第29話
「端の方から持ち上げて裏返すの。ハネないように気を付けてね」
美乃里は、液中の印画紙の端をピンセットでつかんで持ち上げ、少し戸惑いながらなんとか裏返す。
「そうしたら一○秒おきにピンセットで軽く印画紙を揺するように泳がせて」
「こんな感じかな? 何回ぐらい?」
美乃里が印画紙を揺すりながら訊く。
「そう、そんな感じで一○回ぐらいね。それを五セット」
「ということは現像はトータルで五○秒ってことになるのかな」
「そういうこと。静かにゆすぐような感じでね」
「分かった。なんだかしゃぶしゃぶしてるみたいだね~」
「しゃぶしゃぶ? 鍋の? え~?」
「なんとなく似てない? 動作的に」
「まぁ、似てなくはないかもしてないけど・・・・・・」
「ね? でしょ。ホラ、しゃぶしゃぶしゃぶしゃぶ、と」
「なんかお腹すいて来ちゃった」
「さっきランチ食べなかったっけ。マフィン二つとおにぎりと」
「そうだけどさ。しゃぶしゃぶなんて聞くとなんだか食べてるとこ想像しちゃわない?」
「いや、ただ単になんとなく似てるってだけで何の関係もないし」
「美乃里がそんなこと言うからいけないんじゃない」
「おいおい、あたしのせいかよ」
「はい、一○秒」
「しゃぶしゃぶしゃぶしゃぶ、と」
「私はねぇポン酢が好きなのよ」
「へー、そりゃまたなんで」
「ごまだれってコッテリしてるから量が食べられなくない?」
「なんか分かるような気がするけど、あたしはごまだれ派女優ね」
「なによ、その女優ってのは」
「いや、まぁなんだな」
「はい、一○秒」
「しゃぶしゃぶしゃぶしゃぶ、と」
「でも、量が食べれないってことは、結構食うってことの裏返し?」
「あーバレちゃった? ウチは三人で一キロぐらい食べるのよね」
「え? それってすごくない?」
「しゃぶしゃぶとかすき焼きとかいつもそれぐらいね」
「だからそんなにデカいのか? ウチはどれぐらいなのかな」
「私も他の家がどれぐらいなのかは知らないな。あ、一○秒」
「しゃぶしゃぶしゃぶしゃぶ。ねぇ、これで終わりじゃない?」
「そうね。じゃあ裏返してみて」
「分かった。よっと。お? おおおお、おお。藤香、これって?」
「そうよ、美乃里のフグ。あ、フグ鍋もいいわね」
「おいおい、そっちかよ」
表に返された印画紙には、なんとなくうっすら画像らしきものが浮かび上がっていた。
「このまま待って一分三十秒。だんだん色が濃くなって来るから」
「これが理々子が好きだって言ってただんだん絵が浮かび上がってくるってトコなのね」
「へえ? 理々子がそんなこと言ってたの? うん、私もこの時間好きよ。だんだん絵が浮かび上がって来るとゾクゾクってしちゃう。それにしても面白いね、フグ。仕上りが楽しみ」
「あの後、題材探しに砂浜まで行ったんだけどコレと思えるものがなくてなかなか写真が撮れなかったの。でも、この子に出会って気がついたらフイルムが終わってたのよねぇ」
「カメラはどう? おもしろい?」
「まだ撮ったのは一本だけだし、理々子にカメラの使い方を教わりながらって思ってたんだけどぜんぜん訊けてないし。まだカメラをどうこう言える状態じゃないのよ。でもこれは思ってたよりずっと面白い気がする」
「よかった。ちょっと強引に入部させちゃった感があったから心配してたのよ。でもそれを聞いて安心した」
「え? そんなに心配してくれてたの?」
「結果的には主将の写真をエサに美乃里を引っ張り込んだみたいなもんでしょ」
「そういえばそうなんだけど、もとはと言えばあたしがそのエサを貰いに来るという大胆な行動を取ったことが発端なわけだし・・・・・・」
「美乃里の気持ちは分かるけど、本当に実行しちゃう人がいるなんてまさか思わなかったわよ」
「自分でもすごいこと思いついたもんだと思うもん。ははは」
二人で顔を見合わせて大笑いした。
「・・・・・・ありがとう」
「え?」藤香の声が小さかったので思わず聞き返す。
「ありがとう・・・・・・写真部に入ってくれて」
「ううん。あたしも楽しいもん。あたしこそ誘ってくれてありがとう。自分からは多分絶対に踏み込まない世界だって気がするから、あの時に藤香が手を引っ張ってくれたことをすごく感謝するわ」
「だと思ったのよね。もっともっと私に感謝してもらってもいいよ」
そう言いながら藤香が両手を腰に当てて胸を張る。それを聞いて呆れてしまうぐらい藤香らしいセリフだと美乃里は思った。
「なぁに? なんか私の顔についてる?」
どうやら無意識のうちに藤香を見つめてしまっていたらしい。
「え? う、ううん。何でもないよ。写真は思ってたより楽しいし、なにより藤香と友達になれたのがうれしいなって思って見てたトコ」
美乃里はとっさにそう言ってごまかした。
「え? うれしい! 私こそ美乃里と友達になれてよかった」
美乃里を軽くハグした藤香はハンカチと同じ香りがした。
一分三○秒、意外と長くも感じるあっという時間が過ぎ現像液の中で美乃里のフグの輪郭が静かに段々と確かになり濃淡が明らかになっていく。
今まで感じたことのないような感覚を鳥肌で感じた。これは病みつきになりそうだ、と美乃里は確信のようなものを感じた。
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