カレオバナ
たくや
カレオバナ
今から僕が話すのは、高校の夏休みの時の話だ。
高校の夏休みと言えば青春真っ盛りで、人生で一番楽しいひと時かもしれない。色恋に現を抜かしたり、部活に打ち込むとかそんな感じで。
そんな具合に僕の青春の一ページも輝かしく彩られているはずだったけれど、残念なことにがっかりするほど灰色な青春だった。青春と呼ぶのも憚られるくらい、味気ないものだ――ある一部を除いてはね。
僕が今から話すあの時のあの瞬間だけは、くすんだ青春の中で、輝かしい一ページと呼べるかもしれない。
まあ、判断は皆さんにお任せするけどね。
「これから家に来れる?」
ことの始まりは、小学校からの腐れ縁である尾花からの電話だった。
相も変わらず唐突で、要件を言わない、事故みたいな出来事。いつになったら変わるのやらと、僕は待ち続けているけど、変わる気配は一向に訪れない。
「いいけど、何すんの? しょうもないことだったら嫌だよ。このクソ暑い中、面倒くさいから」
「大丈夫だって。それにみんな来るから」
何が大丈夫なのかわからないけど、ちょうど何もしていなかったし、みんな来るって言ってるしね。それじゃあ、行くしかない。行かなかったせいで、話題について行けないのも癪だし。
「わかったよ、今から行けばいいの?」
「うん。勝手に入っていいから」
尾花はそう告げて一方的に電話を切った。
ダラダラと準備をして、僕は自転車で尾花の家に向かった。
真夏の残酷な日差しにやられながらも、すぐに尾花の家に着いた。
五分かそこらの距離だけど、すでに全身が汗でびっしょりだった。
家の前にはいつもの見慣れた自転車が止まっていた。
佐々木と坂本はもうついているみたいだ。
「高校一年の夏休み、皆さんはいかがお過ごしですか?」
みんなが集まったリビングで、尾花が何かに影響されたのか改まった口調で僕たちに問いかけた。
たぶん、映画かドラマの影響なんだろう。佐々木と坂本にそれとなく視線を向けると、二人も僕と似たようなことを考えていたのか、胡散臭そうな視線を向けていた。
無言を決め込んだ薄情な仲間たちを見て、このままじゃ尾花がかわいそうだから最低限の返答をしてやった――僕って優しいだろ?
「いや、特には……」
すると、僕の行いを見習った佐々木と坂本も渋々、口を開いた。
「予備校に行ったくらいかな」
「ただただ、寝てるね」
わかっちゃいたけど、予想通りの返答だった。高校生になって初めての夏休みがこんなんだなんて信じたくもないくらいだ。でも、悲しいかな、これが現実だ。
だから、僕らはテンションが低かった。
そりゃそうだよね?
これから尾花が素敵な夏休みを提供してくれるわけでもないし、どうせろくでもない話が続くだけなんだ。それなのに、テンション高くいろってのは無理な話だ。だから、僕らは全校集会で校長の長々しい話を聞かされているみたいになっていた。
そんな僕らの態度が気に食わない尾花はがなり立て始めた。
「そんなんでいいのかよ! 俺たちは高校生だぞ! 女の子と海に行ったり、お祭りに行ったりあるだろ!」
「お前はどうなんだよ」
心に突き刺さる言葉が散見されたけど、僕は冷静に言ってやった。尾花にそういう女の子がいないのはわかってるからね。もちろん僕にもいないし、ほかの二人にもそんな存在はいない。じゃなかったら、こんなところにはいないか――自分でいってて悲しくなってくるのは秘密だ。
それに、僕らは冴えない四人組なんだ――言いたいことはわかるだろ?
