第21話
それから二回、美乃里は目をつぶって練習をした。
「いよいよやりますか、先生」
「うむ」
「ご武運を」
「うむ、いざ」
「ばんざーい、ばんざーい」
美乃里は少しの間目をつぶった。そして小さく頷いてからダークバックに挑んだ。
「エイッ、ままよ。えっと、これとこれと、えぇとハサミは? ん。あ、あったあった。じゃあ開けるね。ん、ん。おー。出てきましたよ。で、これをまっすぐハサミでじょきんと。で、この端をパチンと。ふー、ここまではオッケーかな。そうしたら上と下を持って、ええと、よしよし、いいぞ。すっすっすっすっと。よしよし、よしよし大丈夫。行ける。これは行けるぞ。コーチ、行けます。あたし、行けます。よしよしよしよし、いいぞ。でと、最後に確認をして、回る? うん、よし大丈夫だね。と、これでどうだ!」
ファスナーを慎重に開けながら美乃里は現像タンクを取り出す。
「どうでぃ」
「おお、やったじゃん」
「ふふん」
「うん、大丈夫! ひとつ大人になったね、美乃里」
「ありがとう。これでもうおヨメに行けるかしら」
「うーん、それはどうかな」
「ちぇっ!」
「そうしたらここに現像液を注入するの」
「え、ここに?」
「今の季節なら現像液の液温は二○度。さっきまで樫雄が作業してたから今回は大丈夫だけど、自分でやる時は液温計で確認してね。これが冬場ならば二四度がいいの。メスシリンダーで量を測るんだけど、現像タンクには何ミリリットルって書いてある?」
「このフタに書いてあるやつ? 五○○ミリリットルかな」
「じゃあ、このメスシリンダーで測って」
「えーと、ととと、っと。はい五○○」
「フタに突き出てる軸の根元部分にゆっくり静かに注いでいって。静かにね」
「分かった。そーっとね。これって全部?」
「うん。じゃあ今から七分。タイマーをセットするね」
「え、今から? 入れ終わってからじゃなくていいの?」
「うん、入れ始めから」
「分かった。んー・・・・・・とっとと。藤香、全部入れたよ」
「はい。じゃあタンクを机の上でトントンして」
「え、トントン?」
「そー、フイルムに泡がついてるとその部分に液が行き渡らなくて現像ムラになっちゃうの。だから現像タンクごとトントンして泡を消しとくのよ」
「へー。ふつーにトントンで良いの?」
「うん、当てる角を微妙に変えながら二○回ぐらい」
コンコン、コンコン。
現像タンクの底角を机に当てる音は、静かな暗室の中で久しぶりに聞くはっきりした音のように美乃里は思った。
「三○秒経ったから、もういいかな。そうしたら五秒間軸を回して」
「え?」
「現像液を全体にムラなく行き渡らせるよう回して攪拌するのよ。声を出して五つ数えると分かりやすい、っていうか私はそうしてる」
「いぃち、にいぃ、さぁん、しいぃ、ご。こんな感じ?」
「そうね。全然関係ないんだけど主将は関西弁じゃない? だから数を数えるにもイントネーションが違ってて面白いのよ」
「え、おもしろいって」
「うん、節がついてるんだよねぇ。今度聞かせてもらってみて」
「うん、うん。今度覚えてたら聞かせてもらお」
「はい、三○秒」
「いぃち、にいぃ、さぁん、しいぃ、ご、っと。ということはこれを十四セットするって訳ね」
「ううん、あと十三セットよ」
「細けぇな」
「こう見えてもA型なのよ」
「へー、そんな感じまったくしないね。ちなみにあたしゃO型」
「おー、分かる分かる」
「そりゃ、けなしてんのか?」
「なんでそうなっちゃうのよ。はい三○秒」
「いぃち、にいぃ、さぁん、しいぃ、ご」
そんなやり取りをしながら七分が経過。
「現像液は捨てちゃっていいの?」
「ううん、何回か使いまわすから薬品瓶に戻して。で、次はこっち」
「これは?」
「停止液」
「ツン、とくるね。お酢みたい」
「そりゃそうよ、希釈した酢酸だもん。停止液の時間は三〇秒ね」
「へー。そうなんだ」
「三○秒経ったらそのまま捨てちゃっていいからね」
三○秒後、美乃里は停止液をシンクにそぉっと流した。
「捨てる時タンクを振らないでね、液ムラになっちゃうから。で、今度は定着液の番」
「定着液の量は?」
「現像液と同じ」
「分かった。これはどれぐらいの時間するの?」
「これは使い回ししてる液だから一○分。作り立ての液は八分ね」
「そうなんだ。面白いんだね」
「うん、で軸をクルクル回してて」
「あ、うん。間隔は?」
「ゆうっくりでいいからずっとかな。ここまで来たら安心だから」
「そうなの?」
「うん、定着始めて三分ぐらい経ったらフタは開けても大丈夫」
「おー。そうなんだ」
「開けてみる?」
「ううん、一○分後でいい」
「おや、いいの」
「お楽しみは最後まで取っとかなきゃ」
「お、好きなものは最後まで食べないで取っとくタイプだね」
「そうだよ」
「私はいの一番に食べちゃうわね」
「藤香は自分のはサッサと食べちゃって人のお皿にまで手を伸ばしそうなタイプだよね」
「おー、よく分かったね」
「うん、なんとなくね」
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