第55話

「美乃里さん、わたくしがもう少しよく調べておけばよかったです。日を改めて今度は朝来ることにして、今日はもう帰りましょうか」

「ううん、師匠は全然悪くないよ。それに蕾でもないわけじゃないんだし、撮って帰ろうよ。あたし、安原さん見てて分かったような気がするんだ」

「そう、ですか? よろしいのですか」


「うん、まず題材を好きになるってことが大切なんじゃないかなぁ、って思ったんだよね。だからさ、ちょっとそういう気持ちになれるように被写体に向き合ってみるよ」

「なるほどです。分かりました、そういうことでしたらわたくしもお付き合いいたします」

「ありがとう。まずは形が良くてあたしのレンズでも狙える近場の蕾を探さなきゃね」

「そうですね。そうしましたら、安原さんのお邪魔にならないように静かに探してまいりましょう」


 二人は安原の撮影を妨げないように蓮池の外周に巡らされた小径を題材になりそうな蕾を探しながら歩いた。

「美乃里さん。美乃里さん、これなんかどうでしょうか」

 理々子が指した先にはほど良い距離感のところにちょうど両手を膨らまして合わせたぐらいの大きさの蕾があった。上手い具合に池の柵も途切れていて近寄りやすい。


 さっそく美乃里は理々子の教えてくれた蕾をファインダー越しに確認する。

「あぁ・・・・・・うん、割とイイ感じみたい。ありがとう。今日はこの子一筋でいってみる」

「そうですか、よかったです。では、わたくしもこの近くで被写体を探して撮影することにしますので、ご不明なことがあればいつでもなんでもお声をお掛けください」

「うん、分かった。ありがとね、師匠」

「いえ、とんでもないです。では・・・・・・」


「さてと・・・・・・」美乃里は集中しようと目をつぶり息を整えた。


もしかすると今までは主将に褒められることに執着し過ぎていたのかもしれない、と思う。だから今日は今までのことはすべて忘れ、主将に言われた通りにとにかくひとつの題材にとことんこだわろうと改めて心に決める。


 まずは花に向き合い横正面から二枚撮り、そのままの姿勢で右横方向にズレて二枚。次に反対方向にズレて三回シャッターを切った。その次は腰を落として蕾を見上げる位置から三枚。そこでも左右へアングルを替える。さらに俯瞰で三枚。そして、ほぼ真上から蕾の中を覗き込むように四枚。シャッターを切る時はブレないように脇をしっかり締めて息を止めることも忘れなかった。


 ひとつの花にこだわって撮っていると、どうしたら被写体の表現に変化をつけられるのかを考えざる得なくなる。考えながら撮っているうちに光の当たり具合が替わると花の印象も変わることに気が付いた。だから今度は影の形にこだわって撮ってみることにした。ほんの少しの違いなのにまったく違った表情になることがあるのが面白かった。それが分かるとシャッターを切るのが楽しくなった。


夢中になって少しづつ横に位置を替えながら撮っていたら、いきなり目の前から蕾が消えた、というか蕾がすごい勢いで横に流れて行ったように感じた。


「何?」と思ったら、自分の左足が池の中に嵌ってしまっていた。もう片方の足を池の縁に残しながらどんどん池底の泥に飲み込まれていく自分に笑ってしまいながらカメラだけは守ろうとする自分がいた。そう言えば、フグを撮った時もよくカメラが無事だったなぁと思いながら、チアで培った自分の運動神経を褒めてあげたかった。


「なになさってるんですか! 美乃里さん!」


 完治してるとは言えない腰が限界かも、と思い始めた頃、理々子が気が付いて駆けつけてくれた。

「いや何してるって言われてもねぇ。落ちちゃったんだよね。それよりさ、カメラを受け取ってくれる? 落としそうでコワいわ」

「あ、はい。大丈夫ですか? 手を引っ張りますよ。いいですか?」


 美乃里の手から受け取ったカメラをカバンの上に落ちないように置いてから今度は理々子が美乃里の右手を取って引っ張り上げようとする。

「いたたた! 理々子、痛い。ちょっとね腰が来ちゃいそうなんだよね」

「申し訳ありません。えーと、どうしましょう。えーと、えーと。あ! ちょっと待っていてください。先程の安原さんにお願いしてみます」


 美乃里は少し気が引けたが、痛み始めた腰を思うと背に腹は代えられなかった。

「う、うん、お願い。出来れば、なるべく早くね」

「はい!」と言うと、理々子が安原がいた方向へと駆けて行った。


「オイオイオイオイ、どうしちまったぃ。彼女の言ってることが、さっぱりもって要領を得ねぇんで来てみたら、なんだかえれエことになってるじゃねぇか。いいか、俺の肩に両手をまわせ。カラダの向きを替えられるか? 少しの間の辛抱だ、ちょっと痛くても我慢しろよ。いいか? 引っ張り上げるぞ。そらっ!」


 安原は池の端に両膝を着いて美乃里を自分のカラダに抱き着かせ自分は美乃里の脇から腕を差し込んで一気に抱き上げようとした。

「ふぁっ!」美乃里の口から息が洩れる。

「おい。耳元で変な声出すんじゃねえよ。くすぐってぇじゃねぇか」

「あ、ごめんなさい。でも、靴が・・・・・・。靴が脱げちゃいそうなんです」

「ちっ・・・・・・。しようがねえなぁ」というが早いか安原はおもむろに自分の靴を脱ぎ始めてズボンの裾を膝までたくし上げる。そして、池の中にゆっくりと入って行った。


「え? 安原さん、いいですいいです。申し訳ないです」

「よくねえだろう。ちょっと待ってな」

 安原が美乃里の脚が埋まっている辺りの泥の中に手を突っ込んだ。

「うん、よし! いいか? 俺がお前ェの足の下に手を回して支えるから、脚を引き抜け」

「は、はい。ごめんなさい」

「いいか? よし!」

「うんっ。・・・・・・は、はぁ。あ、抜けました。もう大丈夫です」

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