第2話 恋人

「やあやあ、暁くん。どうもおはよう。今日も目の下のクマが酷いね。まるで死人みたいだ」

 玄関ドアを開けて開口一番の言葉に死人だと揶揄されるというのは、なかなかどうして失笑が浮かんでしまうものである。きっと彼なりのジョークなのだろうが、いつだって彼のジョークは奇才染みていて馴染む事が無かった。


「どうも、黒曜さん。すみません、こんな夜中に呼び出してしまって……」

「何を言っているんだい暁くん。僕はね、君に謝られる程の迷惑を被った覚えは何一つとして感じていないよ。社会的な理由で僕への連絡手段を絶たせて貰っているけど、何時何時いつなんどきだって呼んでくれて構わない。僕たちは確かに鈴ちゃんの奇病には強い関心を持っているが、それ以上に鈴ちゃんを助けてあげたいんだ。この気持ちに一点の曇りもありはしない。それは八百万の神様たちそれぞれに御百度参りをしたって構わないくらい、真剣に僕は思っているんだ。安心して僕を頼り給え」


 高松たかまつ黒曜こくようはそう言って笑ってみせた。スーツの上に白衣を着るという不可思議で、そして性格も奇天烈な彼だが、不思議と信頼を寄せる事の出来る人物だった。

 黒曜は縁無しの丸眼鏡の位置を直しながら、困ったような笑顔を浮かべて、自身の短い髪の毛を触りながら言った。


「それじゃあ、今から鈴ちゃんの検査とかに入るけど、大丈夫かな? 冷奈からは、君がこれからアルバイトに行くと聞いているんだが……家主がいない中で動くというのも、流石の僕も気が引けてしまってね」

「はい。大丈夫です。妹の事を、よろしくおねがいします」


 もう何度も、そういった状況にはなっているというのに。そんな言葉を呑み込みながら暁は頭を下げた。するとすぐさま、黒曜の後ろから6人ほどが機材を抱えて入っていった。

 彼らは皆、黒曜の所有する研究機関のメンバーである。人体科学の分野において天才と呼ばれている黒曜は、スポンサーからの莫大な資金を元手に機関を設立し、個人的に鈴の奇病への研究及び治療を、暁が小学生の頃から行ってくれていた。つまり、およそ十年ほど前から、黒曜は天才だったと言える。25歳という若さである彼が、どういった経緯でそのような経歴を手にしたのかは全く想像が及ばないが、両親を亡くしている暁にとっては、黒曜は唯一頼れる他人だった。

 メンバーたちが鈴の寝室に入っていった後、黒曜も静かに暁の横を通り抜けた。


「本当なら、しっかり睡眠をとってくださいと言ったほうが良いのだろうけれどね」

「……両親がいないので、俺が金を稼ぐしかありません」

「お金の事なら心配しなくても、僕が出しているじゃあないか。鈴ちゃんへの研究協力として。それも、決して安くはない額を」


 事実、黒曜からは研究の協力として多額の給金を貰っている。一度の研究協力──鈴の治療を兼ねたものだが──につき、約100万円という金額だ。しかし暁は、これまで幾度も渡された金銭を、家賃以外で使った試しはなかった。食費や水道光熱費、そして鈴の娯楽費などは全て、暁のアルバイトの給金で賄っている。

 バツが悪そうに俯く暁に、黒曜は小さく笑って見せた。


「まあしかし、深く訊くというのは野暮というものだね。すぐに鈴ちゃんの治療に入るから、後は任せてくれ給え」

「妹を……よろしくおねがいします」

「安心したまえ。僕は天才だ。国が認めるほどのね。君はアルバイトに行くといい。今日は夜だ。夜道には、十分に気を付けるのだよ? クマが付くほど寝不足なのに夜道で怪我をしたなんて、馬鹿みたいじゃないか。顔も眠そうで、こりゃあ酷い。一度、顔を洗った方がいいね。まるで雑巾みたいだ」

「……あの、俺。そんなに顔が酷いですか?」

「なあに気にする事はない。君の顔がどんなに酷くても、僕の愚妹は君を好きだと言うからね。ああ、そうそう。その愚妹は、マンションの入口で待っているよ」

「ここには連れてこなかったんですか?」

「冷奈はああ見えて奥手なのだよ」


 兄が恋人の家に来ている状況で玄関にすら来ないというのは、奥手と言うよりチキンなのではないだろうか。

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