「そんな予定があるとしたら、こんなところでお前らみたいに汗臭い人間といたりはしない」
偉そうに尾花が言った。
当然の如く僕たちは面倒くさくなって顔を見合わせた。
「もう帰る?」
「そだな、話は終わったみたいだし」
「ゲーセンでも行って涼もうぜ」
「ちょっと待って! 話を聞いて!」
僕らのすげない反応に、尾花は慌てだした。まったく学習しないやつだ。それに付き合う僕らもだけど。
「まぁ、いいけど、何か言うことないの?」
坂本が冷めた目で尾花を見つめた。
こんなくだらないやり取りをいつも見ているけど、もはや様式美と言ってもいいくらい完成されたやり取りだ。もうそろそろ、違ったやり取りをして欲しいもんだ――特に何かを提案できるわけでもないけど。
「ごめんなさい。僕が悪かったです」
最初の威勢はどこへ行ったのか、尾花はしおれた花みたいになっていた。
これも、もちろん見慣れた光景だ。何の感慨も湧かない。
「わかればいいんだ」
佐々木がそう言って、優しく尾花の肩に手を置いた。
「それで? どうしたの? なんかやりたいことでもあるの?」
僕は佐々木の思いやりを見習いもせずに、ぶっきらぼうに尾花に言ってやった。尾花がこれから話すことがろくでもないことだとはわかっているからね。わかっていたなら、放っておけばいいと思うかもしれないけど、放置していたら、さすがにそれはまずい。僕らは友達だから。友達っていうのは、互いに助け合うもんなんだ――僕の行いが完全な助けになるのかなんとも言えないけど。
「いや、ね? せっかくの夏休みだし、面白いことしたいなって。思い出作りたいなって」
僕らの軟化しつつある態度がまた硬化しないように、尾花が下手に出た。
最初からそんな態度で接しておけとは思うけど、僕も少しやりすぎたかなと思って訊いてあげた。
「何か案でもあんの?」
僕がやったことは、まさに友達としてあるべき姿だと思う。自分に拍手を送ってやりたいぐらいだ。
そんな僕の行動に、尾花はえさに飛びついた動物みたいに「肝試し!」と叫んだ。
僕らは目配せして、「却下」「帰るか」「ゲーセンでも行こうぜ」と各々口にして尾花の家のリビングを後にしようとした。
ちょっとやりすぎじゃないかと思うかもしれないけど、茶番に付き合わされたら誰だってこんな態度を取るはずだ。だって肝試しだぜ? しかも参加者は男だけ。そんなことやっても面白くないのは明白だ。特に冴えない男四人組だったらなおさら。ただの散歩で終わるのは目に見えている。
そんな僕たちの心境に気づいた尾花は、縋りつくようにして、懇願し始めた。
「ちょっと待って! そう言うの良くないよ! みんな最後まで話を聞こう!」
あまりにも下手に出るもんだから、僕は何だか申し訳なくなった――こんなんだから尾花をつけ上がらせてしまうのかもしれない。
「そだな、悪かった。で、何だっけ?」
「肝試しやろうぜ!」
尾花がそう叫んだ瞬間、坂本が怒ったように口を開いた。
「ゲーセンで何する?」
坂本の言葉に無言で賛同して、僕たちは尾花の話を無視し、またリビングを出ようとした。
「だ・か・ら! 話を聞いて!」
僕たちを無理矢理定位置に戻して、尾花はまた懇願した。僕らがどんな反応をするかわかってるのに懲りないやつだ。悪乗りする僕らも似たようなもんだけど。
「いや、肝試しなんてしてどうすんの? なんにも楽しくないじゃん」
佐々木が僕らの思いを代表してくれた。
今日日肝試しなんか流行らないし、いくら夜だからって、真夏の外に出たくないんだからまっとうな意見だ。虫はわんさかいるし、面倒くさい輩がはびこっているかもしれないからね。
「君たちは何もわかってないようだね」
僕らが何を思っているのかなんてお構いなしに、また尾花は何かになりきって話を進めた。随分、わけのわからないキャラクターが気に入ってるみたいだけど、長続きはしないだろうと思う。尾花は飽きっぽいから。それに、一々偉そうな態度を取っているし、僕らが怒り出すのは目に見えているんだから。
「どういうことだよ」
坂本がぶっきらぼうに訊いた。口調は厳しいけど、思いのほか興味があるのは伝わった。坂本はこんな
アクティビティが好きだからね。まさか、肝試しに反応するとは思わなかったけど。
「あのね、俺たちはご存じの通り彼女はいない。なんだったら親しい女の子さえいない。ちょっと話し掛けられただけでも、有頂天になるくらいに」
僕らの痛い部分を何の躊躇もなしにずけずけと尾花が指摘した。
なんてやつだ。言っていいことと悪いことがある!
