燥するんです。だから火事が起こるんですよ」

 後ろから煙が香った。つられてそちらを向くと、物書きさんがこたつに潜り込もうとしているところだった。物書きさんは加えた煙草をこたつの上の灰皿に落として、隣の籠を見た。籠の中には、オレンジの丸いくだものが山盛りに入っている。

 ちなみにこの籠は、物書きさんの家にあった。物書きさんは、たべもの以外ならなんでも持っている気がする。

「蜜柑ですか」

「蜜柑です」

「好きなんですか?」

「冬は蜜柑じゃないんですか?」

「少なくとも私の住む家で蜜柑を見かけるのは、十数年ぶりですよ」

もそもそと、どてらを羽織った物書きさんが蜜柑を剥き始める。剥いているけれど、ちょっと皮が剥がれては切れて、剥がれては切れて、みるみる間にこたつの上に蜜柑の皮が散らばっていく。

 そっとぼくが食べていた蜜柑の残りを差し出すと、物書きさんはうなだれた。

「蜜柑すら上手に剥けないんですよ、私は」

「剥けなくても、困らないと思います」

「困る困らないじゃなくて、人として問題がありますよ」

「……?」

 ぼくは違うと思うけれど、物書きさんがそう思うのならそうなのかもしれない。ぼくは新しい蜜柑を籠から取って、もそもそと皮を剥く。

 物書きさんにじっと見つめられた。

「……上手ですね」

「そうですか?」

「私も剥きます」

 さっきの剥きかけの蜜柑を残したまま、物書きさんは新しい蜜柑を取る。もそもそ、もそもそ。散らばる皮。

「……」

 無言でうつむく物書きさんに、剥き終わった蜜柑を手渡した。

「それで、火事でしたっけ?」

 諦めたのか、物書きさんは蜜柑をひと房ずつ食べ出した。物書きさんは物を美味しそうに食べないから、まるで不味い蜜柑のように見える。不味いのかな、と物書きさんが剥きかけた蜜柑を剥いて食べてみた。口に入れたら、ちょっと水っぽい。不味くはないけど、美味しい蜜柑でもなかった。

「火事です」

 テレビは、まだ火事のことをやっていた。商店街の一角で火事がありました。気を付けましょう。場所は、東京都渋谷区。

「渋谷って近いんですか?」

「電車で30分ほどです」

「歩いたらどれくらいですか?」

 ぼくの質問に、先生はぎょっとした。先生がぎょっとすることは少ないので、ぼくもぎょっとした。

「歩いたら!? いえ知りませんが、おおよそ1時間半ほどでは」

「1時間半」

 線路に沿って歩いて帰った高校時代を思い出した。友だちと話しながら、線路の真横をとぼとぼ歩いたっけ。あれが、1時間半。思い出してみればそんなに遠いとは感じなかった。

「君、歩く気ですか?」

 信じられない、と言いたげな顔をしているけど、そんな変なこととは思えなくてうなずく。へえ、と先生は眉を寄せた。

「やっぱり田舎の方はすごいですね。体力があるんでしょう」

「先生は歩かないんですか?」

「私は新宿駅から新宿二丁目ですら、電車を使いますよ。体力を使うことは、嫌いです」

 新宿駅と新宿二丁目がどれくらい離れているか知らないけれど、歩くことは嫌いらしい。ぼくは歩くことを、嫌いとも好きとも思ったことがないので、ふんふんと聞きながら蜜柑を口に放り込んだ。やっぱり水っぽい。

「火事、気を付けましょうね」

 蜜柑に飽きたのか、1個の半分は残っているのに、物書きさんは煙草に火をつけた。昔、親に差し出されて煙草を吸ったことがあるけれど、喉がびりびりと痛くなって好きじゃなかった。物書きさんは、気付けばいつも煙草をふかしている。こんな苦いものをよく吸えるなって思いながら、ぼくは残った蜜柑に手を伸ばした。

「この家でも火事になりますか」

「なりますよ」

 物書きさんは何を当たり前な、という感じにすぐさま答えて、ほら、と言う。口から煙草を離すから何をするのかと思っていると、左手に持った煙草の先を蜜柑の皮に押し付けた。

 じじ、と蜜柑の皮が燃え出す。

「え、え」

 み、水? 水を持ってくればいいの?

