4-2.殺人鬼の末路



「ん? オーイ何してんだ晶」


「あ! 暮奈さん何してるのそんな所で!」


 探し始めて五分、暮奈さんは一際大きい木の上から、仁王立ちで僕を見下ろしていた。


「周りを確認してただけだ。ここからならかなり遠くまで――」


「すぐ降りてきて! もっと離れないと!」


「……わかった」


 僕の必死の表情を見て、大体の事情を察してくれたらしい。何も言わずに木からするすると降りてきて(猿みたいだと思ったのは内緒だ)、そのまま走り出した。


「こっちだ! 少し離れた所にビル街があった! そこまで逃げるぞ!」


「――はいっ!」


 あまりの頼もしさに再び敬語が出てしまう。そのくらい暮奈さんの判断は早かった。

 さすがは刑事、といった所なんだろうか。それとも暮奈さんが特別にすごいだけなのか。

 僕は息を切らしながらも、何とか必死に暮奈さんに付いて行った。

 そして、十分くらい走った所で、ビル街に到着した。

 都会のそれと比べてあまり高いビルがあるわけではないし、所々木や蔦が絡まっていて倒壊しているビルもある。ビル街、というにはお粗末な景色だが、確かに身を隠すには丁度良さそうだった。

 その中から適当なビルを見繕って、割れている窓から中に侵入した。


「……ビルに入るのも住居不法侵入じゃ?」


「テナントビルなら廊下までは共有スペースだ。それに、この場合なら緊急避難も適用できるだろ」


「むぅ……」


 法律の話は分からないけど、論破された事だけは分かった。くそ、僕はこの人に論戦でも筋力でも勝てないのか。

 僕らはそのまま二階まで駆け上がり、外から見えない位置に陣取って身を屈めた。

 何となく軍隊にいる様な気分になってちょっとだけテンションが上がったけど、命が掛かっている事を思い出してすぐに気を引き締めた。


 とにかく、ここなら一旦安全だろう。二階の高さだから早めに相手を見つけられるし、いざとなれば窓から飛び降りようと思えば降りられる。

 僕は荒くなった息を整えながら、暮奈さんに事の顛末を説明した。


「……なるほどな。よく生き残った。褒めてやる」


 そんな事を言いながら、暮奈さんは僕の頭を撫でた。そこまで子供じゃない、と言い返そうとしたけど、褒められるのは素直に嬉しかったのでその言葉は飲み込んだ。


「だが、状況は最悪だな。反撃しちまった以上、そいつはもう晶を殺すのを躊躇しないぞ」


「元から躊躇なんてしてなかったと思うけど……」


「ああ、いや。言い方が悪かったな。遊びが無くなったって事だ。お前と対峙してた時、少しでも会話する余地があっただろう? 今度は有無を言わさず襲ってくるぞ」


 言われてみれば、その通りだ。そもそも最初の不意打ちの時点で後ろから刺してしまえば良かった話だし、初撃を避けた後も一応だがヤツは僕との会話に応じていた。


「じゃあ、後はとにかく逃げるしかないって事?」


「そうだな、ここでアイツをやり過ごして静かに退散するのがベストだ。それで終わりゃいいんだが、最悪の場合……」


「最悪の場合?」


「いや、これは今は考えなくてもいい。ところでお前、なんで律儀に荷物持ってきたんだ? そんなデカいリュック背負ってたら動きも遅くなるし、逃げにくいだろ」


「なんとなく不審者に荷物を渡したくなくて……いたっ!」


「あほ。逃げ遅れて殺されたら元も子も無いだろ」


 軽めにチョップされた。完全に暮奈さんの言う通りなので反抗はしない。

 でも、僕だって何も考えてなかったわけじゃない。

 ――一緒に入れている暮奈さんの荷物を、奪われたくなかっただけだ。


 会話の後、僕は窓の外から見えない様により低い姿勢を取った。

 外は暮奈さんが見てくれている。僕は迂闊な事をしない様にすればいい。

 黙って待つ時間は、それほど経っていない筈なのに一時間にも二時間にも感じられた。心臓の音がやけにうるさく響く。鳥や虫の声すら聞こえないこの世界では、風が無ければ本当に物音がゼロになるからだ。