「おい、言い過ぎだぞ」
僕が抗議すると坂本も後に続いた。
「お前と一緒にするな!」
佐々木もその流れに乗るかと思いきや、裏切りともとられかねないことを口にした。
「仲のいい子くらいいますー」
「え? それは聞き捨てならねぇ! 誰だ! 教えろ!」
佐々木の言葉に僕と坂本が食いついて、話の中心は佐々木に移った。
僕と坂本は佐々木を取り囲んで尋問を始めようとした。だって、裏切りは許されないだろ? 僕らみたいな人間の集まりでは特に。
そんな僕たちを見て、主役の座を奪われた尾花が間に割って入って、またしても懇願した――懇願の安売り過ぎて、懇願の価値がどんどん下がってきている気がする。
「あのね、何度も言うようだけど、話を聞いて? 終わってないから」
尾花の言葉には傍から見ていると同情を覚えるような悲壮が漂っていたと思う――当事者の僕たちからしたらなんてことない事だけど。
「俺たちは女の子と何もないけど、いつかはできるはずじゃん? でもその時にきょどってたら格好悪いだろ? だからいつか来るであろうその時のために予行演習として肝試しをやります!」
高らかに尾花は言い切った――宣誓でもするように、清々しく。
「万が一、お前が奇跡を起こしているかもしれないから訊いておくけど、もしかして女の子いたりする?」
坂本が一ミリの期待もしていないという調子で訊いた。
才能といってもいいくらい冷え冷えとした口調だった。真夏にもってこいの冷たさだ。僕に向けられるわけじゃなければ最高だ。僕に向けられた言葉だったら、自分の言動を悔やむね。あくまで僕の話だけど。
「俺が呼べると思うか? いや、呼べないね」
坂本の冷めた態度にめげていないのか、気付いていないのかわからないけど、誇らしげに尾花は言った。何でそこまで自慢げになれるのか理解できないし、鈍感になれるのかもわからない。
正直そんな空気の読めなさは尊敬に値するかもしれない。それが自分の唯一の才能と言われなければね。
僕たちは理解不能な自信に言葉もなく、示し合わせたように尾花を見つめた。
そりゃそうだろ? 意味がわからないんだから。意味がわからない人間たちができるのはお互いに見つめ合うくらいなもんだ。
「そんな目で見ないで! 死んじゃう!」
甲高い声で、そういいながら自分の身を抱きしめる尾花に、僕らはペンギンも真っ青な冷たい視線で応えてあげた。
それから見るに堪えないくだらないやり取りを終えて、改めて尾花は訊いた。
「で、皆さんどうします?」
さっきまでの自信はどこに行ったのやら、かなり不安そうだ。普段は空気を読めないくせに、こういうところは敏感だ。
「まぁ、どうせやることないし、やるか」
家にいても何もしないし、僕は賛成することにした。尾花の意見にも一理あるからだ。
確かに仲のいい女の子ができたときの予行演習は必要だと思う。ビビり倒してるようじゃ格好がつかないしね。
そんな存在ができる予定は今のところ微塵もないけど。
「そだな。暇だし、いっちょやったりますか」
坂本もあっさりと賛成した。興味があるような雰囲気だったし、たぶん僕と同じことを考えていたんだと思う。僕らと仲がいいってことは多分に共通点があるってことだ。
「佐々木は?」
唯一、黙りこくっていた佐々木に、おずおずと尾花が訊いた。
「いいよ。予定がなければ」
少し考えこんで佐々木は言った。
「何があるっていうんだよ! 裏切るつもりか!」
「いや、予備校あるかもしれないから」
佐々木は当然の如く言った。
「それなら仕方ないね」
そう言われたら、僕らもそうとしか言えない。佐々木はこの中で一番真面目だし、親も厳しいから――高一の夏から予備校に通うくらいなんだ。
そういうところを見ると僕らとつるんでるのがおかしいくらいに感じる。でも、やっぱり共通点は多い。さっき女の子がどうとか言ってたけど、真面目な佐々木にノートを見せてもらおうとした女の子に話しかけられたくらいなもんだろう。そうに決まってる。じゃないとすくなくとも僕は平静を保てない――他の二人もそうだろう。
「で、いつやるの?」
存外乗り気な坂本が訊いた。なんやかんやいいながらも、坂本はこういう企画みたいなのが好きなんだ。なんだったら言い出しっぺの尾花よりも楽しむやつだ。
「今日!」
間髪入れずに尾花は言い放った。
「え? マジで? 急すぎない?」
いくらんでもと思って、僕は言った。なんの準備もしてないんだから当然だろ? どんな準備が必要なのかわからないけど。
「暇なんだしいいだろ?」