 蜜柑の皮と物書きさんを交互に見てみるけれど、物書きさんはぼんやりと蜜柑の皮を見つめている。煙草を口に戻して、すぱりと煙を吐き出す。

 確かに目の前の皮は燃えているのに、物書きさんがぴくりとも慌てないから、ぼくは水を持ってくればいいのかすごく迷ってしまった。

 迷っているうちに蜜柑の皮の一欠けらは燃え尽きて、他の皮に燃え広がることはなかった。真っ黒に焦げた皮の一欠けらがこたつの上に乗っている。

「こういう時、水を持ってこないとだめですよ」

 あっさりとした物書きさんの言葉に勢いよく顔を上げるけど、物書きさんは普通の顔して煙草をふかしている。じっと皮を見つめたまま。

「どうして、先生は慌てないんですか」

 物書きさんが慌てないから、慌てられなかった。慌てなきゃいけないはずなのに、慌てなくていいのかな、って思ってしまった。

「皮が燃えてましたからねえ」

「も、燃えてましたからね?」

「蜜柑の皮が燃えてましたから」

「???」

 も、燃えてたら慌てるんじゃないの??

 物書きさんはそれ以上説明する気が無いらしくて、煙草をまたふかす。煙で焦げた皮が白くくすんだ。

「A君、世の中にはわざと火事を起こす人もいるんですよ」

 皮が燃えた話は終わりのようで、先生はするりと話題を変えた。

 も、もう話は終わり? と驚いたけれど、物書きさんは皮から目を離している。燃えた物をそのまま置いとくのも嫌で、ぼくも焦げた皮を、ティッシュに包む。立ちあがってゴミ箱にそれを捨てた。はい、燃えた話は終わり。

「どうしてわざと火事にするんですか?」

 物書きさんはちらりとぼくを見て、小さく笑った。笑われた理由がよく分からなくて、ぼくは変な顔をしてしまう。

「考えてみましょうか。ここにお七という女の子がいます」

「お七」

「お、はひらがなで、七は漢字ですね」

「昔の人みたいな名前ですね」

「実際江戸の頃の女性ですからね」

 まるで知り合いの人のように話すから、物書きさんって江戸時代に生まれた人だっけ、と考えてしまった。そんなわけない。物書きさんはどう見ても30手前の人だ。

「お七の家は火事になってしまいましてね。火事になると、家がなくなるでしょう?」

「そうですね」

「ですから、お寺に住むことになったんですよ。家が直るまで」

「お寺。ホテルとかじゃないんですね」

「江戸時代ですからね」

 江戸時代はお寺の人が泊めてくれたのか。ぼくが住んでいた村の神社には、いつも誰もいなかったのに。

「で、お七はそこの男の人と恋仲になったんですよ」

「こいなか」

「恋人です。カップル、アベック」

「アベック?」

「昔は恋人のことをアベックと言ったんですよ」

「江戸時代の頃ですか?」

「これは昭和の流行語です」

 あべっく。聞いたこともない言葉を口の中で転がしているうちに、物書きさんの話が先へ進んだ。

「ですが、おうちはそのうち直ります。お七は寺を出ていくことになりました」

「よかったですね」

「そしてお七は放火しました」

「ええ? どうしてですか」

「どうしてだと思います?」

 物書きさんはおかしそうに笑っている。ぼくは新しい蜜柑をむにむにと握りながら考えてみた。

 どうして火事を起こすんだろう。出来た家が気に入らなかったから? 誰かを殺したかったから? まだ殺したかった、のほうがあり得る気がする。そのうちに住む人を殺したかったのかな。

「誰かを殺したかったんですか?」

 物書きさんはゆるりと首を振る。

「いいえ」

「……?」

 じゃあ、どうしてだろう。

 だってぼくが住んでいた村では、火事になったらみんな大慌てだった。早く火を消さなきゃ、燃え広がらないようにしなきゃって村中が大騒ぎになった。近くに森があるとこで起きたら、警報がずっと鳴っていた。

 だから、火事は起こしちゃいけないはずなのに。

「分かりません」

 正直にそう言ったら、にっこりと物書きさんが笑う。

「お七はね、また恋人に会いたかったから火をつけたんですよ」

「……? 普通に会いにいけば、いいんじゃないですか」

「江戸時代は、そう簡単に寺小姓は外に出られなかったんでしょう。またはその恋人はお七の家を知らなかったのでしょうね」

「てらこしょう」

「寺に住んでいた人ですよ。彼に会おうと思ったら、寺に行かなければならない。じゃあ火事になれば、また彼がいる寺にいけるのでは? そう思ってお七は火をつけたんですよ」