 だが、そのお陰でにヤツの足音も大きく響いた。

 少し耳を澄ませば息遣いまで聞こえてきそうだ。

 暮奈さんは目線でこっちに「来た」と合図を送ってくれたが、そんな事をしなくても近くに現れた事は僕にも分かった。

 それまで走っていた足音が止み、静寂が訪れる。

 どうやら一度立ち止まったらしい。

 僕は息を飲んだ。どうかこのまま気づかずに立ち去ってくれ。


 しかし、僕の期待は無情にも打ち砕かれる事になる。

 立ち止った女は、ぽつりと呟いた。


「匂うわぁ」


 驚いて思わず体が跳ね上がる。でもまだ音は立てていない。分かる筈が無い。


「私ね、人より鼻が敏感なのよぉ。好きな人の匂いは特に分かりやすいわぁ。大抵私から必死に逃げて汗臭いから」


「――っ!!」


 まずい。これは完全にばれている。

 暮奈さんの方に目をやると、彼女も見つかった事を悟って苦々しい顔をしていた。

 それから僕の目線に気が付いて、少し考える様にした後、小声で僕にこう言った。


「警棒、出してくれ」



  ……



「あらぁ?」


 女が、不思議そうな顔をする。

 それもその筈、あの女の目的は僕なのだから、ビルの窓から違う人間が飛び降りてきたら面食らうだろう。

 ちなみに、降りていったのは暮奈さんだ。

 正面から、堂々と飛び降りて女と対峙した。


「なんだァ? アタシじゃ不満だって面してんな?」


 暮奈さんは不敵に笑う。


「いいえぇ? 少し驚いただけよ。私が追ってたのは少年だったから。彼をどこに隠したのかしらぁ?」


「そんな事言わずにアタシの相手してくれよ――連続殺人鬼、千道愛華せんどうあいか


「――あら、私そんなに有名だったのかしらぁ」


 女はさほど驚いていない。陰で聞いている僕の方が驚いたくらいだ。

 あの性格なんだから殺人鬼と言われても納得だけど、暮奈さんが知っているという事は指名手配でもされていたのかもしれない。縣白に続いてまた指名手配犯に会うなんて、嫌な縁もあったもんだ。


「まぁいいわぁ。じゃあお望み通り――アナタからあいしてあげる」


 その言葉と同時に地面を蹴る音と、直後に金属音が聞こえた。

 おそらく千道とやらが暮奈さんに襲いかかったのだろう。僕は音をなるべく立てない様に急いで階段を下りて、ビルの入り口の方まで進んでいった。

 入り口の扉はガラス張りだったので、扉の横の壁に背中を預けて様子を伺う事にした。


「――すごい」


 目の前の光景に、思わず嘆息する。

 暮奈さんは千道のナイフを警棒で防ぎ、そのまま右脚で膝蹴りをする。それを転がるように避けた千道が勢いのままに暮奈さんの左足に切りかかる。暮奈さんは膝蹴りの姿勢からそのまま踵落としを繰り出し、千道が左手を軸に回転して回避して――と、ここまで目で追うのが精一杯の凄まじい攻防だった。


「こんなのどうやって加勢すればいいんだよ……」


 そう、暮奈さんは有ろうことか僕にこう指示したのだ。


『アタシが正面から出ていくから、お前は例の小道具で隙を作れ』


 ――本当に無茶を言う。こんなめまぐるしい攻防のどこにそんな隙があると言うのだ。

 何もする事が出来ずに隠れて戦闘を眺めていると、ふと暮奈さんと目が合った。

 僕の不甲斐なさに呆れているのかと思い情けなくなったが、その目はまだ僕に期待している様に見えた。


 その後も何度か目が合うが、暮奈さんは変わらず強い目でこちらを見ていた。

 情けない僕を否定せず、ただただ待っているかのような目。

 わけもわからず様子を伺っていると、五度目の目線の交錯でとある事に気が付いた。

 暮奈さんは戦闘の合間に、隙を作って千道から距離を取っていたのだ。そして、距離を取った瞬間にこちらを見ている事にも。

 ――ここまでして貰えば馬鹿でもわかる。


唐辛子粉レッドパウダーぁ!」


 次に暮奈さんの合図が来ると同時に、先程千道に使った布袋を投げつける。


「あら、やっぱり居たのねぇ。でも――」


 僕の掛け声に気付き、千道は僕の方を見る。

 そして、事も無げに僕の投げた布袋を回避した。


「――要は弾かなきゃいいのよ、そんな物」


 千道の行動は正解だ。僕の唐辛子粉レッドパウダーは別に一味唐辛子が飛び出す装置が入ってるわけではなく、外からの衝撃があって初めて粉が噴き出す仕組みだ。敵に弾かれるか、体にぶつからない限り粉は出ない。

