あの夏へ、君を迎えに




 



 『サード・レンレン』こと朝倉あさくられんは、高校を卒業してすぐ、実家の小料理屋を手伝い始めたらしい。母校で監督に会ったその足で、私達は朝倉君がご両親と営む小料理屋さんへと赴いていた。

 自由業の朝倉君はなかなか休みが取れないらしく、よかったら店に来てよ、と言われたのである。遅い時間帯なら空いてるし、一杯くらい奢るからさ、と。


「へい、約束のビールな!」


 小ぢんまりとした、雰囲気のいい店内。カウンター越しにビールを渡してくれる朝倉君は高校の時からあまり変わってなくて、なんだか笑ってしまった。

 お礼を言いつつ、和風の店内に不釣り合いな大きな液晶テレビを見つめていたら、私の視線に気付いたらしい朝倉君が「たまにスポーツバーにもするからさ」と笑う。その曇りのない笑顔は、生霊をグラウンドに残してくる人間のものとは思えなかった。


「いやー、懐かしいなぁ、美咲みさき

「うん。久しぶり」

「元気してんの?」

「うん」


 そう、カウンターに頬杖をつく朝倉君の表情に影は見えない。店内に飾られた野球道具も、高校時代の写真も、何もかもが違和感だらけだった。


「え、ていうかナニ。なんで有久ありひさと美咲が一緒に尋ねて来るわけ? なに、元サヤ?」

「うっせえよ」

「あ、テレビつけていい?甲子園特番が、」

「蓮!」


 焦ったような、怒ってるみたいな、丹羽にわ君の声。それすら遠くで響いてる気がする。店内に飾られた、野球部の集合写真。真っ黒に日焼けした、男の子みたいなショートヘアのマネージャーが誰なのか分からなくなる。


「え、美咲、まだ野球ダメ?」

「蓮、マジでやめろ!」

「でもほら、今年からアレじゃん、女子も甲子園入って良いようになったじゃん」


 六年遅かったよなぁ、って。困ったように笑う朝倉君。六年前、甲子園で試合に出られなくて、たくさん泣いた男。その時、私は……? あの夏、私は、どこに居たんだっけ。

 ずきん、ずきん。頭が痛い。汗をかいたビールジョッキ。黄金色のそれはちっとも減っていないのに、目が回る。ゆっくりと私は口を開いた。


「……朝倉君、甲子園、出られなくて、」

「えっ、うそ。美咲の中で俺って甲子園行ってないことになってんの? 俺めっちゃ色んな人に甲子園行ったって話してんだけど!」

「いっぱい、泣いてた、よね……?」

「まあ、当時はね。でも今となりゃ後悔はしてないよ。あの一点はやっぱ欲しかったし」


 それを言うなら、美咲こそ悔しかったろ? すとん、とカウンターから降って来た優しい声。真っ白な頭の中にも入って来たそれは、目の前で優しく微笑む男が紡いだもので。それ以上聞きたくなくて、気付けば私は、緩く首を振っていた。


「お前こそ泣いてたもんな……俺、見てらんなかったもん。あの日一番頑張ったの、美咲なのに」

「蓮、やめろ」

「厳重注意で退部なんてさ」

「蓮!」


 今度こそ、バットで後頭部を強打されたような気分だった。ガツンと来て、ぐらりと視界が揺らぐ。


 退部。退部……? 私、退部したんだっけ。思い出せない。あの日……甲子園出場を懸けた、県大会、決勝戦。サード朝倉を失った私達は、更なるトラブルに見舞われていた。監督のお母様が危篤だと連絡が入ったのである。

 もちろん、監督は試合に出ると言った。だけど、私達は監督に病院へ行くようにと訴えたのだ。朝倉が居なくても、監督が居なくても、絶対に勝ってみせるからと約束して。


 だから、あの日。名ばかりの顧問の先生を監督に据えて、私達は試合に臨んだのだ。


 ノックなんて出来るはずのない顧問の先生の代わりに、いつも監督の代わりにノックを打っていた私が試合前練習を務めた。ギリギリの人数を賄うために、私がマウンドまで伝令に走った。審判からは注意を受けたし、スタンドがざわついているのも分かっていた。それでも、私達はそうやって戦うしかなかったのだ。


 かくして私達は県大会を制し、甲子園への切符を手に入れた。……が、高野連からの厳重注意は免れられなかった。


 そして、初の甲子園出場に沸く高校は私に言ったのだ。


 チームのために退部しろ、と。


「……違う」

「美咲?」

「だって、グラウンドには、」


 グラウンドには、朝倉君が居た。あれは朝倉君だった。あの夏に取り残されたままなのは私じゃない、朝倉君だ!

