第1話 寝不足

 スマートフォンの通話待機音が切れると「もしもし?」と端切れの良い平坦な声が聞こえてきた。夏の夜にはもってこいの、幽霊のような冷たい声にも聞こえなくも無い。暁は恋人の高松たかまつ冷奈れいなに電話をかけていた。


「冷奈か? 夜に悪い」

「別に。勉強してたから」


 嘘偽りではないことを言外に伝える、透き通った声だった。


「ちょっと今から、黒曜こくようさん呼べるか? 鈴が発作を起こした」


 すると冷奈は即座に「うん、分かった」と応えてくれた。


「ちょっと兄さんに連絡してみるから待ってて。今、家にいなくて」


 そう言って冷奈が通話を切ってから、1分も経たぬ間に折り返しの電話が来た。


「すぐに行くって。チームの人も一緒に。5分もかからないと思う」


 良い結果に、暁は安堵の溜息を小さくついた。


「助かる」

「助けるのは私じゃなくて、兄さんの方」

「いや、それでも助かった」

「私はいつでも電話に出るよ。暁と鈴ちゃんの為ならね」冷奈は淡々と呟いた。「鈴ちゃんの発作は収まったの?」

「ああ。ぐっすり眠ってるよ」


 腕に抱く妹を見下ろした。髪の毛の先まで血に染まった妹は、小さな寝息を立てている。全身を駆け巡った痛みのせいで疲弊した妹の肉体は、眠る事によって極端な脱力状態に至っていた。口元から血と唾液が混ざったものを可愛らしく零して、暁の腹部を重たく湿らせている。


「これからバイト?」


 冷奈の声は安心とも安堵とも取れない、美しいほど平坦な声で話題を変えてきた。彼女らしいコミュニケーションである。


「1時間後に」

「この前、クビになってなかったっけ?」

「それはコンビニの方だ」

「ああ、そうだったわね。廃棄品をくすねて、、、、クビになったんだっけ」

「今から行くのはいつもの。世話になってるところだ」

「飲食店のね。じゃあ、まだまだ時間はあるわけね? 兄さんが着いてから入れ替わりに出ても……そうね、30分くらいは時間があるという事になるわね」

「お前、何言ってるんだ?」

「暁。今日は御飯食べたの?」

「聞いて驚け、しっかり食ったぞ。御飯と味噌汁と漬物だ」

「お腹は空いてるわよね?」

「空いてない」

「そう、分かった。缶コーヒーとカロリーメイトね。私も兄さんと一緒にそっちに行くから。それじゃあ」


 プツリ。ツー、ツー、ツー。

 会話がまともに成立しないままに通話は切られてしまった。

 相変わらず、冷奈の考えはよく分からなかった。とりあえず缶コーヒーを持ってきてくれるそうで、助かった。正直、今にも寝不足で倒れてしまいそうだったのだ。カフェイン依存症としては、妹から離れる事の出来ない今の状況では、喉から手が出る程の成分である。


「……ふぁぁぁぁ………眠い」


 慢性的な寝不足である暁は、大きな欠伸をしては、妹の頭に手を乗せて撫でてあげた。手のひらの中では妹が「おにいちゃん……」と寝言を言っていた。微笑ましい限りである。




「やあやあ、暁くん。どうもおはよう。今日も目の下のクマが酷いね。まるで死人みたいだ」


 玄関ドアを開けて開口一番の言葉に死人だと、スーツ姿でオールバックヘアの成人男性に揶揄されるというのは、なかなかどうして失笑が浮かんでしまうものである。きっとジョークなのだろうが、いつだって彼のジョークは奇才染みていて馴染む事はなかった。


「どうも、黒曜さん。すみません、こんな夜中に呼び出してしまって……」

「何を言っているんだい暁くん! 僕はね、君に謝られる程の迷惑を被った覚えは何一つとして感じていないよ。社会的な理由で僕への連絡手段を絶たせてもらっているけど、何時何時いつなんどきだって呼んでくれて構わない。僕たちは確かに鈴ちゃんの奇病には強い関心を持っているが、それ以上に鈴ちゃんを助けてあげたいんだ。この気持ちに一点の曇りもありはしないさ! それは八百万の神様たちそれぞれに御百度参りをしたって構わないくらい、真剣に僕は思っているんだ。安心して僕を頼り給え」