 避けられた布袋は、無残にも千道の遥か後方の地面に落ちた。

 ――でも、残念ながら僕らの狙いはそこじゃない。


「アナタもあんな少年に……え?」


 一瞬だった。千道はあくまで一瞬、僕の方を見たに過ぎない。

 しかしその一瞬の間に、暮奈さんが千道の視界から消失した。


「オッラァ!」


 その刹那、千道の顎に強烈な衝撃が走る。

 地面に張り付くほど低い姿勢で千道の足元に潜り込んでいた暮奈さんが、立ち上がる勢いのまま顎に拳をお見舞いしたのだ。

 僕の位置からは全て見えていたが、足元に潜り込んだ時はあまりの素早さにここから見ても消えたように見えた程だった。


「改めて、本当にすごい人だな……」


 倒れ込み気絶する千道を確認しながら、僕はそんな平凡な感想を口にした。



  ……



「いやー何とかなって良かったな! 正直、行き当たりばったりだったから安心したぜ!」


「行き当たりばったりだったの!?」


 急いで千道から離れながら、僕達はそんな話をしていた。

 差し当たっての脅威は取り除かれたので、先ずは置いて逃げてしまったテントを回収しようと、元居た地点まで戻りながらの会話だった。

 極度の緊張状態から解放されたため、二人の間の空気が軽い。


「あの女がアタシより強かったら終わりだし、晶がノーコンで間違えてアタシの方に投げちまっても終わり、あの女が全く隙を見せなくても終わりのガバガバプランだったよ」


「よくそんな案を実行出来たね……」


 全くこの人は凄いだか適当なんだか分からない。

 でも、こんな事を言いながら頼りになるのも確かだ。

 僕だけではあのまま体力が尽きるまで走り、追いつかれてそのまま殺される未来しか見えなかった。

 初撃を躱せたのも暮奈さんのスパルタ教育があっての成果だし、暮奈さんと出会えて本当に良かった。


「おい、ボーっとするなよ。敵は千道だけとも限らないんだ」


 そう言って暮奈さんは、感慨に浸っている僕の気を引き締めてくれた。


「大丈夫だよ暮奈さん。ほら、もう僕らのテントが見えてきた」


「ああ、じゃあ急いで畳んで回収するぞ」


 暮奈さんが慣れた手つきでテントを畳み、僕がそれを自分のリュックに括り付ける。

 この作業分担もあらかじめ決めていた事だ。

 片方が動いている間は片方が周囲を警戒する。このやり方なら危険を直ぐに察知できる。

 こんな事ですら、僕一人ではやはり考え付かなかっただろう。


 「よし、じゃあ動くぞ。さっきは西向きに動いてたから、今度は北向きに――」


 そんな風に進行方向を話していた時だ。

 僕らは決して警戒を怠っていない。

 隙があるとすれば、会話のために目を合わせたその一瞬だけ。

 その一瞬、わずかの時間で――


「――かはッ!」


「あらぁ? ちょっと手元が狂っちゃったかしら? ま、こっちの方が楽しめるけどねぇ」


 ――千道が、暮奈さんの脇腹を後ろから貫いた。


「……ぐッ!」


 暮奈さんが膝から崩れ落ちる。刺された脇腹から夥しい量の血が流れていた。


「痛いでしょ? ナイフを刺したらそのままグリグリと回転させるのがコツ。痛みで苦しむ顔を存分に楽しめるわぁ。その瞬間だけはアナタは私の事しか考えられない。私への憎しみ、怒り、恐怖――ぜぇんぶ、私だけの物」


 千道が何か言いながら恍惚の表情を浮かべている。

 僕はそれを、どうしていいのか分からずにただ眺めていた。

 ――暮奈さんがやられた?

 あのとんでもなく強くて、頼りになる人が?

 こんな、あっさりと?