尾花を除いて、三人で目配せして、仕方がないという風に坂本が口を開いた。
「しゃーない。やるか」
こうやって、僕らの予定は決まっていった。高校生の夏休みはこんなもんなんだ。
草木も眠る丑三つ時、僕らは遠出して有名な心霊スポットに来ていた……。
とはいかずに近場の神社に来ていた。なんのいわくもないただの神社。強いて言えば見上げるほど高い階段を上らなきゃいけないことが障害なぐらいだ。
どう考えたって、そんなことはどうでもいいし、運動部はよくここの階段でトレーニングしてるから、もちろんいわくなんてない。なんだったら、詳しくは知らないけど、そこそこ有名な神社らしい。と言うことは、当然の如く昼間は人が結構いる。だから、怖くない……。
それとは別だけど、僕らにとっては重要なことで、夜中に家を向けだしたら補導されたりしかねないから、まだ夜の十時過ぎだ。車もそこそこ走ってるし、散歩してる人とか普通にいる。風情もへったくれもない。でも、しょうがない。僕らは意外と真面目だから。
真面目なはずなんだけど、集まったのは僕と坂本だけだった。だから訂正しておこう。真面目なのは僕と坂本だけだ。
「言い出しっぺのくせに尾花来てないじゃん。連絡あった?」
「いや、なんにも」
呆れたような口調で答えて、坂本は石ころを蹴飛ばしていた。一番楽しみにしていたのに――かわいそうに。
「そう言えば佐々木は?」
なんとなく予想はついてるけど僕は聞いてみた。
「あいつ予備校だって。絶対、面倒くさくなったな」
佐々木らしい予想通りの理由だった。
「予備校って言ったらなんでも許されると思ってやがる」
けっこう語気荒めに坂本が言った。
「まぁ、そういわれたら、なんも言えないんですけどね」
僕はなだめるように坂本に言った。そう言うしかなかったし、実際、佐々木を無理やり連れてきてないあたり、坂本も怒ってはいないんだろう。
「しゃーねーから、二人で行くか」
坂本はすぐに気持ちを切り替えて――やっぱり怒っていないみたいだ――ずんずん階段の方に進んで行った。
やっぱり一番楽しむのは坂本なんだ。
「あんまりくっつくなよ」
坂本が軽く僕を小突いた。
「くっついてねーし、そっちがくっついてきてんだろ」
僕も小突き返した。
「てか、いくら何でも暗すぎない?」
坂本の声が、闇の中に漂っていった……。
僕らは街灯のない急な階段を上っていた。こんなに暗いと思っていなかったから、懐中電灯なんか持ってきてないし、スマホのライトじゃ足元しか見えない。暑さと階段を上っているせいで汗が噴き出る。体中汗でびしょびしょだ。
「なんにも見えねーな。それに階段長すぎ」
文句を言いながらも坂本はどんどん階段を上がっていく。僕も取り残されないように、でも一歩一歩足元を確かめながら上っていった。
どこにでもありそうな怪談みたいに、階段が終わらないんじゃないかと思う余裕もなしに、神社の光が見えてきた。正直ほっとしたのは嘘じゃない。
「お、もう終わりか」
坂本がすたすたと階段を上って行ってしまう。僕は慎重に上って、少し遅れて神社に着いた――安全第一だからね。
「電気ついてんじゃん、よかった」
有名な場所なだけあって、電気はちゃんとついてるし、どこもかしこもピカピカだ。幽霊なんて出るわけがない。
「やっぱりなんもないな」
坂本はつまらなそうに言った。僕からしたらそこまで冷静にいられる意味がわからない。
「そりゃそーだろ。なんかあっても困るけど」
僕も冷静を装っていたけど、目の前に広がる光景があんまり好きじゃなかった。あまりにも昼間の光景と差がありすぎるからかもしれない。
僕たちはここまで来た手前、一応お参りして、境内を一回りしてみた。もちろん何かがあるわけでもなく、それっぽく写真を撮ってみたけど、幸いなことになんにも写っていなかった。
意味もなく賽銭箱の前まで戻ってきて、帰ろうか相談していると坂本が急に黙って、聞き耳を立てた。
「今なんか聞こえなかった?」
坂本は至って真面目な口調だった。
「いや、別に」
平静を装ってはいたものの、僕は内心ビビり倒していた。誰にも言っていないけど、僕は怖いのが苦手なんだ――この場から消え去りたいくらいに。
「空耳かな……?」
辺りを見回しながら坂本は聞き耳を立て続けていた。僕も黙って恐る恐る周りを見た。
「いや、やっぱり聞こえたって! あっちから」
小声で坂本が言って、街灯の光の届かない隅の方を指さした。
僕も聞き耳を立ててその方向に目を向けていると何か聞こえた気がした。
「何か声みたいの聞こえたろ?」
