二週目の聖女

吉尾唯生

第1話

 休みの日は思い切って陽の高いうちからダラダラとお酒を飲む。どこにも出かける予定がないから寝て起きたときのままだ。

 ワイングラスに赤いカシス・リキュールを注ぎ、さらにスパークリングワインを注ぐ。グラスのなかの淡い赤と光が反射してキラキラと輝いている。

 それに引き換え私は「ノーメイクで頭ボサボサで、おまけにパジャマのまま。女子力低すぎじゃない?」と考えていると頬が熱くなった。酔ってるせいに違いない。炭酸の爽やかさとカシスの甘さは絶妙で手を止めることができない。その証拠に空のワインのボトルがテーブルの下に何本も転がっている。


 酔いを冷ますためにベランダを開けて外に出た。夜の闇とキリッとした冷たい空気を求めていたはずが、外はもう陽が沈んでいるというのにずいぶんと明るかった。それもそのはずだった。夜空には遠近感を無視した巨大すぎる満月が浮かんでいる。目に見えるものすべてを飲み込んでしまうほどの大きさだった。アルコールが回って私の目がおかしくなったのかと思い目をこすってみたけれど、変らず大きかった。大きいだけじゃない。血を流したような赤い色をしていた。


 街を行き交う人たちは滅多にお目にかかれない天体の神秘に感嘆の声を上げながら次々とスマートフォンを掲げて写真を撮っている。

 私も携帯を取り出し月にカメラを向けるとフレームにありえないものが映り込んでいた。

 それは大きな犬だった。いまマンションの6階部分から見ているから、おそらく体長20メートルぐらいあるに違いない。そんなサイズのものがいつ現れたのか。犬は歯を見せうなり声をあげながら鋭い目付きでこちらを見ている。捕食者が今にも餌を捕らえて食らおうとしていること思わせるような目だ。私は声を失う。


 カメラ越しに突き刺さってくる恐怖に携帯を持つ指が震え、手から携帯が滑り落ちていった。カン、カンッと乾いた音をたてながらベランダの角へと転がっていった。犬は身動き一つせず、じっと私だけを見ている。その目は月と同じ色をしていた。血の滴るような真っ赤な色だ。


 生々しい色彩にジリジリと後ずさりすると、犬は体を震わせ大きく口を開けて飛びかかってきた。私はよろめきながら手のひらを向けて両手を突き出したが、悠々と超えてギザギザした形が目の上から視界に覆いかぶさってきた。


不思議と痛みはなかった。稲妻のような光が渦を作って体の周りに広がり目の前が暗くぼやけていく。またたく間に真っ暗闇になり私はなにも考えられなくなってしまった。


***


 なにひとつない。色も音も、そして光さえも。そうであるのに闇のなかでもなかった。


 本当になんにもない、というのは大変気味がわるかった。私はそれでもなにかを見つけずにはいられなかった。ぐるりと辺りを見回した。でも期待外れに終わる。


 時が経つほどに、ひどく頼りない気持ちが胸のなかに次々にわいて出てくる。子供の頃、出かけた先で迷子になって、ポツン、と一人取りのこされたときのことを思い出した。心細くて、情けなくって。私はきっと世界から見捨てられたのかもしれない、と思って泣きたくなった。


「だれか……」と声をかけずにはいられなかった。そうでもしていないと足は慄え、酸っぱい匂いが胃からこみ上がってくる。こんなところに一秒だっていたくない。私は目を瞑ったままなにかに取り憑かれたようにデタラメに走った。


 前も後ろも右も左も分からないまま走っていると、なにもないところから突然「そっちに行ってはダメ」と声が聞こえた。

 ドキッとして足を止めた。体が慄えるのをどうすることもできなかったけれど、自分以外の人がいたということがわかり単純に嬉しかった。私は期待いっぱいに目を開けた。そして人影がこっちへ歩いてくるのを黙って見つめていた。

 その人は肩先までのつやつやの黒髪。タートルネックのセーターにチェックのミニスカートを身につけている。つり上がった細い眉に太めのアイライン。まぶたからはブラウンのギラギラ強めのラメが光を放っている。まるで私が生まれたころに流行っていたような濃い目のメイクだが年齢は高校生ぐらいだろうか。驚くべきことに彼女の瞳の色は赤色だった。さっきまでは戦慄を覚える色彩だったのに、いまはどこか懐かしさを感じる。


 彼女は私の顔を見るなり「時間がないからよく聞いて」と叫ぶような声を出した。

 あまりの迫力に驚いてしまって、口をポカンと開けたまま次の言葉を待っていた。

「あなたに選択の余地はない。リシュヴァに行くしかないの」彼女はきっぱりと言った。

「リシュヴァ?」

「私たちの本当の故郷よ」

「何を言ってるの? ちゃんと日本で生まれて育ってきたわ。そうでなければ、あなた宇宙人ってことなの」

 彼女は首を横に振る。

「宇宙人じゃないわ。でも宇宙には地球の他に計り知れないぐらい世界が多層的に存在していてリシュヴァはそのひとつなの。私たちはリシュヴァの化身。女神と言えばいいのかな」

 彼女は硬い表情になり続ける。

「あるとき飲んだ者に不老不死の力を与えるリシュヴァの霊薬をめぐって争いが起きた。争いはまだ終わらずリシュヴァは滅びようとしているの」

 私は彼女のあまりの言葉に耳を疑った。

「女神? 世界が滅びる? そんなもの誰が信じるというの」

「リシュヴァを救うまで、本当にあと少しだった。私では力が足りなかったの。あなたにはその続きを引き受けて欲しいの」

「全部あなたの都合じゃない。訳のわからないことを勝手に押し付けないでよ」

「あなたは私よ。同じ存在なの。だから……お願い」

 私は唖然として、まじまじと彼女を見つめた。彼女は真剣な目をしていた。

「本気で言ってるの? 悪い冗談はやめてよ」

「お願い聞いて……」彼女が悲しげに言う。不安そうな表情に良心が痛んだ。

「どうして私なの? あなたが行けばいいじゃない」

「私は行きたくても行けない。私はあなたの中にある魂の記憶のひとつ。私の役目はリシュヴァとあなたを繋ぐこと」

「……」

「もう世界を救ってくれとは言わない。でもお願い。彼だけは救って」

 彼女は顔を押さえて泣き出す。思わずぞっとした。なにか悪い冗談に違いない。回れ右をして彼女を置いて駆け出した。

「待って」彼女の声と足音が追いかけてくる。


 これは悪夢に違いない。私は必死に走った。ずいぶん長く走っているのに景色が変わらないせいで一体自分はどこに向かっているのか、前に進んでいるのか分からなくなっていた。ついに足がもつれて転んでしまった。立ち上がろうとしたけど、ふくらはぎに激痛が走る。もうダメかと思ったとき目の前に白い光が現れた。まばゆい光の先に手が見えた。いちかばちか、自分の運にかけるしかないと思った。私はその手に向かって足を引きずりながら這うように自分の手を伸ばした。「その手を掴んじゃダメ!」と後ろから声が聞こえたけれど、遅かった。手と手が繋がり、私たちは強く握り合う。そのまま強く引く力に体を任せた。

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二週目の聖女 吉尾唯生 @yoshiotadao

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