 そんなの、僕なんかじゃもうどうしようもないじゃないか。

 

「馬鹿、逃げろッ!」


 暮奈さんが蹲りながら僕に向かって叫んだ。

 僕の足は直ぐには動かない。いや、動いたとしても手遅れだ。

 ――もう、千道が目の前でナイフを構えていたから。


「私、順番は守る主義なの。最初に目を付けたのはアナタだもの。ちゃんとアナタから、あいしてあげる」


 ナイフが、振り下ろされる。

 僕はその瞬間、ナイフを方を見ながら全く見当違いの事を考えていた。

 ――ああ、そうか。走馬灯なんて物は、やっぱり存在しないんだ。

 見えるのは僕を殺そうとしている殺人鬼と、振り下ろされるナイフ。

 聞こえるのは、急に強くなってきた風の音と――乾いた破裂音だけ。


 ――破裂音?

 今の音、なんだ?


「ッッ! あら、そんなもの、持ってた、のねぇ」


 千道が苦しそうな顔で後ろを振り返る。

 振り返った先にいるのは、膝立ちの体勢になった暮奈さんだ。その右腕は真っ直ぐに千道の方へ突き付けられていて、その手には――拳銃が握られていた。


「最終手段、だよ。本来なら、使いたくなかった……」


 暮奈さんも苦しそうに応じる。

 そこで僕は、ようやく状況を理解した。

 暮奈さんがその手に握った拳銃で、千道を撃ったのだ。

 その銃弾はしっかりと千道の右胸を貫いていて、赤黒い染みがじわりと広がっていた。


「あはぁ……これじゃ、もう助からないわねぇ……」


 千道が、自分の右胸の出血を確認する。吹き出した血は、彼女の服をみるみるうちに赤く染めていく。素人目に見ても、助かるような出血量ではなかった。

 だが、そんな状況にあっても千道は笑顔を崩さなかった。死を覚悟した上で、笑顔を崩さず――静かに呟いた。


「ついに、ついにこの時が来たのねぇ。まだまだ、私は愛したかったのに。なのに、こんな世界になって、誰も居なくて、ようやく……久しぶりに愛せると思ったのに……」


 倒れ込み、横になりながらも狂った持論を展開する。

 それに対し、脇腹を抑えながらも立ち上がった暮奈さんが、千道を見下ろしながら吐き捨てるように言い放った。


「ばーか、そんなモンは愛じゃねぇ。ただの独りよがりだよ」



 ……



 こうして、この一件は解決した。

 殺人鬼は僕らの目の前で息絶えた。最後の言葉は後悔に塗れていたように聞こえたが、彼女の顔には気味の悪い笑顔が張り付いたままだった。

 死に際に笑えるなんて、その神経はますます理解が出来ない。


 暮奈さんの傷は、持っていた応急セットで消毒と止血を済ませ、しばらく動かずに安静にする事になった。傷がもし内臓に届いていたら大変だけど、専門的な知識のない僕たちではそれ以上の治療は出来なかった。

 その間、死体を放置するわけにもいかず、千道の死体は僕が少し離れた所まで運び、折り畳みスコップで穴を掘って埋葬した。

 こんな用途のためにスコップを持ってきたわけじゃない。何かの役に立つかと思って持ってはいたが、こんな所で役に立って欲しくはなかった。


 僕はここまで事態が発展するまで、こんな事になるとは想像もしていなかった。

 まだまだ、覚悟が足りなかった。

 こんな世界で生きるためには、生き抜く覚悟と――人を殺す覚悟も決めなければならないのだと。

 有無を言わさず思い知らされた。


 暮奈さんの治療を手伝っている最中、ずっと黙っていた僕に、彼女はこんな話をしてくれた。


「わりー、晶。本当はお前の目の前でこんな事はしないつもりだったんだ。人を殺す覚悟なんて、決めてないと思ったからよ。だからこそ拳銃もお前には預けなかったわけだ。……だけど、ちょうど良い機会だとも思ったんだよ。ここで殺さずに解決したとしても、いつかどこかで選択を迫られる。その時に迷って手が動かなきゃ、お前が殺されるだけだ。今は受け入れられなくても、ゆっくりでいいからさ。お前も、この現実を生き抜くために、覚悟を決めておいてくれ。そうすれば、もう少し生き延びる確率が上がるから――」


 言葉は届いていた。

 だけど、まだまだ受け入れられない。

 他の手段があったんじゃ、とか。殺す必要はなかった、とか。言いたいことは山程あるのに、言葉に出来なかった。

 きっと、ああするしかなかったと心のどこがでわかっていたんだ。

 それでも受け入れられず、暮奈さんに返事もしないまま、僕はずっと黙っていた。


 いつの間にか降り始めた雨にも気づかずに。

 俯いたまま、言葉に出来ない葛藤に苦しんでいた。

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