第3話
彼女の名前は、高千穂ミランダ藤香。
三年なってからの転入生だ。名前と容貌から想像するとおそらくはどこかと日本のハーフで、名字から想像するとするとおそらくは父親が日本人なのだろう、ということしか誰一人として詳しい情報を入手出来ていなかった。藤香が来てから一か月も経っているのにも関わらずだ。
その松雲高一の謎が、目の前に居る。吹替えの映画を観るように流暢な日本語を操って、美乃里のよだれを拭いている。
よだれ? はっと我に返り、藤香の手からハンカチを奪い取り、言った。
「い、いいです」
我ながら、呆れてしまうほど間の抜けたセリフだった。誰よりもこの性格を自覚しなければならないのにまたやってしまった。頭に血が昇ると自らの言動に抑えが利かなくなってしまう自分が美乃里は少し情けなくなる。
「大丈夫?」
藤香がよだれをぬぐう美乃里の瞳を心配そうに覗き込む。
美乃里はほぼ無言で頷くことしかできなかった。
「あ、どうして転校してきたばかりの私が写真部の副将なんかしてるんだ、って思ってるんでしょう?」
笑顔で美乃里の心持ちを見透かすように藤香が訊ねた。
「私ね、とにかく写真が好きなの。撮るのも撮られるのも。だから写真部に憧れてたんだけど前の高校にはなかったのよ。でも、松雲高校にはあるじゃない? 並みの写真部じゃない写真部が。だから転入の手続きをしに来た時に入部届けを出しといたの。そうしたら転校の初日に二本松主将が教室に来てね『作品を十枚見せろ』って言ったのよ。だから放課後に家に帰ってからすぐに作品ファイルを持って来たの。で、二枚目を見るか見ないかの内に『あなたを当部の副将にお迎えしたい』って言われて」
「えぇっ?」
「でしょー。私もあり得ないと思ったのよ。だから、最初は辞退したの。だって私が副将になるってことは、それまでに副将だった人を引きずり降ろすってことでもあるわけじゃない。そんなの寝覚めが悪いわよ、ねぇ。私もそう思って、断ろうとしたの」
寝覚めが悪い、なんて、藤香の容貌からは、およそ引き出される言葉ではない気がした。
「そしたらね、言うのよ主将が。今は空位だから気兼ねはしなくていいって。だから、言ったの。作品を認めてくれたのは光栄なので出来ればお受けしたいんですけど、良いんでしょうかって。だってねぇ何も知らない人間がいきなり副将になるって言うのは、無理があるじゃない?」
美乃里は思った。藤香は自分にはない深い思慮というものを持ち合わせている人なのだと、そしてなにより早口なのだと。
「でもね、こうも言ったの。私の作品をちゃんと最後まで見てくださいって。どれも私の自信作なんですから、最後まで観ていただけないのは不本意ですし作品にも失礼ですってね。そうしたら主将が謝ってから観てくれて、最後に『堪能しました』って言ってくれたのよ。あの二本松康岳が、よ。思わず抱きついちゃった!」
ペロッと舌を出した藤香はとても可愛いらしかった。
「あんまりうれしくて、主将がそこまで言ってくださるんならって、お受けすることにしたの。樫雄とかも歓迎してくれたし、ね」
と藤香は最後の来訪者が不発に終わったらしく机を片付けている樫雄をなんとなく眼で追った。
「訊いててちょっと分からなかったんだけど、松雲高の写真部って『並み』じゃないってどういうこと」
美乃里の質問に透き通った碧眼がこれ以上ないぐらい大きく見開かれた。
「やだ。そうよねえ。興味ない人は知らないかもしれないわよねェ。ごめんなさい、私ったら。うーん、美乃里は写真家で知ってる人っている?」
「うぅん。分からない。たぶん一人も知らないかな。でも写真展で二本松くん・・・・・・主将の写真観て、どうしても会ってみたくて」
「あはは。会ってみたい? へー、彼そんなこと言われたら照れて真っ赤になっちゃうわ、あとで直接言ってあげて。そうね、写真部のことよね。うーん、そうねェ、じゃあ、写真誌とかカメラ雑誌とかあるのは知ってるかしら」
「本屋はよく行くんで、なんとなくは見たことあるかな・・・・・・」
「そういうカメラ関係の雑誌には、かならず投稿コーナーっていう類のページがあるの。読者から毎号投稿された写真の中でも優秀な作品は誌上で発表されて講評までしてもらえるんだけど、松雲高校の写真部はどの雑誌でも常連なのよ」
「へ~え、そうなんだ」
「それで、ウチの高校出身のプロカメラマンも結構いるの。だから、その道ではけっこう名前が通った学校なのよ。たとえばぁ・・・・・・」
美乃里は自分から訊いておいて悪いとは思ったものの全く興味が持てなくて話の半分も聞いていなかった。
「あら、全然興味なさそうねえ」
知りたいことだけ訊いたらあとはボーっと聞き流していたのを気付かれたようで美乃里は少し焦った。せっかく落ち着いてきた顔がまた火照る。
「ね、訊いていい」
美乃里の無防備の心を見透かすようにタイミング良く藤香が訊く。
「な、なに」
「二本松康岳の写真って、好き?」
「うん。たぶん、好きだと思う」
藤香のずいぶんと直球な質問に、自分の気持ちをあっさり言えたことに美乃里自身もちょっとびっくりした。
「たまたまいつも行く本屋さんのギャラリーで二本松主将の写真展をやっていて、偶然観た一枚の写真から目が離せなくなっちゃって。どうしてもその写真を撮った人に会ってみたくて。それで来たんだけど」
藤香が微笑みながら、言う。
「きっと『光溢』よね。島影と夕陽の写真でしょう」
「う、うん。たぶん、それかな。作品名も見てないし、他の写真も全然観てないんだけど」
「分かるわぁ。あの写真の『光』の扱い方は尋常じゃないわよねェ」
「うん。観たあとも眼を閉じると瞼の裏にずうっと眩い光が蘇って来て。今朝まで一睡も出来なかった
「え、それじゃ、観たの昨日ってこと? よかったわ、間に合って。あの作品こそ、まさに眼福よね。美乃里のその感覚、すっごくよく分かる」
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