第2話



「ねえ、写真部の部室ってどこかな?」


 入れ違いに文化部棟から出て行こうとしている小柄な女子に声をかけた。緊張に加えて運動部棟とは異質な雰囲気にも臆してしまい一歩を踏み込めずに扉の前で逡巡していたのだ。声を掛けたのは、自分の気持ちを奮い起こすためでもあった。


「あ、写真部? えーと、そこの矢印をたどって行って。一番奥の部屋だからすぐ分かると思うけど」


「矢印?」小脇にスケッチブックを抱えた女子生徒が指差した壁には確かに紙に描かれた矢印が「写真部」という文字とともに写真部室までの道筋を示しているかのように点々と貼られていた。


 教えてくれた子の後姿に礼を言い、張り紙に早く気が付いていればよかったと、扉の前の足踏みをもったいなく思いながらいよいよ文化部棟に足を踏み入れる。


 運動部棟と同じ長さのはずなのに道のりをとても長く感じるのはどうしてなのだろう。板張りの廊下を進むにつれ段々と強くなってくる異様な臭気も気になる。進みながら「あ」と思い出し、教えてくれていた彼女が鼻をつまむ仕草をしていたのにふと考えが及ぶ。あの仕草はこのことだったのか、と。


 臭い、がいよいよ強くなり、発生源が目指す「写真部」であるとの疑いようのない事実が導き出された時、辿って来た矢印の形が人差し指を立てた下手なイラストに変わり「写真部はココ」と描いた紙が貼ってある扉に行き着いた。


 先程からの鼻孔を突き刺すような臭いは最高潮に達し何とか無視しようとしてきた胸の奥の火種とも疼きとも感じられる早鐘の鼓動も、もはやその音が他人にも聴こえるのでないかと思えるぐらいの状態だった。


 大きくはない胸を上からギュッと両手で押さえ、息を思いっきり吸いこんで、むせた。極限状態でこの悪臭を一瞬忘れていた。

 

 ノックして失礼しますと言いながら応答を待たないで扉を開けた。一瞬臭いが強くなった気がした。


「ようこそ、写真部へ! はい、ここに名前と学年クラスを書いて」


 開けた扉に対峙するように置かれた長机の向こう側に座っていた男子生徒に、言われるままにほぼ条件反射で名前を書いた。


=小西美乃里、三年A組=


「あれェ、三年かぁ。なんだぁ、当てが外れるなぁ」

 こちらに向かって座っていた男子が、やたらと失礼なことを言う。

「どうしてそんなこと言われなきゃならないんですか。というよりどうしていきなり名前なんか書かされなきゃいけないんですか!」


 美乃里は猛烈に腹が立って、かなり強い口調で抗議した。

「え、だって写真展観て来たんだろ、写真部に入りたいって」


 入部希望ではもちろんないが、理由の半分を当てられてたじろぐ。

「写真展、観て来たのは当たってますけど、入部希望じゃないです」


 美乃里は言葉を探しながら主張したが、かなりふてくされた口調になってしまった。

「え、入部希望じゃない? じゃあ、なんで来たの」

 向こうも明らかに不審者を見るような目つきに変わった。なんだか気分が悪い。顔が火照っているのが分かる。もはや極度の緊張のためか憤怒のためなのか分からなくなってきていたが、そんなことはどうでもよくなっていた。


「しょなんなこと、どだっていじゃなすか!」

「なになに、彼女なに怒ってるの? ちょっと気を鎮めようよ」

「彼女」呼ばわりされたことにも腹が立ち、溢れる怒りでろれつも回らない。末期だ、と自覚しながらも抑制が利かなくなっている自分に対しても美乃里は腹が立った。


「おい、藤香。頼む、彼女見てやって。はい、次の方、どうぞ」

 後からも「入部希望」とやらが来たらしい。美乃里は厄介者よろしく横へはじかれてしまった。


 件の男子生徒に二の腕をぐいと掴まれて脇に退けられたことも癪に障りもうちょっとで美乃里は叫び出しそうになった、その時だ。


「ごめんなさいね、粗野なもの言いで。さ、こっちに来て」

 怒りとなんやかやで震える自分の肩にそっと手を添えパイプ椅子を勧めてくれた女子生徒を見て、美乃里は固まった。


「彼はね、加農樫雄。あなたと同じ三年よ。部のムードメーカー的な存在なんだけど、訳あって今は少し浮き足立っちゃてるの。悪い奴じゃないんで、許してあげて。今の彼には、ちょっと余裕がなくなってるから、私が代わりに謝るわ。本当にごめんなさい」

 そう言って丁寧に頭を下げる彼女をポカンと見つめていた。


 彼女のことは知っている。多分我が校一の有名人だ。彼女と少しでもいいから言葉を交わすことを夢見る男子は掃いて捨てる程いるに違いない。それなのに誰もそれ以上詳しいことを知らない。いや知りたくてもガードが固くて誰も入り込む隙がないのだ。その彼女が、なんでこんなところにいるんだろう。


「どうして、あなた、こんなところにいるの」

 咄嗟に口を突いて出たのは疑問そのままの言葉だった。でも彼女の答えは美乃里の予測をはるかに超越していた。


「え? ああ、私は写真部の副将なの」


 よく『開いた口が塞がらない』という比喩を口にすることがあるが、そんな生やさしいものではなかった。しばらくして彼女に指摘されるまで本当に美乃里の口は開いたままだった。


「え、やだ。ちょっと、よだれが垂れてる」

 と、彼女が美乃里の口許に持ってきてくれたガーゼのハンカチはラベンダーのいい香りがした。

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