幕間3-2.暮奈明梨の特訓
「これからお前に護身術を教える」
少しずつ僕の筋力が戻ってきた頃、暮奈さんが突然そう切り出してきた。何の前触れもなく突然言われたので、頭が全く追い付いていない。
「護身術……ですか?」
「ああ。これから先、どんな犯罪者が襲ってくるか分からないからな。最低限の事だけは覚えておけ。あと敬語やめろ」
確かに、今回は暮奈さんが来てくれなかったらどうしようも無かった。これからも自分の力で切り抜けなきゃならない場面も無数にあるだろう。そのために護身術を教えてくれるというのなら、僕にとっても有難いことだ。
「見たところ運動も得意じゃなさそうだし、そんな人間がいきなり喧嘩が出来るようになるなんて夢のまた夢だ。だから、アタシが教えるのはあくまで相手の攻撃を回避する手段だ」
そう言って、どこから持ってきたのか体操用のマットを地面に敷いた。そしてポンポンとマットを叩き、「来い」と僕に指示した。
「マットなんて、必要なんです……必要なの?」
「当たり前だ。頭打ったらどうする」
頭を打つような動きをさせるって事か。さすがにスパルタだ。まだ基本も知らないっていうのに。
「基本は今から教えるんだ。むしろその基本のためにマットが要る」
「マット運動でもするの?」
「まあ、近いといえば近い」
そう言って、暮奈さんはマットの上に立った僕に向かってファイティングポーズを取る。え、まってもしかして僕これから殴られるの?
「殴りはしない。ただし、今からお前をぶっ飛ばす」
「いやそれ殴るよりタチ悪くない!?」
思った以上に物騒な言葉が出てきて驚いた。ぶっ飛ばすって、僕は一体どんな悪党なんだって話だ。
「そうじゃねーよ。投げて、マットの上に転がすだけだ。転がされたら地面に手をついて衝撃を逃がせ。そしてその体勢のまま地面を手で押して体を起こすんだ。アタシの居ない方向にな」
説明されたところでまるでピンとこない。要は受け身を取れって事なんだろうけど、受け身なんてそんな言われてすぐ出来るもんじゃない。
「いいからやれ――ほいっと」
「うわっ!」
僕の目の前で、暮奈さんの手がいきなり消失した。正確に言えば、手を動かした事くらいは認識出来たけど、その手がどこに向かったかを確認する事が出来なかった。
なぜなら、それよりも早く――僕の体は宙を舞っていたから。
「――いった!」
当然受け身なんて取れるはずもなく、僕の体は大の字でマットに衝突する。
冗談じゃない。こんなの練習になんてなるものか。
「あー、悪い悪い。最初から飛ばしすぎた。大丈夫か?」
そう言って暮奈さんは僕に手を差し伸べる。マットのお陰でそれほどダメージは無いけど、驚きによる精神的ダメージの方が深刻だ。心臓の鼓動があり得ないくらい踊り狂ってる。
「素人相手にやりすぎでしょう……」
「ホントごめんな。いつもの癖でついやっちまった。次はもっとゆっくりやるから」
伸ばされた手を掴んで立ち上がりながら、僕は暮奈さんに恨み言を投げつける。さすがにちゃんと反省してくれたようで、暮奈さんも申し訳なさそうに謝罪してくれた。
「じゃあ次はゆっくりやるぞ。安全に投げるから、まずは体が地面につくタイミングを覚えろ。そこで腕全体を使って衝撃を逃がす。いいな?」
「良くないけど、まあやってみるよ……」
多分、頭で理解するよりも体に覚えさせた方が良い類の物なんだろう。そう納得して、暮奈さんの言う事を聞いておく事にした。
それからしばらくの間、暮奈さんのスパルタ訓練が始まった。さすがに気を付けてくれたらしくその後からは優しく投げてくれたけど、なかなか自分の体が宙を舞う感覚になれる事は出来なかった。
投げられる事数十回――時間にして、約二時間もの間僕は暮奈さんに投げられ続けた。
「よし、今日はここまで! 明日も筋トレが終わったらこの受け身の練習だ!」
「はい!」
「敬語やめ……ってまぁ訓練中くらいいいか」
あまりのスパルタぶりに再び敬語が出てしまったけど、そこはさすがに許容してくれるらしい。振り上げた拳をそのまま引っ込めてくれた。
それから毎日、僕は暮奈さんに投げ飛ばされ続けた。「投げる必要は無いんじゃないか」と抗議した時もあったけど、より実践向きの訓練をしたいらしい。いきなり転ばされた時、反射的に動けないようではそのまま殺されてしまうからだとか。
理由を聞けば納得だけど、マットの上とはいえ連日投げられ続けたお陰で、僕の体は日々ボロボロになっていった。ただし、それと引き換えに徐々に受け身も上手くなっていく。
体の痛みが日常に変わった頃には、最小限の力で転ばされた瞬間に立ち上がる事が出来るようになっていた。
「はぁ……はぁ……これで、どうですか?」
「いよし完璧だ! 次の段階に入るぞ!」
「え、これで終わりじゃあ」
「受け身だけで犯罪者から逃げ切れるか! 行くぞ!」
「ひいいいい」
それからも、僕は毎日暮奈さんにしごかれ続けた。武器を持った相手からの逃げ方、上手く隙を作る方法など、最低限の護身術(といっても目的は逃げる事)をとにかく叩き込まれた。
そんなスパルタ訓練でも、僕にとって苦ではなかった。過去に経験してきた苛めとは違って、僕のためを思ってくれてやっているのが伝わってきたから。僕に合ったやり方を模索しながら、無理のない範囲で教えてくれたから。
そしてなにより、僕自身二度とあんな監禁されるような目に逢いたくなかった。自分自身の身を守るため、と言ってしまうとモチベーションの保ち方としては恰好悪いけど。格好良かろうが悪かろうが、結果につながればなんでもいい。
こうして僕は、何十日もかけて暮奈さんに特訓をしてもらった。教えられた事が全部身についているかは分からないけど、前の僕よりは数段体が動かせるようになったと思う。
後に僕は、この特訓のお陰で窮地を逃れることに成功するのだけど――それはまた別のお話。
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