坂本は少し興奮した様子だった。僕はそれどころじゃなく、冷や汗が噴き出し、震えを抑えるので必死だった。
「うん、ヤバくね?」
そう言った僕の声はたぶん震えていないはず。
今すぐに帰りたい――僕の頭の中はそれで一杯だった。
「どうする?」
「どうするも何も、帰ろうよ」
僕は怖くて帰りたいなんて思われないように冷静に言ったつもりだった。坂本は僕の様子に気がついたのか、茶化すこともなくすんなりと僕の提案を受け入れた。
「そうだな」
僕は一目散に駆けだしたかったけれど、いくら友達と一緒だからって格好悪いところは見せられないから、ゆっくりと階段の方に向かおうとした。でも、急に坂本が僕の肩を掴んで、階段を指さした。
「てか、あの階段長いし急じゃん? 後ろか追いかけられたらどうするよ?」
今から考えれば、坂本があの状況を楽しんでいただけだとわかるけど、あの時の僕は必死だった。僕の頭の中ではいろいろなシミュレーションが瞬時に行われ、頓馬な結論を導き出した。
「逃げ切れる気がしない」
坂本の作戦は功を制したわけだ。
坂本の望む方向に話は進んでいる。
「隠れよう。それで何かあったら頃合いを見計らって逃げよう」
坂本の言葉は自信に満ち溢れていた。そのおかげで僕の恐怖は少し和らいだけど、坂本はただあの状況を楽しんでいただけなんだろう。
僕たちはすぐに階段に駆けだせるように、階段近くの茂みに隠れた――がさがさと音を立てながら。なんとも間抜けな隠れ身の術だけど、仕方ない。僕は恐怖でそんなことを考える余裕はないし、坂本は音の正体に興味津々だったから。
「何か見える?」
僕はびくびくしながら、坂本に訊ねた。自分で見る勇気なんてもちろんない。
「いや、なんにも。音も聞こえなくなった」
つまらなそうに言う坂本を見やりながら、少しほっとした。そして、あれはただの空耳で何も怖いものはないと自分に言い聞かせ続けた。
茂みに隠れてから十分以上たっても、何も聞こえなかった。僕の恐怖もだいぶ和らいできていた。それでも坂本は動こうとしない。僕は暇を持て余してスマホをポケットから取り出した。
「スマホなんか見るなよ! 明かりでバレるだろ!」
小声だけど、坂本はしかりつけるように言った。確かに坂本のいうとおりだった。何かが僕らを見つけて、引き寄せてしまうかもしれない。
それからまた十分ほどたっても何もなかった。緊張と恐怖で忘れていた夏の暑さと、喉の渇きが一気に押し寄せる。それに、蚊に刺されて体中がかゆい。
完全に恐怖は消え去り、帰りたかった。
僕はいい加減帰ろうと坂本に声をかけようとした。けど、坂本に先手を取られた。
「なんか後ろから聞こえね?」
今までにないほど真剣な口調だった。僕には何も聞こえなかったけど、どうやら本当らしい。
消え去っていた恐怖が一気に舞い戻ってきた。
「まじで? やばいだろ。どうする? 逃げる?」
僕はあまりの恐怖でパニックに陥りかけていた。自分で何も考えられない。坂本の言うことに従うしかない。
「いや、戦おう。こっちは二人だ、なんとかなる。最悪どっちかが逃げて助けを呼ぼう」
ちょっと考えればおかしな判断だとわかったけど、僕は坂本に従うしかなかった。恐怖で思考が麻痺していたんだ。それに、坂本がここに残るなら、僕は一人であの階段を降りなきゃいけないということが頭に浮かんで、そんなの無理だと悟った。あの階段で何かに出会ったら、どうすることもできないし、一人じゃ動けない。今にも腰が抜けそうなんだ。
僕の情けない状況とは裏腹に坂本は完全にやる気だった。今までにないほど頼もしい雰囲気を漂わせている。
「せーので振り返ろう」
坂本はそう言って、勇気づけるように僕を見た。そんなことをされたら、僕はなけなしの勇気を振り絞って、頷くしかない。
坂本は僕に猶予を与えずに腕に触れ、「いくぞ、せーの」と声をかけた。
何もいないことを願いながら僕は勢いよく振り向いた。
そこにはもちろん何もいないはずで、僕らは安心して笑い合って家に帰るはずだった。でも、そこには何かがいた。幽霊か何かわからないけれど、こんな時間に茂みの中にいるのなんてろくなもんじゃないのは確かだ。
僕はその何かが見えた瞬間に目をつぶった。逃げ出すことも、もちろんできずに腰が抜けて尻餅をついた。でも、坂本は少し笑ってから冷静だけど楽しげな口調で言った。
「幽霊の正体見たりカレオバナ」
おわり
カレオバナ たくや @takuya1123
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