認知症が悪化し、介護の苦しさに母が音を上げた結果、祖母は二年前からとある近くの老人ホームに入居していた。駐車場には広々とした庭があり、落ち着いた場所だったので母がここに決めたのだ。

 駐車場を出た先には、坦坦たる田園が一面に広がる。視界を遮るものは一つとしてない。四方の山々は、そののびやかな起伏を陽の光にさらし、雨の日は幽玄な霧の衣がそれらを包むのだった。

 だが室内のベッドでほぼ寝たきりの祖母には、その景色の美しさが目に入らないようだった。母は足しげく通っては祖母との会話に時間を割いていたが、次第に会話が噛み合わなくなっていったのだという。

 私は奈良の山々を愛しているといっても過言ではない。だがこの感情を郷土愛だと解釈するのは誤りである。大和平野を囲む山々には古代の悲しみが生きている。それは私にとって天女の舞であり、春の長雨にこぼれた花のこうなのだ。祖母が亡くなった今、その間の距離はますます開いて感じられる。



 祖母は大正十四年、水戸の地に生を享けた。色彩感覚や音感に秀でており、感性豊かな少女だったという。

 祖母の家系は生まれつき肺が弱く、女性は皆結核を患っていた。起き上がれない時は読書をして過ごしていたそうだ。周りの人間からは「二十まで生きられない」などと言われていた。

 当時は結核の治療法が確立されておらず、安静にするしかなかった。やがて母が亡くなり、女学校時代に空気のよい奈良の天理に移り住んだ。叔父の働きによって、天理教の教会で面倒を見てもらうことにしたのだ。教会では食料に困ることがなく、身体が強かったこともあり、祖母の病は治癒していき、その地で敗戦を迎えた。

 その後の祖母の働きぶりは、譬えん方も無かった。大阪で商売を始め、娘にあたる私の母が結婚してもなお、七十一までひたすら働き続けた。

 「私は不細工だからいつも笑っていないと」と言って笑顔を絶やさなかった祖母。その心裡にはどれほどの涙と労苦があったのだろうか。自意識過剰だった幼少の私には、その笑顔が嘲笑っているように見えるのだった。私はその笑顔を酷く嫌っていた。祖母にとって、私が唯一の孫となる運命は決定づけられていた。そして祖母はその運命を愛し、ひたすら一心に受け入れて人生を全うしたのだ。いくら感謝を伝えたくても、もはや万事休す。気付くのがあまりにも遅すぎた。


 帰宅し、二階の自分の部屋に戻ると、掛け時計が止まっていることに気が付いた。私は階下に降り、単三電池二本をリビングから持ってくると、祈るような思いでそれを時計にはめ込んだ。

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骨拾い 火野佑亮 @masahiro_0791

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