「そんな理由で?」

「人は恋に生きる人間ですよ。A君、恋をしたことは?」

「恋人がいたことは、あります」

「青春してますねえ」

 くつくつ、と喉の奥で物書きさんが笑っている。勢いよく煙を吐き出すその向こうの物書きさんの目は、なんだか変な色をしていた。

「恋人のことを思い出してくださいA君。君が火をつければその人に会えますよ。そうしないと会えません。火をつけますか?」

 恋人。思い出すと、まずはもう2年も前なんだなあと思った。二つ結びのほがらかな女の子だった。告白されて、断る理由もなく付き合った。

 一緒にいて楽しかったし、その子はかわいかった。

 十分にその子を思い出せたから、次は火事を起こすか考えてみる。火事。火事になったら村で大問題になる。誰かの家が燃えてしまう。

「つけません。だって、火事は大変なことになります」

「大変なことになりますね。でも、会えますよ?」

「いくら会えるといったって」

 にこにこ、よりもにやにや、が似合いそうな物書きさんの笑顔に困ってしまった。だって、放火は犯罪のはずだ。

「燃え上がる炎の中で少女は願うんですよ? 恋仲のあの人に会いたいって。もしかしたら着物の裾は燃えていたかもしれませんね。自分の家は真っ先に燃えて、大事な櫛も、正月に使う帯も、親の大切な桐の箪笥も、全部燃えているでしょうね! でも、そうすれば自分の愛する人に会えるんですよ?」

 ふふ、ははは。

 物書きさんの口から笑いが漏れていた。

「美しいと思いません? 私は恋という感情が人間の中でいっとう美しいものだと思います。利害なんてどうでもいいんですよ、恋愛が全てなんですよ、いいえ、違いますね、その人が全てなんですお七にとっては。その人がいればどうでもいいんだお七は!」

「先生、先生?」

「そうやって恋に狂わず人に狂える人間が何人います? A君、君は無理だ。だって放火はいけないことだって理性が勝ってしまうんだから。そして私も無理だ、ああ、そうなれればよかったのに。大抵の人が恋している感情に狂って恋をしているんです、相手なんてそれに使う媒体ですよ。だから自分に不利になった瞬間切り捨てられるんですよ、でもね、でもお七は愛せた! 人を愛せたから燃やせた! だってその人と会う以外どうでもいいんですから!」

「先生」

 声をかけても止まらない物書きさんに、ぼくは思わず後ずさった。

 物書きさんは、たまにおかしくなる。こんな感じに、だれの声も聞こえなくなってしまう。ぼくは、こういう時の物書きさんが嫌いだ。だって、怖い。何を考えているのかよく分からない。

「ねえA君」

 さっきまでのおかしそうだった笑いを止めて、物書きさんがのっぺらぼうみたいに表情のない顔でこっちを向いてきた。手に持っている煙草の灰は、今にも机に落ちそうで、落ちそうなそこには山盛りの蜜柑の皮。


「燃やしますか?」



「うぃーっすソーヤ!」

 がちゃりとドアが開くから弾かれたようにそちらを向くと、十三楽とさぐらさんがビニール袋片手に立っていた。

 ぼくの顔を見て、びっくりした様子の十三楽さんは、物書きさんを見てため息をつく。

「ソーヤ、何してんの?」

 十三楽さんを見ていた物書きさんの顔から、するりするりとあの変な色が抜け落ちていく。持っていた煙草を口に戻すころには、いつも通りの伏し目の物書きさんに戻っていた。

「……関係ないでしょう」

 もう大丈夫だ、とぼくはほっと息をつく。そこでぽん、と頭を叩かれ、見上げると十三楽さんがぼくの頭に手を置いていた。目が合って、にっこりと微笑まれる。そこで、ぼくは自分の心臓がおかしいくらいはねていたのを知った。

「関係ある。俺の料理の弟子であるエーがとてもびっくりしている」

「いつから弟子なんて取ったんですか」

「今」

「じゃあ関係ないでしょ」

 ぐりぐり、と灰皿に煙草を押し付けた物書きさんは、ごろりと横になった。そしてすぐに聞こえている寝息。

 もう、あの狂ったなにかは終わったらしい。十三楽さんが入ってこなかったらどうなっていたんだろう。

 ぼくはこたつから出て、十三楽さんに頭を下げた。

「ありがとうございます」

「なに、ソーヤ、またおかしくなってたの?」

「……」

「いつもごめんなあ、俺の友人が」

 居候してもいいって言ってくれてる物書きさんを「おかしい」というのは気が引けて何も言えなかったけど、十三楽さんはしょうがなさそうに笑ってくれた。

「そういや鍋の具材買ってきたけど、夜食べるだろ?」

「あ、ぼく今日、夜勤のバイトで」

「そっかそっか。じゃあちょっと早めに夕飯食べようぜ」

 十三楽さんもこたつに入ってきて、蜜柑を剥き始める。ぼくはまだ飛び跳ねる心臓を抑えながら、残っていた蜜柑を食べた。




「……十三楽さん」

「なに?」

「恋人のために放火できますか?」

「いや、出来ないけど」

「そうですよね」

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物書きさんとぼく キジノメ @kizinome

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