第57話

「ほら、降りるぞ!」


 下を向いていたらいつの間にか眠ってしまっていた美乃里は安原の大声で起こされた。寝ていたのでどれほど時間が経過しているのかが分からなかったが、降りた車が停まっているのは大通り沿いに建つ五階建てのマンションの駐車場らしかった。


「どれぐらい乗ってた?」

 思わず理々子に小声で確認する。

「そうですね、一〇分ぐらいでしょうか」

「ふ~ん」そう訊いてから見渡してみると、美乃里の家からもそう遠くはない場所らしく確かにどこか見覚えのある風景だった。

「そらっ! 行くぞ」


 ぼうっと周囲の風景を見ていたら大声で呼ばれた。慌ててついて行くとエレベータに乗せられ連れて来られたのは最上階だった。


「どうぞ、遠慮なく上がって、二人ともこっちにいらっしゃいな」

 玄関の三和土でどぎまぎしていたら、先程の初老の女性に上がるように促された。どんどんとことが進んでいくことに戸惑い無言で頷くことしか出来なかった。

「えーと、あなたが小西さんだったわね。初対面の人の家でなんてイヤかもしれないけど、まずシャワー浴びてらっしゃい」

「ふえっ!」


 先程まであんなに文句を言っていたハズなのに急に自分の名前を呼ぶことにも、事情をすべて理解した風にシャワーを勧めることにも戸惑ってしまい美乃里は素っ頓狂な声を上げた。

 そんな美乃里の様子を女性が声を立てて笑う。

「ああ、あなたは車の中で眠っちゃってたから分からないのよね。ここに着くまでのあいだに事情は全部訊いたってことよ。あなたは小西美乃里さんでしょ? 写真撮るのに夢中で池に落ちたって訊いたけど、違う?」

「あ、いえ。違わないです」

 美乃里はもう自分の得意技のように、赤面した。


「いま、ダンナがシャワー使ってるから、出て来たら使って。その間にスカートを洗ってアイロン掛けとくからゆっくりしてくれたらいいわ」

「あ、はい。ありがとうございます、ごめんなさい。えと」

「あらやだ、ごめんなさい。そうよね、寝ちゃってたのよね。じゃ、はじめましてね。私は安原の家内でチノと言います。草冠に矛盾のム、それから野原のノね。それで茅野。なんだか女性って言うか人の名前っぽくないってよく言われちゃうんだけどね。と言うか茅野っていう人と結婚しなくて本当に良かったと思ってるの」


 そう言って茅野はまた笑った。エクボがとても印象的だった。


 美乃里は安原と入れ替わりでシャワーを借りた。


「私と体格が同じぐらいだから私のスウェットを着ておいて。下着はそういうワケにはいかないでしょうから、今のまま使ってね」

「はい、大丈夫です。ありがとうございます」

 浴室のドア越しの問いかけに答えながら、美乃里は撮影の手応えを思い出してニンマリした。


結果が伴ってくるかどうかはまた別の問題として、撮影についての悩みがひとつ解決出来たことがただただうれしかった。


「シャワーいただきました。ありがとうございました」

「いただきましたなんて古風な言い方ねぇ。スウェットもちょうどみたいでよかったわ。こっちで座ってゆっくりしてらっしゃい」


 勧められたソファでは理々子が飲み物をあてがわれてまったりとしているところだった。理々子の横に腰掛けて茅野の出してくれた紅茶に口をつけた時に正面の写真に気が付いた。黒、灰色、藍、朱、橙・・・・・・、様々な色に染まった雲が折り重なって彩っている夕空を写したものが掛けてあった。


「もしかすると、これって安原さんがお撮りになられたんですか?」

「あら、気が付いた? でも半分正解。つまり一式じゃないほうの安原ってことね」

「え? っていうことは」

「そ! 私。ダンナの影響で私も写真が好きになっちゃったのよ」

「え! すごい」

「凄くなんかないわよ、いわゆる下手の横好きってやつなんだから。ダンナの横でなんとなく面白そうだからやってみたってだけ。それでもってダンナがおだて上手なもんだから結構自分でも『いいかも』って思える写真が最近になってやっと撮れるようになってきたかなってところなのよ」


「これって?」

「すぐそこの海岸から撮ったの。私はダンナみたいにあっちこっちにロケハンなんか行けないわ。でも、いちいち探しになんか行かなくたって二つと同じ天気はないんだから、題材には事欠かないし、興味は尽きないわ。これはね、どういう加減なんだかほんの数分間だけこんな感じになったの。こんな出会いがあるから止められなくなっちゃうのよね。そんな気持ち分かる?」

「分かります分かります。でもあたしにはあらかじめじっくり計算して撮られてるようにしか見えないです。そんなに短時間で撮られただなんてとても信じられない」

「ホントに? 嬉しいわ。そう思ってもらえたのなら撮った甲斐があったわ。ありがと」

 茅野は作品を褒められたことを心からよろこんでいるようだった。


「私はね、写真を撮る時にはまず題名を決めて撮るの。それでこれは『緞帳』って名付けたのよ。覗きながらどんな題名がふさわしいかなぁって考えてて、劇場の緞帳みたいだなって思えたから。題名を閃いたらとにかくそう見えるように撮るわね」

「え、それってどういうこと、ですか」

「観る人にも『緞帳』みたいに見えるように構図を工夫して撮ったってこと。実際の景色で言えば画面の少し右側には山があるんだけど、それが入ることで緞帳らしくなくなっちゃうと思ったからそれは切って、逆に左側の岩礁が入ってくることでアクセントが利いて画面が引き締まると思ったからそれは入れるようにして全体を整えたってこと、かな」

「なるほど。でも、それを瞬時に判断するのって難しそうですね」

「ううん、難しくなんかないわ。目の前のものを撮ろうって決めた途端にひらめく場合もあるし覗きながら思いつくってこともあってその時々でまちまちなんだけど、思いついたら何が必要か不要かも分かるようになってくるものよ」

「はぁ・・・・・・そうなんですか?」

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