 気付けば私は、店を飛び出していた。背中に掛かる焦った声も無視して。今すぐ、あの影が朝倉君であると証明して安心したかった。


 夜も十一時前だというのに生温い風。高校を卒業してから、伸ばしっぱなしの長い髪が汗ばんだ肌に纏わりついて気持ち悪い。後ろから聞こえる、私の名を呼ぶ丹羽君の声。それでも止まれなかった。


「待てって、馬鹿!」

「……っ、は、はぁっ」


 後ろから腕を引かれる。母校のグラウンドまであと少しというところで、私は丹羽君に捕まった。二人して汗だくになって、膝に手をついて、肩で息をする。


「馬鹿か……っ、運動不足のサラリーマン、急に走らせんじゃ、ねーよ……っ」

「……っ、ごめ、ん」


 すっかり真っ暗になったグラウンド。僅かに鳴き始めた鈴虫の声だけが響くその場所に響いた、金属音。

 キン、キン、キィン!  あの日聞いたものと同じ、バッティング練習の音に振り返れば、丹羽君が目を見開いて、グラウンドを見つめていた。


「だから、言ったでしょ」

「……お前、馬鹿だろ」

「なにが、」

「野球、遠ざけすぎだ。馬鹿だろ、お前」


 これのどこがバッティング練だ。そう言って丹羽君は私の手首を掴んで、グラウンドへと歩き出す。汗ばんだ手のひら。ずんずん進む丹羽君は怒ったみたいに叫ぶ。


「出て来い馬鹿野郎!」

「ちょっ、丹羽君! 通報される!」

「いつまでウジウジしてやがんだ、美咲つかさ! この、馬鹿マネージャー!」


 そう、丹羽君が叫ぶや否や、止んだ金属音。そうして続く、カラン、という……バットを放した音。自分の目が信じられない。だって、黒い影が……ショートカットの小さな少女がじっと、バッターボックスから私達を見つめていたのだから。


「バッティングとノックの音の違いも分かんねぇようになりやがって、馬鹿美咲」

「……だって、ちがう、私、」

「こんなキレーで陰湿なノックの音、お前以外に居てたまるかよ」


 一歩遅れただけで取れねぇとこ狙いやがって。

 そう言って、丹羽君は私の手首を放した。行ってこい、って言うみたいに。


 真っ暗なグラウンドを一歩、踏み出す。トンボで整えられた土に、私の足跡が付く。視線の先、ホームベースの上に佇む女の子は……男の子みたいに髪を短くして、真っ黒に日焼けした女の子は……十八歳の私は、悲しげに涙を流していた。


「……ごめんね」


 零れ落ちたのは、そんな言葉だった。


 こんなところに置き去りにしてごめん。つらいこと、全部押し付けてごめん。ずっとずっと、忘れたままで、ごめん。


「大丈夫……、もう、大丈夫だから」


 そう、怯えたように肩をすくめる影に手を伸ばす。言葉と一緒に、なぜか涙が溢れた。置き去りにした感情が戻ってくる。


「みんな、居るから」

「おう。すんぞ、草野球」


 影が見えているのかは分からない。それでも、丹羽君は腕を組んで、どこか偉そうに「人数足んねぇんだからな」と言う。


 みんな、居るから。監督も、丹羽君も、レンレンも。みんな、みんな、この夏で待っててくれてるから。


「帰っておいで」


 そう、微笑んで。影の手が、私の手に触れた瞬間、消え去って。ぐらりとめまいがした。

 ああ……ああ、そうだ、こんな気持ちだった。悲しくて、悔しくて、それでも野球が、みんなが大好きで、仕方が無かった。


「……美咲」

「ううん。大丈夫」


 ずきずき、ずっと痛かった頭の代わりに胸の奥がひどく痛い。

 胸を押さえて、馬鹿みたいに涙を流す私に丹羽君がハンカチを差し出してくれるのを、首を振って断る。


「ハンカチとか、大人みたい」

「大人なんだよ」


 そうだよね。もう大人なんだよね、私達。そう言って笑ったら、丹羽君に思い切り抱き締められた。ドラマで見るようなロマンチックなやつじゃなくて、どちらかと言えばラグビーとかアメフトみたいに。


「もっとロマンチックにお願いします」

「球児に何求めてんだアホ」

「あはは、確かに」


 ぎゅうって、丹羽君の背中に腕を回してしがみつく。やっぱり涙は止まらない。


「ごめん……、なんか、ごめん」

「いいよ。六年分だろ。泣いとけ」

「なにそれ……キャップ、男前……」

「気付くのが遅ぇんだよ」


 六年遅ぇわ、って。そう言って笑った丹羽君が、「今度の日曜空いてる?」って、私の顔を覗き込んでくる。


「美咲、久々にデートしようぜ」

「……青春アオハルかよ」

「青春の続きだよ」

「馬鹿」


 なんでだろう、その瞬間、思い出した。あの夏の暑さとか、入道雲の高さとか。帰りにみんなで食べた安いアイスのソーダ味。

 それから、聞こえた気がした。誰かがどこかでホームラン打ったんだろうなってくらい清々しい、カキーン! っていう、金属音。


 ああ、私の夏が、帰って来た。


 夏は嫌いだなんて、もう、言わない。












End.

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あの夏へ、君を迎えに。 よもぎパン @notlook4279

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