 高松たかまつ黒曜こくようはそう言って笑ってみせた。スーツの上に白衣を着るという不可思議で、そして性格も奇天烈な彼だが、不思議と信頼を寄せる事の出来る人物だった。

 黒曜は縁無しの丸眼鏡の位置を直しながら、困ったような笑顔を浮かべて、自身の毛を触りながら言った。


「それじゃあ、今から鈴ちゃんの検査とかに入るけど、大丈夫かな? 冷奈からは、君がこれからアルバイトに行くと聞いているんだが……家主がいない中で動くというのも、流石の僕も気が引けてしまってね」

「はい。大丈夫です。妹の事を、よろしくおねがいします」


 もう何度も、そういった状況にはなっているというのに。そんな言葉を呑み込みながら暁は頭を下げた。するとすぐさま、黒曜の後ろから6人ほどが機材を抱えて入っていった。

 彼らは皆、黒曜の所有する研究機関のメンバーである。人体科学の分野において天才と呼ばれている黒曜は、スポンサーからの莫大な資金を元手に機関を設立し、個人的に鈴の奇病への研究及び治療を、暁が小学生の頃から行ってくれていた。つまり、およそ十年ほど前から、黒曜は天才だったと言える。25歳という若さである彼が、どういった経緯でそのような経歴を手にしたのかは全く想像が及ばないが、両親を亡くしている暁にとっては、黒曜は唯一頼れる他人だった。

 メンバーたちが鈴の寝室に入っていった後、黒曜も静かに暁の横を通り抜けた。


「本当なら、しっかり睡眠をとってくださいと言ったほうが良いのだろうけれどね」

「……両親がいないので、俺が金を稼ぐしかありません。バイトだから、微々たるものですけど」

「お金の事なら心配しなくても、僕が出しているじゃあないか。鈴ちゃんへの研究協力として。それも、決して安くはない額を」


 事実、黒曜からは研究の協力として多額の給金を貰っている。一度の研究協力──鈴の治療を兼ねたものだが──につき、約100万円という金額だ。しかし暁は、これまで幾度も渡された金銭を、家賃以外で使った試しはなかった。食費や水道光熱費、そして鈴の娯楽費などは全て、暁のアルバイトの給金で賄っている。

 バツが悪そうに俯く暁に、黒曜は小さく笑って見せた。


「まあしかし、深く訊くというのは野暮というものだね。すぐに鈴ちゃんの治療に入るから、後は任せてくれ給え」

「妹を……よろしくおねがいします」

「安心したまえ。僕は天才だ。国が認めるほどのね。君はアルバイトに行くといい。今日は夜だ。夜道には、十分に気を付けるのだよ? クマが付くほど寝不足なのに夜道で怪我をしたなんて、馬鹿みたいじゃないか。顔も眠そうで、こりゃあ酷い。一度、顔を洗った方がいいね。まるで雑巾みたいだ」

「……あの、俺。そんなに顔が酷いですか?」

「なあに気にする事はない。君の顔がどんなに酷くても、僕の愚妹は君を好きだと言うからね。ああ、そうそう。その愚妹は、マンションの入口で待っているよ」

「ここには連れてこなかったんですか?」

「冷奈はああ見えて奥手なのだよ」


 兄が恋人の家に来ている状況で玄関にすら来ないというのは、奥手と言うよりチキンなのではないだろうか。

 黒曜が鈴の部屋に入っていくのを見送った後、暁は浴室へと入っていった。身体中に張り付き乾き始めた寝間着を脱ぎつつも、衣服と一緒に風呂場に入った。蛇口を開き、温めのシャワーを頭の上から被るが、粘性の強い血は安々とは流せなかった。

 衣服をシャワーで血の色を無くすように洗い、次にシャンプーで髪を、ボディーソープで身体を洗う。


(まだ、鈴の匂いがするな……)


 軽く湯気たち湿り始める浴室の中でも、鈴の血の匂いは鼻腔を誘惑した。愛する妹の血の匂いを身体に染み付けてアルバイトに勤しむというのも悪くはないが、これから行く飲食店は中学の頃から世話になっている。営業に悪影響を与えて自分を優先できるほど、世間を知らない訳ではない。


(夜勤だから……暇があれば勉強も出来るな。宿題は終わらせたし)


 妹の鈴の為に、蓄えなければいけない。

 知識を、金銭を、経歴を。

 両親を失い、そして奇病に侵され禄に家から出る事もままならない愛する妹の為に、努力を積み重ね蓄えなければいけない。どんなに天才でも、どんなに凡人でも、一日という時間は決まっている。

 風呂からあがり、暁は大あくびをした。


(……眠い)


 今日も暁は、深いクマが示すとおりの寝不足のままに、夜を起きていた。

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